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 御法主日顕上人猊下御講義 第53回全国教師講習会の砌


 事の戒壇の本義について

                      平成十六年八月二六日(於総本山大講堂)
 
 本年度の私の講義内容については、昨年に引き続いて『百六箇対見之記』に関してお話ししようと考えていたのであります。
 けれども、ここにおいでになる皆さんのなかには最近、若い人も非常に増えてきておりますし、宗門の終戦以来の流れとか歴史というようなことに、直接的には当たっていない人も多いと思いますので、けじめをつけるという意味からも、今年は『百六箇対見之記』の講習をやめまして、大聖人様の御法門のなかの特に「戒壇」ということについてお話ししたいと思います。
 

  御書に見られる戒壇の御法門

 
 この戒壇ということの内容は、実際問題の上において色々と表れてきて、その後の色々な経過の形があって、そのなかから現在の宗門の姿があるわけです。
 この戒壇の意義においては、例えば、正本堂が解体されてなくなったから、それで戒壇の意義は全くなくなったなどと言うのはとんでもない話で、大聖人様の三大秘法の教えは未来永劫に、我々がこれを拝しつつ、実践をしていかなければならないのであります。その面からも、いわゆる大聖人様の一期の御化導を拝するなかで、戒壇ということに関しての終戦後の流れのなかから、特に若い人は色々と知らない人もかなりあると思うのです。そういうことも考えながら、申し述べてみたいと思います。
 
 まず、大聖人様の一期の御化導における肝要は三大秘法でありますが、このうちで宗旨建立以来、自らもお唱えあそばされ、衆生をも導かれたのが本門の題目であります。さらに、本門の題目の上からの法華経を身に当ててお振る舞いあそばすところの在り方から、それが佐渡における本尊の開顕となるのであります。そして最後に戒壇という御指南があるのですが、そもそも大聖人様が三大秘法の名目を明らかにお示しになったのは、佐渡からお帰りになって身延に入られ、直ちに御著作になった『法華取要抄』であり、そこにおいて初めて、「本門の本尊と戒壇と題目」(御書736ページ)という名目を顕されたのであります。
 もっとも、その前に『法華行者値難事』の追申において、ややそれに近い、三大秘法の内容と思われる御指南がありますが、これはあくまで追申でありますから、正規の著述という上からは、まだ本門の三大秘法の名目をはっきり示されていないのです。つまり『開目抄』にも『観心本尊抄』にも示されていないのであり、これをはっきり顕されるのが『法華取要抄』であります。もちろん、三大秘法のなかの特に本尊の人本尊、法本尊の意義については、既に佐渡の国で開観両抄ほか、様々な重大御書のなかにお示しになっておるのですが、ただ三大秘法中の戒壇ということに関しては具体的には何もないのです。

 しかし、また一期の御化導から拝しますと、大聖人様が二十一歳の時に、一番最初に著作されたのが『戒体即身成仏義』であり、戒についてお示しになっているのであります。これには実に不思議な意味を感ずるのです。そのすぐあとに『戒法門』の御法門もありますが、これはもう少し一般的な意味を持っておるのであり、そのあとはほとんどが、戒定慧のうちの定慧の法門が芯になって、ずっとお示しになっておると思われます。
 しかるに戒壇については、今言いました『法華取要抄』以降において、本門の本尊・戒壇・題目という三大秘法の名目を挙げられた御指南があります。ところが『法華取要抄』にも、さらには三大秘法のうちの本尊と題目の内容をはっきり述べられた『報恩抄』においても、ただ、「本門の戒壇」(同1036ページ)とお示しになっているだけで、戒壇の内容については全くお示しになっておられません。
 弘安に入って『本門戒体抄』という御書があるけれども、これは受戒のほうからの本門の意義を戒体として述べられておるわけですから、直ちに戒壇ということの御指南ではなく、それとはまた少し違うのです。もちろん戒壇で戒を受けるわけだから、当然、関係はあるけれども、特に戒壇そのものの法門という意味ではないのです。
 また、『教行証御書』は建治3年にお示しの御書ですが、これは良観が特に戒ということを言っておるので、その良観を破折し、対応する意味から、大聖人様の御化導中の戒ということをおっしゃっております。特に、有名な「金剛宝器戒」の御文を示されて、本門の妙法蓮華経の戒が最高の戒であるということが述べられておるのであります。しかしこれは受持即持戒ということからして、定慧の二法が広まれば、受持即持戒が本門の法体の上に、その功徳が明らかに成ぜられるのです。したがって、その意味からは、戒法を受持する場所がそのまま戒壇であると拝せられるのであります。
 
