Blue Flower

 他国侵逼のご予言的中の二大意義拝せよ

     「未来亦然るべきか」とは広布前夜の日本

     一国も政権も二悪が鼻を並べている

                              顕正新聞 7月5日(1314)号

 この六月、全顕正会の気魄は凄まじいですね。大法弘通はしんしんと進み、男子部は五万男子部大会を見つめて眦を決し、その中、一国を諌暁する「集団的自衛権」特集号の配布は、すでに百万部を超えている。まさに大地ゆるがす大行進であります。
 すでに学会・宗門は国立戒壇建立の御遺命を抛ってしまった。いま日本国において、日蓮大聖人の御心のままに戦っている仏弟子の大集団は、もう顕正会以外にはない。
 私はいま感じております。仏弟子一六五万の団結の力は、今や日本を動かしつつあると。
 だから、学会がどれほど腐敗しようと、宗門僧侶がどれほど堕落しようと、そんなことはもう関係ない。
 大聖人様は「春を留めんと思へども夏となる」と仰せられる。広宣流布はもう誰も止められないのです。大聖人様は、忠誠を貫く仏弟子の大集団を召し出だし、戦わしめ、広宣流布をあそばすのであります。
 さあ、大事な七月を迎え、いよいよ一重の大信力を起こして、日本を救う戦いを加速させたい。全組織が弾む信心で勝ってほしい。こう念願しておりますが、みなさん、どうでしょうか。(大拍手)
 
 立正安国論の御意を拝し奉る
 
 迎える七月は、立正安国論の月であります。よってきょうは立正安国論の御意を拝し奉りたいと思っております。
 ところで数日前、東京の三鷹で雹が降り、一〇センチも積り、道路が川のようになったと報道されておりましたね。
 立正安国論には仁王経の七難を引いて「六月に氷霜雹(ひょうそうばく)を雨らし」とある。氷(ひょう)とは氷(こおり)、霜(そう)とは霜(しも)、雹(ばく)と雹(あられ)のことです。六月に氷や霜や雹が降ったりする――と。本当にそういうことがあるんですね。
 立正安国論の月を迎えて、今さらながら「仏語は実にして虚しからず」を実感するものであります。
 
 前代未聞の巨大地震
 
 さて、立宗より四年目の正嘉元年八月二三日、前代未聞の巨大地震が日本を襲った。この巨大地震をごらんになって、大聖人様は立正安国論を顕わし給うたのであります。
 立正安国論の奥書には 「正嘉に之を始めてより、文応元年に勘ヘ畢んぬ」と。
 この間、三年間ですね。一筆萬言たちどころに成る大聖人様が、この立正安国論には、三ヶ年の沈思黙考を経られている。以て、立正安国論がいかに重大な御書であるか、深く拝すべきであります。
 大聖人様は正嘉元年の巨大地震をどのようにご覧あそばしたか。
 下山抄には「此の災夭は、常の政道の相違と世間の謬誤(あやまり)より出来せるにあらず、定めて仏法より事起こるかと勘へなしぬ」と。
 また法蓮抄には「此の大瑞は、他国より此の国をほろぼすべき先兆なり」と仰せられている。
 
 悪口罵詈一国に満つ
 
 当時の日本は、爾前の諸経に固執して「諸経中王」の法華経に背く念仏・真言・禅・律等の邪法の悪僧どもが、塒(とぐろ)を巻いていたのです。
 彼らには成仏を求めるなどの道念は全くない。ただ邪法を以て人々をたぶらかし、己れの地位と名誉と利権を得ることしか考えていなかった。その直中に、大聖人様が御出現あそばしたのであります。
 その状況を撰時抄には「第五の五百歳の時、悪鬼の身に入る大僧等国中に充満せん。其の時に智人一人出現せん」と。
 この悪僧たちの群がる中で、大聖人様は「諸宗は無得道・堕地獄の根源である。早く謗法を捨てて南無妙法蓮華経と唱えよ」と大慈悲を以てお勧め下されたのであります。
 悪僧たちはこの師子吼を聞いて、脳天を打ち砕かれたような気がしたに違いない。ここに日本国中の「元品の無明」が一斉に噴き出した。悪僧どもは大聖人を強く憎み、国主・民衆を煽動した。かくて、「阿弥陀仏の敵」と大聖人様を罵る声は国中に満ち、「杖木瓦石」の迫害が起きたのであります。
 
