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 この二十年間にわたる浅井会長の発言(年頭の辞)に基づき、「広宣流布・最終段階説」の誤謬について吟味してみよう。
 

 1) 広布最終段階

  
  すでに平成12年に、「広宣流布は最終段階に突入」していたのである。ところが翌年、「最終段階を迎えたごとく」と、後退してしまった。
 しかし、平成20年でも言及されるように、現在が浅井会長にとって「広布最終段階」であることは一貫している。
 それが願望に過ぎず、妄想にほかならないと検証するのが、本考の趣旨である。 
 平成23年3月の巨大地震を経て、浅井会長の目には直線コースの先に、「もうゴールが見えて来た」らしい。
 

 2) 大法戦場

 
 平成16年の百万達成が「大聖人御馬前の法戦場に到達」であり、顕正会はついに「御照覧直下の戦い」「最後の戦い」の段階に入った。
 ここまでの「大法戦場」とは、百万達成のことだったのである。では、次の大法戦場は、三百万達成であろうか? 
 ゆえに平成18年には、「急ぎ駆け付けよう」と変化している。「大法戦場に急ぎ到着しよう」(平成21年)、「大法戦場に馳せ参じなくてはならぬ」(平成22年)のごとく、「大法戦場」は蜃気楼のように遠ざかってしまった。
  現在は、遠いかなたの大法戦場への途上であり、もうその大法戦場は到来しないかもしれない。
 

 3) 必ず成る

 
 平成3年には百万達成を、「七年後」の平成10年としていた。平成4年には、「数年後には必ず百万が成る」と述べている。アバウトな浅井会長にとって、七年くらいは数年の範囲らしい。
 平成11年には「平成十四年の百万は必ず成る」と断言していたが、浅井会長の「必ず成る」とは、「必ずしも成らない」という意味であることが(帰納的に)知られる。
  言葉を正しく使うためには、「必ず」とか「全て」とか「絶対」とかという言い様に、よほど注意しなければならない。
 「必ず」と言う人を、、安易に信用してはいけない。「絶対」に安全だ、と国家の威信をかけて保証していた原発の今日の惨状は、言うまでもないだろう。
 

 4) 一国広布の鍵

 
 平成12年、「百万が成れば一千万は必ず成る」と豪語していたが、浅井会長の「必ず成る」であるから、やはりそうはならない。 
 百万達成後、顕正会の年間の会員増加数を見れば、むしろ減少・横這い傾向にある。昨年末の最終法戦も今年の初陣の法戦も、かつてなかった誓願未達の惨敗を喫してしまった。 
 百万達成が「一国広布の鍵」であり、その鍵を開けさえすれば加速度的に弘通の勢いがつくだろうというのは、浅井会長の空しい期待・幻想に過ぎなかった。かつての創価学会の躍進が忘れられないのだろうが、経済成長期の当時と今とでは状況があまりに違う。そして「一国広布の鍵」は、「広布の鍵たる三百万」(平成17年)に、先送りされてしまった。
  こうして、「一千万」という言葉は顕正会で死語となってしまったのだが、東日本の大震災を経て国民投票こそ国立戒壇建立の関所として、新たに「六千万」が打ち出された。
 

 5) 残された時間は、あと〇〇年

 
 平成7年の時点では、残された時間は「あと二十年」だった。この「残された時間」の意味するところは、一千万達成までに残された時間ということだったろう。
  そして、平成9年の発足四十周年記念幹部会では、「日本を揺り動かす力は、五十万ではとうてい足りない。百万、二百万、三百万でも足りない。五百万でもまだ足りない。… やがて他国侵逼が事実となって、仏弟子一千万人の諌めにより日本国が一時に信ずるとき、この戦いは終わるのであります」と述べ、浅井会長は「仏弟子一千万人の諌め」を広宣流布への重要な要因と規定した。 
 ところが、時過ぎて平成21年。平成7年に「あと二十年」とされた残された時間は、さらに「あと十有余年」と先送りされた。
 これは、何を意味するだろうか ?  一千万を放棄すれば、三百万までに残された時間、としか解釈のしようがない。目標は三百万に縮小されても、残された時間はいつも変わらない。
 今の「六千万」も、同様。いつまで経っても、「残された時間は、あと◯◯年」なのだ。顕正会員諸氏よ! だから無茶な「御奉公」に、のめり込んではいけない。
 

 6) ゴールが見えて来た

 
 「もうゴールが見えて来た」との言葉に、あと十有余年で広宣流布が実現すると思い込んでいる顕正会員は、少なくないだろう。だが、そうではないのである。
 ここで「ゴール」と言うのは、浅井用語で「大法戦場」と同じく曖昧であり、三百万か一千万か六千万なのか、よく判らない。「ゴール」の意味を明確にせず、会員にそれを「広宣流布」達成と思わせ(錯覚させ)てしまうのは、詐欺師の常套とする話術と同じである。
 「消防署の方から来ました」と言って、消火器を訪問販売する手口と大差ない。
 

 7) 私は確信している

 
 平成19年の年頭の辞で、「そして今、第二の五十年を迎えた。この五十年のうちに…広宣流布・国立戒壇建立は、必ず成ると私は確信している。五十年の中にもその前半にと、私は深く願求し祈請している」と、浅井会長は述べている。
 顕正会員諸氏には、この会長発言をよくよく、熟読玩味して欲しい。「この五十年のうちに…広宣流布・国立戒壇建立は必ず成る」というのは、ただ浅井会長の個人的な「確信」であり、「思い入れ」に過ぎない。
 「確信」と云っても根拠がなければ、ただの幻想・妄想と違いはない。そして、「願求し祈請し」が願望であることに、誰も異論はないだろう。
 浅井会長の「必ず成る」は「必ずしも成らない」で終わるし、その時期は「この五十年のうちに」という、まだ遠い先のことだった。
 

 8) 破綻しているシナリオ

 
 顕正会員諸氏は、浅井会長にかくも馬鹿にされているということに、もうそろそろ気づかなくてはいけない。
 浅井シナリオを真に受けたとしても、「この五十年のうち」にすでに浅井会長は、この世にいないではないか。自分の発言に何ら責任を取らず、「ハイそれまでよ~♪」ということなのだ。
  お応えすべき「無二の師匠」がいなければ、顕正会員は何もできない。三百万も一千万も六千万も、雲散霧消である。「六千万・国立戒壇の大事は必ず成る」というシナリオも絵に描いた餅であり、実は破綻していたのだ。
  すでに、「仏弟子百万人の諌め」が何の効果もなかったことは、実証済みである。だから、浅井会長の「広布最終段階説」は幻想・妄想に過ぎないと、わたしは敢えて論断するのである。
 
 
 どうだろうか? まだ説明が、不充分だろうか?
 顕正会員諸氏には、小生の言わんとするところを理解することは、困難だろうか?
 
 顕正会で、どれほど頑張って真摯に「先生にお応え」しても、残るのは先生に欺かれたみじめな一生でしかない。かけがえのない人生、それで果たして満足だろうか?
 これは古参会員から、現役活動会員への切なる「忠言」である。顕正会員諸氏にはどうか、よく考えていただきたい。 (櫻川 記 2013,04/03)
 
 

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