 ところが、大聖人様は個人個人の成仏ということだけでなく、法界一切衆生の成仏という上から、当時の在り方として、南都六宗の時には聖武天皇と鑑真和尚、それから桓武天皇と伝教大師というような意味をさらに進めたところの、本門における国主と僧侶との上からの教導においての戒壇の在り方を示されておるのであります。
 そこで戒壇ということが、ほかの本尊や題目と違う意味は、特に大聖人様の御法門においては「事相」ということが存するのであります。文永十年七月六日の『富木殿御返事』のなかに、元は漢文でありますが、「伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす。但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕はせり。事相たる故に一重の大難之有るか」(同679ページ)という御文があります。
 これは伝教大師のことを示されておる御文ですが、この前の文とあとの文は、ともに大聖人様御自身の御弘通の上からの妙法蓮華経の御法門をお示しになっており、この御文はそれらに挟まれているのです。なぜ、ここで唐突に伝教大師に関する文が出てくるのかということは、この文を拝してみると、その意義を拝する拝し方に、ある深さを感ずるのです。
 すなわち、この御文は漢文のため、「伝教大師」と「御本意」の送りがなについては、今までに色々な付け方がありました。古いところで『高祖遺文録』は「伝教大師御本意円宗ヲ…」とあって、「師」と「意」の下の送りがなはありません。日蓮宗の『昭和定本』と宗門の『昭和新定』は「伝教大師御本意ノ…」となっており、「師」の下の送りがなは付けていないのです。『縮冊遺文』は「伝教大師ノ御本意ノ…」と両所が「ノ」になっており、また創価学会から出した堀日亨上人の『御書全集』も、初めは「伝教大師の御本意の」となっておりましたが、のちに「伝教大師は」と改めております。つまり前後の文との関連から「伝教大師の御本意の円宗を…」と読むと、「大聖人様が、伝教大師の御本意であったところの円宗を日本に弘めんとされた」という意味で、大聖人様のお立場にも通ずる意味をおっしゃっておるようにも取れるわけです。ところが「伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす」ということになると、これは、前後は大聖人様御自身の弘通のことをおっしゃっておるけれども、この部分だけはあくまで伝教大師のことを特別に挙げられていることになります。
 宗門で出しておる信徒用の御書、いわゆる『平成新編御書』のなかでは、ここは「伝教大師は」と変えてあります。これでもよいとは思いますが、私としては『昭和新定』『昭和定本』と同じく、むしろ「伝教大師御本意の円宗を日本に弘めんとす」というように、「伝教大師」のあとには「の」も「は」も付けない読み方もよいのではないかと思うのです。これならば、伝教大師が弘められ、また日蓮がこの意義をもって三大秘法の上の戒の法門を弘めるのである、という両方の意味に取れるのでよいのではないかと拝するわけであります。
 それはともかく、私がここで何を言わんとしているかというと、ここの御文に「事相たる故に一重の大難之有るか」ということをおっしゃっておるのです。たしかに、皆さんも御承知のように、戒壇は事相であります。事ということは、実際の問題なのです。
 
 現在、ありとあらゆる宗旨の著述が無量無数にありますが、それがどんなに難しい法門でも、また広く深い法門でも、法門の法理というのはみんな、内容的には定と慧になるのです。それに対して、戒の本義を具体的に顕そうとすると、これは事相ということになるから、実際の問題なのです。ただ単に口で言うだけなら、どんなことでも言えます。まことに逆しまなことを、さも本当のような形で言うことだって、理屈としては、言えるわけです。しかし、実際に戒を顕すということにおいては、事相という実際の問題としてのこととなりますが、いい加減なことでは済まされない、つまり、はっきりとした形でなければならないということであります。
 例えば、御承知のように、伝教大師は迹門の戒壇を建立しようとして勅許を願ったけれども、当時は国主である天皇の許しがなければ、そういう戒壇を建てることができなかったのであり、したがって、南都六宗の反対に遭って、在世中には結局、建立できなかった。そして伝教大師の滅後、天長四(827)年、第五十三代淳和天皇の時に、伝教大師の弟子の義真が叡山の座主として、やっと大乗円頓戒壇を建立できたということであります。
 それより前に出来た小乗の三戒壇は、第四十五代聖武天皇の勅によって東大寺の戒壇が建立され、また天平宝字五(761)年に、第四十七代淳仁天皇の勅によって建立された下野の薬師寺と筑紫の観世音寺の戒壇、これを天下の三戒壇と言ったわけです。もちろん、これは一番最初に日本国に出来た、国で定めた戒壇であります。
 