 諸天の誡め
 
 いいですか。これは久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏に対する迫害ですよ。諸天が許すはずがない。ゆえに立宗わずか四年目にして、この巨大地震が起きてきたのであります。
 すなわち諸天は、まず前代未聞の大地震を以て一国を誡める。これが「仏法より事起こる」ということなのであります。
 この巨大地震をごらんになって大聖人様は、「もし国中の謗法がさらに続くならば、日本国の一切衆生、今生には他国の責めを受け、後生には無間地獄に堕する」と、深く深く憂え給うた。
 
 他国侵逼の重大御予言
 
 かくて立正安国論において、「他国侵逼必ずあるべし」との重大な御予言をあそばしたのであります。
 その御予言が次の御文ですね。「先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑わん。若し残る所の難、悪法の科に依って並び起り競い来たらば、其の時何んが為んや」
 「先難」とは巨大地震を始めとする天変地夭のこと。この先難はすでに起きているではないか、どうして「後災」たる他国侵逼・自界叛逆を疑うことができようか。もしこの亡国の大災難が起きたら、「その時いかんが為んや」――と仰せられる。
 さらに「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、壹驚かざらんや、壹騒がざらんや。国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん」と。
 他国侵逼・自界叛逆の二難を、厳然と断言し給うたのであります。
 
 御予言寸分も違わず
 
 この強烈な御予言がもし虚しくなったら、大聖人の仏法のすべてが虚しくなる。
 だが、これより十四年後の文永十二年と、その七年後の弘安四年の二度にわたって、大蒙古が襲来した。
 第一回の文永十一年のときには、平左衛門の「いつ、蒙古は寄せてまいりましょうか」との伺いに対して「経文にはいつとは見え候はねども、天の御気色いかり少なからず、急に見ヘて候。よも今年は過ごし候はじ」(撰時抄)と仰せられている。これが文永十一年四月八日のことですから、「よも今年は過ごし候はじ」とは、わずか数ヶ月以内に起こるとの、ご断言であります。
 
 仏法の鏡に照らして御断言
 
 この御予言は、決して政治・軍事状勢などによって判断されたものではない。だいいち、当時においては世界の状勢などは知るべくもない。今日、日本政府は世界各国に大使館を置いているが、明日のこともわからないではないか。
 大聖人様は、未だ全く萠しもない十四年前にこれを断言し給うたのであります。
 清澄寺大衆中という御書には、こう仰せになられている。
 「日蓮はいまだ筑紫を見ず、蝦夷をしらず、一切経をもて勘へて候へば、すでに値いぬ」と。
 ――自分は未だ九州を見たことがない、東北もしらない。しかし一切経を以て考えたゆえに他国侵逼はすでに符合した――と。
 まさしく仏法の鏡に照らして、このご断言をあそばしたのです。
 さらに深く拝せば、諸天に申し付ける絶大権威をお持ちのゆえに、この御断言ができるのであります。
 
 御予言的中の二大意義 
 
 いいですか。この御予言の符合には、二つの重大意義があるのです。
 一つには、この予言的中により、日蓮大聖人こそ久遠元初の自受用身であられることが証明される。
 もう一つは、日本国の一切衆生を無間地獄の大苦よりお救い下さる大慈大悲であります。
 
 日蓮大聖人こそ久遠元初の自受用身
 
 一について言えば、聖人知三世事には 「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万人に至るまで、之を軽毀して刀杖を加え流罪に処するが故に、梵と釈と日月・四天、隣国に仰せ付けて之を逼責するなり」と。
 「一閻浮提第一の聖人」とは、釈尊・天台・伝教にも勝れたる久遠元初の自受用身ということ。この久遠元初の自受用身を流罪・死罪に処するがゆえに、梵釈・日月・四天等の諸天は、隣国に命じてこの日本国を逼貴するのである――と仰せられている。
 
 無間地獄の大苦救う大慈大悲
 
 また二について言えば、この他国侵逼の御予言こそ大慈大悲なのです。
 すなわち、現世の大罰によって日本国の一切衆生を改悔せしめ、後生の無間地獄の大苦をお救い下さるという、大慈大悲なのであります。
 ゆえに王舎城事には「あへてにくみては申さず。大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」と。
 また佐渡御書には「現世に云をく言の違わざらんをもて、後生の疑いをなすべからず」――現世に言い置いた他国侵逼の予言の的中を以て、後生の堕獄も断じて疑ってはならない――と。まさに他国侵逼の御予言は大慈大悲ですね。仏様の三世にわたる大慈悲というのは、凡夫の思慮の及ぶところではない。
 日寛上人はこの御予言的中について、先ほどの佐渡御書の御文を引かれたうえで「此において暫時筆を閣き、紅涙白紙を点ず」(撰時抄愚記)と記され、大聖人様の大慈悲を偲び奉って紅涙を流しておられる。