 さて、大聖人様が戒壇ということをはっきりおっしゃったのは『三大秘法抄』の、「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて云云」(同1595ページ)という有名な御文です。この所に「王法仏法に冥じ、仏法王法に合」するというところからの王法と仏法の関係が、はっきり述べられておるわけです。
 もう一つは『一期弘法抄』で、「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同1675ページ)というなかに「国主」という語があるのですが、今まで言ったように、小乗の戒壇、大乗円頓の戒壇は国主の、つまりその当時としての国主は天皇だったわけですから、天皇の勅命があって初めて建てることができたという意味があります。
 

  日本史における政権の変遷と「国立戒壇」思想の発生

 
 鎌倉時代には、やはりそのような在り方の上から当然、戒壇を勝手に造るということはできない意味もあったし、また当時は、天皇が政治をするのではなく、鎌倉幕府というのが存在したのです。その上から、当時は特に将軍の副申書というような形もあったようでありますが、『三大秘法抄』においては、「勅宣並びに御教書」(同1595ページ)ということをおっしゃっておるわけです。要するに、天皇が定めているところの法の処置乃至、裁断という意味を含めての王法ということ、あるいは国主ということをおっしゃっておると思うのであります。
 それから時代がだんだんと移り変わってきて、明治維新になったのです。そして明治22年2月11日に憲法が発布されたのでありますが、これは欽定憲法、いわゆる天皇の命令によって決められた憲法なのです。徳川時代には幕府が決めたことがあり、またさらに藩が自分に都合のよいような意味でその国々ごとに法令を作って、色々な実情において国民生活は縛られていた面が非常に多かったわけであります。しかし明治に入って、いわゆる自由民権という考え方等も色々あり、自由ということが非常にはっきりしたわけです。
 まず明治憲法では居住と移転の自由というのがあります。これは、どこに住んでもよいということで、それ以前は、どこかに勝手に住むことは浮浪者か、あるいは旅人のような者でなければできなかったということもあります。また信書の秘密の自由があり、所有権の自由があります。
 そして一番大事なのが、信教の自由ということが明治欽定憲法では示されておるのです。何を信じてもよい。昔は寺請制度というのがあり、その寺ごとに人別帳があるものだから、そこから離れて勝手に宗旨を変えることが不自由だったのです。そういうような意味からも、明治の憲法において信教の自由が謳われたというところに、「自分は今まで念仏を信仰したけれども、今度は南無妙法蓮華経を信仰しよう」ということが自由にできるようになったのです。そういう点では、明治の憲法が非常によい意味があったわけです。故に、法難ということもなくなったのです。徳川時代には、宗門でもたくさんの法難がありました。これはみんな、信教の自由がそれぞれの藩のなかにおいて閉ざされていたということから来ているのです。
 そのほかにも言論の自由、著作の自由、印刷発行の自由、集合の自由、結社の自由と、みんなも知っているだろうけれども、こういう自由が欽定憲法においてはっきり示されて、明治以降の民権の意味がある程度、謳われたわけであります。
 そして戦後の日本国憲法、いわゆる新憲法が昭和21年11月3日に公布されました。この時に改正された新憲法と明治憲法との一番違うところというのは、明治憲法では天皇主権であり、国民に自由はあったけれども、あくまで天皇が主権であるという次第でありました。ところが新憲法のほうでは、国民に主権があるということになったのです。そこに大きな違いがある。
 