 「身命定めて喪わんか」
 
 さて、大聖人様は、この立正安国論を奏進なさるに当って、どのような御覚悟であられたか。これを拝せば、ただひれ伏すのほかはありません。
 いいですか。立正安国論の奏進とは、実に身命を失うことを意味していたのであります。
 当時は武家による独裁専制の時代、しかも悪心を懐く邪法の僧たちは国中に充満している。しかも彼らは権力者と結託していた。その中で国主に対し「謗法を止めよ」と直諌することは、身命に及ぶこと必至だったのであります。
 ゆえに教機時国抄には 「之を顕わさば、身命定めて喪わんか」と。
 この仰せのとおり、立正安国論の諌暁を機として、松葉ヶ谷の草庵襲撃、伊豆の流罪、小松原の剣難、竜の口の死罪、佐渡の流罪と、文字どおり身命に及ぶ大難が波のごとく大聖人の御身に襲いかかってきたのであります。
 「身命定めて喪わんか」との仰せの、何と重いことか。日本国の一切衆生を現当二世に救わんとして、身命を捨ててのこの大慈大悲、ただ紅涙の中に拝し奉るのみであります。
 
 「立正安国論奥書」
 
 また、蒙古の国書が到来した翌年の文永六年に、大聖人様は立正安国論を御自ら清書あそばし、その文末の余白に、御自らの所感を記入されている。これが「安国論奥書」と呼ばれるものですが、その中に「既に勘文之に叶う。之に準じて之を思うに、未来亦然るべきか。此の書は徴有る文なり」と仰せられている。
 まさに立正安国論こそ理論と現証の一致を以て御教示下された、未来永遠にわたる国家安泰の一大明鏡である。ゆえに立正安国論に示された法則どおりに、日本も世界も動いていくのであります。
 
 「未来亦然るべきか」とは今の日本
 
 そして「未来亦然るべきか」とは、別して広宣流布の前夜に、「仏法より事起こる」の大罰が日本国に起こることをお示し下されたものと、私は拝しております。
 
 未だに背く日本
 
 いいですか。日本国は日蓮大聖人を流罪・死罪にして国亡ぶの大罰を受けた。しかし辛うじて国を保つことができたのは、これ大聖人様の冥々の御守護による。
 だが、未だに日本一同は大聖人様に背き続けている。「法に過ぐれば罰あたりぬるなり」(下種本仏成道御書)と。だから日本は、もういつ亡んでもおかしくないという状態になっているのです。
 
 正系門家の御遺命違背
 
 加えて、もう一つ重大な違背がある。それは、この謗法の国を諌めるべき正系門家が、なんと大聖人の御遺命に背いて「国立戒壇」を抛ってしまったということです。
 「仏法は体、世間は影」です。もし正系門家が御遺命に背いたら、国家はどうなるか。
 大聖人様は文永七年の「法門申さるべき様の事」に、伝教大師の正系門家・叡山に事よせて、こう仰せられている。
 「仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆへに、異国、我が朝を亡ぼさんとす」と。
 叡山の仏法は、第三代・四代の座主、慈覚・智証の謗法により、「法華経最為第一」の正義が消滅してしまった。この正系門家の濁乱により、「異国」すなわち大蒙古がいま我が国を亡ぼさんとしている――と。
 この御意を拝せば、下種仏法の正系門下において国立戒壇建立の御遺命が消滅することは、他国の侵略によりこの国が亡ぼされるということなのであります。
 