 さて、こういうことが今まで宗門のなかで色々と論議されてきた戒壇に関する考え方に、非常に大きな影響を与えておるのです。すなわち「国立戒壇」という語がありますが、この国立戒壇という考え方は天皇主権という明治憲法が背景になっているのであります。天皇主権ですから、もし天皇がその気になって、私はこの信仰をするということになれば、国教にすることだって可能だったかも知れません。実際にはならなかったから、そういうことになったときに、どういうようなことが起こるか判りませんが、あるいはずいぶん反対も起こり、大変なことにもなったかも知れないけれども、一往、制度の上では天皇主権だから、それができないとは言えないのです。実行しようとすれば、できる可能性が充分あったわけだから、そういうことのなかから、天皇の法華信仰によって皆帰妙法が日本国に行える可能性はあった。そこで、これを言ったのが、国立戒壇という語であります。
 これを、浅井昭衛が指導するところの妙信講・顕正会においては、徹底して国立戒壇を言っているのです。彼らは絶対に国立戒壇でなければ、大聖人様の仏法に照らして間違っているのだと言うのです。そこで、こういうことは若い人も割に知らない意味もあるのではないかと思い、今回、これについて話をしようと思ったのであります。

 この国立戒壇という名称は、日達上人もこの問題が起こってからずいぶんたくさん、ありとあらゆる機会におっしゃって御指南あそばされましたが、要するに、大聖人様の御書のなかに直接に国立戒壇という語はどこにもないのです。ただ最後の『一期弘法抄』において、「国主此の法を立てらるれば」という御文があります。この「国主」の語には人格的な意味があるが、国の上から人格的な意味を示すと、結局、天皇になるのであり、だから国が立てるというのと、国主が立てるということは、実には意味が違ってくるのです。むしろ、あの御文から拝するならば、「国立」でなく「国主立」と言うほうが、内容的には適切ではないかという意味もあります。まして、その後において宗門の御先師の方々が大聖人様の三大秘法の御法門について色々な面から述べられておるけれども、「国立」という語をおっしゃった方は、明治以前は一人もないのです。今も文庫に御先師の文献がたくさんあるけれども、どこを探しても、御先師が「国立」ということをおっしゃっておる文はありません。
 これは要するに、明治14年4月に田中智学が国柱会の元となる結社を作ったのですが、これが日蓮宗から出て在家仏教的な形から大聖人様の仏法の一分を宣揚しようとしたわけです。そこで明治36年に講義をした『本化妙宗式目』という書があり、そのなかに、「宗旨三秘」を説くなかの「第六科・戒壇の事理」という内容があるのです。その第一項が「即是道場理壇」で、第二項には「勅命国立事壇」というのがあって、理壇と事壇、いわゆる事壇のほうは「事の戒法」と言われるところの『三大秘法抄』の勅宣での意義を取ったのでしょう。それが勅命であり、国立戒壇だということを初めて言ったのです。
 そして、そこには事壇の出来る条件として、まず大詔が喚発されると言うのです。つまり天皇の勅令が発せられると、一国が同帰になる。つまり、ありとあらゆる宗旨がいっぱいあるけれども、この意見からするならば、一国がことごとく妙法に帰する。しかも政教一致であると標榜しておるのであります。さらに国家の統一を中心として、その一大勢力を作って世界の思想・宗教を妙法化せしめるということを言っておるのです。そういう意味から、国柱会が初めて、国立戒壇という語を言い出したわけであります。

 それでは我が宗門でも国立戒壇ということを言っていたかというと、国柱会の田中よりあとで、やはりおっしゃっているのです。前述のように明治に田中智学が言い出しましたが、そのあと大正年間においては、例えば日柱上人も当時の出版文書に色々と大聖人様の御法門を述べられたけれども、そのなかには見当たらないのです。また日応上人の文中にも拝することができないと思われます。これは実を言うと、昭和になってから出てくるのです。
 このいきさつというのは、当時、田中智学が国柱会の前に標榜していた蓮華会というのがあって、それと宗門の御先師の方とが法論をしたのです。『富士宗学要集』にはその顛末が載っていますので、読んだ人もあるでしょう。ずいぶん往復の問答があるのです。私も若いころに読んだけれども、その内容はほとんど本尊論で、戒壇論には全く触れられていないのです。
 けれども、それからずっとあとの昭和になってから、また他門との問答があったのです。その問答のなかで、「国立戒壇では何を御本尊にするのだ」という内容になった時に、向こうは「その時になって決めればよいのだ」などと色々なことを言ったのですが、こちらはきちんと「国立戒壇というものはとにかく、正規の戒壇を国家において造るときには、本門戒壇の御本尊様を安置しなければならない」ということを述べて、その論議の時に向こうが国立戒壇ということを言ったわけなのです。その論議においては、国立戒壇という名称に主眼があったのではなくて、御本尊をどうするかということが、その内容だったのだけれども、向こうがその意味において使うたものを、こちらも使ってしまったわけです。そういうことから、宗門のなかでも国立戒壇という名称の使用が出てきたわけであります。