 二悪鼻を並べる
 
 今の日本は、まさしく国中の謗法と正系門家の違背という二つの大悪、二悪が鼻を並べている。どうして諸天、怒りをなさぬ道理があろうか。
 ここに昭和四七年(一九七二年)の偽戒壇・正本堂の完成以来、中国が急速に台頭し、我が国を脅かす存在になってきたのであります。
 さらに平成二三年には、観測史上最大といわれる東日本巨大地震が発生した。引き続き首都圏直下と南海トラフの巨大地震も近く発生すると言われている。
 仏法の眼でこれを見れば、これらの巨大地震はまさしく「仏法より事起こる」もの。すなわち、一国および門下が日蓮大聖人に背くゆえに起こるのであります。
 そしてこれらは、まさに恐るべき他国侵逼の凶兆であり、同時に、いよいよ広宣流布が事実となる大瑞なのであります。
 
 集団的自衛権は必ず裏目に
 
 いま安倍首相は、激変する客観状勢を諸天の働きとも知らず、「日本を取り巻く安全保障環境が悪化している」などといって、遮二無二、集団的自衛権の行使容認を急いでいる。七月早々にも閣議決定されるとのことであります。
 
 公明党の狡さ
 
 公明党は与党の中で「止め役」ストッパーになるのではないか、などと一部で期待する声もあるが、とんでもないことです。
 彼らの抵抗はポーズだけですよ。「平和の党」という看板の手前、反対するポーズだけは示す。しかし自民党と合意することは、初めから決めていたのです。なぜなら政権離脱を全く最初から考えてないからです。
 
 学会・公明党は憲法違反の存在
 
 公明党は政権離脱を最も恐れている。それは、公明党の存在自体が「政教分離」を定めた憲法に違反しているからです。
 そうでしょう。公明党の実態というのは、創価学会の「政治部」ですよ。これを「公明党」と名づけたにすぎない。だから党の人事も、資金も、選挙も、すべて学会頼みです。そして党の使命は学会を守る、すなわち池田大作を守ることにある。
 あの集団替え玉投票事件や、東京練馬の投票所襲撃事件を見てごらんなさい。未だ曽てない組織犯罪を起こしながら、当時の公明党委員長・竹入義勝が警視総監と談合して、みごとモミ消しているではないか。また学会本部に対する国税庁の査察も、公明党委員長・矢野絢也が圧力をかけてやめさせている。
 まさに学会は公明党という政治上の権力を使って、悪事を隠蔽しているのです。
 憲法二〇条には「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とある。
 この規定に照らせば、創価学会も公明党も、明らかに憲法違反の存在なのです。
 
 政権離脱できない
 
 もし政権から離脱すれば、この実態を自民党から暴かれる。さらに池田大作の証人喚問も求められる。彼らにとってこんな恐ろしいことはない。だから絶対に政権離脱はできない。
 また彼らは政権の旨みを知ってしまった。腐敗が始まったのです。どうしてその旨みを手離せようか。
 というわけで、最初から、政権離脱までして集団的自衛権行使に反対する気は、全くないのです。しかし「平和の党」という看板の手前、文言の修正などという言葉あそびで協議を延ばし、抵抗のポーズを取っていた――というわけであります。
 いいですか。大事の御遺命すら抛った学会・公明党ですよ。集団的自衛権などは、党利党略の取引材料の一つに過ぎない。
 
 安倍政権の中で二悪鼻を並べる
 
 私は先ほど「二悪鼻を並べる」と申しましたが、よく見れば、その象徴が、今の安倍政権にも表われているではないか。
 そうでしょ。一国の謗法を代表して安倍自民党がある。そして御遺命違背の悪の代表として公明党がある。この二悪鼻を並べた政権が、今の日本を引き回わしているのです。どうして諸天が守護しようか。
 
 米国の戦争に組み込まれる
 
 集団的自衛権行使は必ず裏目に出る。見ててごらんなさい。
 安倍首相は「血を流すほどの忠義立てをしなければ、アメリカは守ってくれない」と思っている。だが、アメリカに守ってもらうために集団的自衛権の行使に踏み切ったのに、かえってアメリカの戦争の下請けとなる、アメリカの傭兵になって戦争に引きずり込まれてしまう。
 これが裏目に出るということ。「運きはまりぬれば兵法もいらず」という姿なのであります。
 いまアメリカが目前の問題として手を焼いているのは、中東の争乱、中でもイラクの内戦です。さらに深刻に感じているのが、迫りつつある朝鮮半島の動乱です。これはそう遠くない。そしてさらにその奥にある最大の問題が、中国との覇権闘争であります。
 本年十二月に「日米防衛協力のための指針」いわゆるガイドラインが見直される。これに合わせて安倍首相は遮二無二、集団的自衛権の行使の閣議決定を急いだのです。このガイドラインに、いよいよ米国が望む集団的自衛権の行使容認が組み込まれる。
 そうなれば、やがてアメリカの要請で、自衛隊はイラクヘあるいは朝鮮半島へと派兵される恐れがある。集団的自衛権行使に踏み切った以上、アメリカの要請は断われない。断われば日米安保にヒビが入るのです。
 
 米国は日本を守ってくれない
 
 そのような中、中国はアメリカの動きを見定めたうえで、必ず日本を襲う。そのとき、アメリカは日本を守ってくれるか――。
 アメリカは国益を第一にする。米国本土が核攻撃を受けるという犠牲を払ってまで、どうして日本を守ろうか、そのようなことは絶対にあり得ない。
 かくて日本は寿量品の「自惟孤露・無復侍怙」(自ら惟みるに孤露にして復た侍怙無し)となる。すなわち、世界で孤立して誰も助けてくれないという悲惨な状態になる。
 
 「其の時何んが為んや」
 
 このとき始めて立正安国論の「其の時何んが為んや」「国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん」の仰せが、全日本人の耳に響きわたるのであります。
 先ほどの活動報告にもありましたが、在日の北朝鮮の人が、今も北朝鮮で苦しい生活を送っている親族に、ぜひ会いたい、ぜひ仏法を教えたいとの思いで渡朝し「日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、必ず救われる」と真剣に勧めたところ、始めて聞いた親族たちが、一同に涙を流して信じ、富士大石寺に向かって南無妙法蓮華経と唱えたという。
 北朝鮮の人ですら、ひとたび日蓮大聖人の仏法を耳にするや、心中の仏性が動いてくるのです。
 況んや日蓮大聖人の本国・日本においておやです。
 大聖人様の立正安国論の仰せのとおりに「国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん」が眼前に迫ったとき、誰か信ぜぬ者がありましょうか。
 
 竜の口と蒙古襲来の大現証教えよ
 
 それでもなお、まだ大聖人様の御威徳がわからない、信じ切れない、いう者には、「竜の口」と「蒙古襲来」の大現証を教えていきなさい。
 
 御頸は切れず
 
 いいですか。ただ御一人の大聖人を、日本国中が寄ってたかって御命を奪わんとし、ついには国家権力が御頸を刎ねんとした。だが御頸は切れず、かえって国家権力がひれ伏してしまったではないか。
 このような絶大威徳の仏様が、世界のどこにましますか。諸天が厳然と守護し奉るゆえに、国家権力すら、御頸が切れないのです。
 ゆえに出世本懐成就御書には「設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば、梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給うゆへに、罰しがたかるべし」と。
 「鬼神のつける人」とは、国家権力を握った悪の権化・平左衛門のような者です。このような強大な大悪人でも、大聖人様には梵天・帝釈・日月・四天、天照・八幡等が厳然と守護し奉るゆえに、御命を奪うことができない。この大現証を拝するとき、誰が疑えようか。
 
 諸天に申し付ける絶大威徳
 
 また日本国の一切衆生の無間堕獄をお救い下さるために、他国侵逼の大罰を見せて下さった。すなわち、諸天に申し付けて大蒙古を襲来せしめたのも、諸天に申し付けて大蒙古を撤退せしめたのも、実に大聖人御一人の絶大威力による。
 このような絶大威徳の仏様でなければ、日本は救えない、全人類は救えないのです。まさに日蓮大聖人こそ唯我一人能為救護の御本仏であられる。
 この御本仏を恋慕渇仰して南無妙法蓮華経と唱え奉れば、必ず一生成仏が遂げられる。「何があっても大丈夫」の人生となる。
 また、この御本仏を日本一同に尊崇して国立戒壇を建立すれば、日本は金剛不壊の仏国となる。
 詮ずるところ立正安国とは、国立戒壇を建立すれば日本は安泰になる――ということであります。
 
 滝泉寺申状の重大意義拝せよ
 
 私はこのところ、しばしば滝泉寺申状を引用させて頂いておりますが、この御言は極めて重大ですね。
 いつ、お認めになられたのかというと、実に弘安二年十月十二日の、本門戒壇の大御本尊御建立と同じ時期であります。まさしく熱原の大法難の直中に、日興上人の教化で入信した滝泉寺の住僧・日秀・日弁の名を以て、幕府を諌暁し給うた大事の申状であります。
 