 そこで、少なくとも昭和20年の終戦以前は、要するに欽定憲法だったわけですから、あくまで天皇主権なのです。したがって、国立戒壇ということを論ずるには、どうしても天皇の許可を得るということが一番の根本・中心になるということの考え方だったのです。そのような状況のなかで、国立戒壇ということは、宗門では日淳上人が28歳の時におっしゃっております。だから当然、御登座になるずっと前の、まだ若い青年僧侶のころのことで、御登座されてからおっしゃっているということではないのです。ただ、そのような在り方のなかで、向こうがまず国立戒壇ということを御本尊に関してのなかで言ったから、こちらもそれに対応した形で国立戒壇という言葉を使ったというようなことだと思われます。
 さて次に、総本山第五十九世日亨上人は昭和4年に書かれた『富士大石寺案内』において、戒壇は国立戒壇であるということを、はっきりおっしゃっております。もちろん昭和4年ですから当然、欽定憲法下における天皇の裁可による国立であるということをお考えになっていたと思うのです。
 
 ところが、それから時代が進んで終戦後には、先程も言ったような形での新憲法が公布になり、国民主権となるわけです。それと同時に、今度の新憲法においては、明治欽定憲法でははっきりしていなかった政教分離ということが、憲法第二十条ではっきり示されているのです。政教分離だから、政治の上からは絶対に、宗教に関与してはならない。そして宗教もまた、政治を利用してはならない。政治と宗教は全く別個のものとして、はっきり切り離さなければならないということが今の憲法なのです。
 それからいくと、国民主権になっているのだから、田中智学が言ったような形での戒壇建立のため、天皇が裁可・決定するということは絶対にできないわけで、やはりこれは国民の総意でなければならないということになります。それからもう一つは、政教分離ですから、国教にするというようなことは、今の憲法下においては絶対にできないのです。
 ただ浅井は、みんなが信仰するようになれば、その時に憲法を改正すればよいというようなことを言っているようです。もちろん、そのようになれば憲法改正ということも理論的にできないことはないでしょうけれども、しかし、その元として、「国が立てる」というところの「国」というものが、「王法」ということの解釈から言って、はたしてどうなのかという問題があるのです。この王法ということについては、あとからも出てくるけれども、浅井の問題や色々なことがあって、『三大秘法抄』の王法をどのように考えればよいか、宗門でも色々な解釈をしたのです。浅井は、王法というのはあくまで国の統治主権であり、その統治主権においてこの王法があって、それと仏法とが一つになるということだと言うのです。
 ところが、民衆立を主張し、正本堂を事の戒壇、御遺命の戒壇というところにまで持っていこうとした池田大作の間違った野心からすると、それでは絶対に困るのです。だから王法は、政治や経済・教育など、国民生活全般のありとあらゆるものを含んだ内容だというようなことを言っているわけだ。要するに、それは必ずしも天皇によるのではないということです。また実際に、この憲法が出来た以上は、天皇の力ということでは絶対にできない。それも憲法が改正されて昔のようになれば別だけれども、現在はそういう次第であります。
 