 熱原の大法難
 
 もう少し説明すれば―― 日興上人は、富士南麓の弘通にことに力を入れられた。
 その弘通により、天台真言の大寺院・滝泉寺の住僧である日秀・日弁・日禅等の青年僧が、続々と入信してきた。日秀・日弁らは折伏に立ち、熱原の農民の神四郎殿等を入信せしめた。ここに富士熱原地方に法華講の一団が出現し、折伏の大熱風が起きてきたのです。
 これを見て院主代の行智は大怨嫉を起こした。そして日秀・日弁を寺より追放し、さらに法華講衆を根絶やしにせんと、悪計を企んだ。
 すなわち、法華講衆が大挙して院主代の稲田を刈り取り、日秀の住房に運び入れたとの虚構を捏(でつ)ち上げ、これを告訴するとともに、法華講衆を捕縛して鎌倉へ搬送したのです。
 法華講衆の身を案じて鎌倉に赴いていた日興上人は、事態の容易ならざるを見て、直ちに身延の大聖人様に急報された。そのとき、大聖人様は、日秀・日弁の名を以て申状をお認めになり、鎌倉の問住所へ提出せしめ給うた。それがこの滝泉寺申状であります。
 
 御真蹟に拝する重大の御聖意
 
 私はこのたび改めて、滝泉寺申状の御真蹟を写真でじっくりと拝見いたしました。そして驚いたことがある。
 それは、この御書の中に、大聖人様が御自身の称号を顕わし給うたところが六ヶ所ある。すなわち「日蓮聖人」と仰せられたところが一ヶ所「法主聖人」と仰せられたところが一ヶ所「聖人」と仰せられたところが四ヶ所、計六ヶ所です。
 
 「法主聖人」とは
 
 ちなみに言っておきますが、この中の「法主聖人」という御自称は、御書四百余篇の中で、この滝泉寺申状以外にはない。どういう意味か――
 文底深秘の大法には御主がまします。大聖人様こそ法体の主なるがゆえに「法主聖人」と自称し給うたと、私は拝し奉る。
 日寛上人は観心本尊抄文段に「此の本地難思の境智の妙法に即ち御主有り。所謂蓮祖聖人是れなり」と仰せられている。
 ですから「法主聖人」とは、大聖人御一人のことです。歴代上人は「貫首上人」と申し上げるのが正しい。
 大聖人様は百六箇抄において「白蓮阿闇梨日興を以て総貫首と為し」と仰せられている。
 また日興上人も「時の貫首たりと雖も・・・」と仰せられている。
 さらに日興上人の了性房への御状を拝見すれば、供養への礼状に「法主聖人の御宝前に申上まいらせ候い了んぬ」というお言葉もある。まさに「法主聖人」とは、大聖人御一人のことなのです。
 本宗で歴代上人を「法主」と称するようになったのは、近々、大正以降のことですよ。私は本来の「貫首上人」と申し上げるのが正しいと思っております。
 
 すべてが改行に
 
 これはさておき――もう一度、申します。滝泉寺申状において「日蓮聖人」との仰せが一ヶ所「法主聖人」が一ヶ所「聖人」が四ヶ所、計六ヶ所ですね。
 驚いたことは何かというと、なんと、この六ヶ所のことごとくが、わざわざ行替えになっていることです。前行に余白があるのに、敢えて行を改めて「日蓮聖人」「法主聖人」「聖人」等と頭書されているのであります。
 いま謹んで御聖意を拝し奉れば 日蓮大聖人こそ久遠元初の自受用身・末法下種の主師親、日本を世界をお救い下さる御本仏であられる。
 この大境界を、この御筆づかいに顕わし給うたものと、私は伏して拝しております。
 このゆえに、私がいつも引き奉る「聖人国に在るは、日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。乃至、豈聖人を用いずして徒に他国の逼めを憂えんや」との仰せがいかに重大か。伏して思うべきであります。
 この大聖人様の絶大威徳と大慈大悲を、一国に教える仏弟子の大集団は、もう顕正会以外にはない。
 世の中が乱れれば乱れるほど、顕正会こそ、世間にへつらわず、毅然と敢然と立ちたい。
 さあ、立正安国論の月・七月、明るく堂々と、大地ゆるがす大行進を以て大聖人様に応え奉ろうではありませんか。以上。(大拍手)



ゲスト 3人 と メンバー0人 がオンラインです