  創価学会と国立戒壇論

 
 そこでおもしろいのは、戸田城聖という創価学会第2代会長になった人がいました。この創価学会というのは、そもそも牧口初代会長が創価教育学会というものを初めに作ったのです。それが戦後において宗教法人を取得して、創価学会という宗教法人の形になったわけです。その前は創価教育学会という一つの集まりで、別に法人でもなければ宗教的なものでもなかったのです。ただ、その考え方が、利・善・美という哲学だったのです。とにかく牧口さんは非常にまじめな人で、戦前において自分でかなり折伏をしたのです。つまり牧口さんは『大善生活実証録』というものも出して、大善ということは日蓮大聖人の仏法だというようなことでやっていました。そして皆さんも知っているとおり、昭和18年に特高警察に捕まって、そのあと獄中で亡くなったわけです。
 その後、牧口さんの最大の弟子であると同時に理解者でもあり、跡を継いだのが戸田城聖という人で、昔は城外といって、城聖と言い出したのは少しあとからです。あの人も捕まって牢屋に入っていたのだけれども、終戦直前に解放されて出てきたわけであります。そして昭和25年11月12日の創価学会第5回総会の時、「国立戒壇」を仏勅であると初めて述べた記録があります。次は昭和26年5月3日、常泉寺で創価学会の会長就任式があり、この時にはこういうことを言っているのです。
 「牧口先生は、謹厳実直な方で、わたくしとは性格が正反対で、夜なかにいたるまで先頭に立って折伏をつづけられ、会員は後の方で、ヤアヤアと掛け声ばかりであった」(戸田城聖先生講演集上51ページ)
 つまり牧口さんは御自分でどんどん折伏をやるから、会員は後ろのほうで掛け声をかけていて、あまり折伏をやらなかったというような意味です。そして、この次に言っているのがおもしろいのですが、「わたくしは、先生とは反対に、後に立って、みなさんを指揮し、広宣流布に邁進したい」(同ページ)
 だから私は、自分よりおまえさん達に折伏をやらせるということを、ここで言っているのです。ところが、その次に、「天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに、御本尊様を持たせることだ。こうすることによって、はじめて国立の戒壇ができるのである」(同ページ)と言っている。
 これは昭和26年だから戦後のことですので、当然、戸田さんは新憲法の意味を知っていて、その上から言ったことだと思うのであります。だから、ここでの方法論としては戦後の憲法の内容を言っているわけなのです。けれども、昔から来たところの国立という、田中智学が言い出した名称だけは一人歩きしているような形で存在していたわけです。

 また、そのころ国立戒壇ということは、日亨上人が昭和25年に学会の書物のなかでお書きになっております。特に26年5月3日に戸田城聖氏が、今挙げた国立戒壇に関する発言をしたけれども、その内容は、昔のような天皇主権による天皇の許可ということではもちろんなく、国民の一人ひとりが主権であるという背景からの折伏ということを言っているのであります。この辺は時代が違ってきているわけてす。
 それから次に、26年には、日亨上人が『大白蓮華』に載った『富士日興上人詳伝』のなかで、国立戒壇とお書きになっておる。また戸田氏は、このあとも講演や論文で6回ほども国立戒壇に言及しております。
 また昭和30年に初めて国立戒壇の語を池田大作が言い、31年4月1日には時を同じくして戸田城聖氏と池田大作が国立戒壇に言及しておるのであります。さらに31年の5月1日と5月3日に、戸田・池田両名がそれぞれ述べている。そして昭和31年8月、31年11月、32年6月1日に、戸田城聖氏が国立戒壇の意義を述べておるけれども、先程も言いましたように、大聖人の仰せの戒壇についての見方として国立と言うけれども、名前だけなのです。既に戦後の創価学会の再建の時に、天皇陛下の建立ではないということを言っているのであり、ただ国立という名称だけがずっと使われていたのです。
 また32年12月16日に池田大作がやはりこれを言っておりますが、これもおそらく戸田氏の考え方に基づいて、池田も当然、天皇のことではないという意味で言っていたわけであります。それで33年4月2日に戸田城聖氏が亡くなって、33年4月3日には池田大作が国立戒壇という上から不開門を開くのだということを言っているのです。そして33年5月1日、33年5月18日、33年12月7日と、ずっとこの国立戒壇ということを言っておるのであります。

 この間、宗門の方はあまりおっしゃっておらないけれども、34年1月1日に日淳上人が新年の挨拶のなかでおっしゃっております。それから34年1月1日に池田大作は国立戒壇を言っておるけれども、これも一人ひとりの納得の戒壇であり、国教ということではないと述べておるのです。これは戸田氏の考え方をそのまま受けておると思われます。そして34年6月4日、ここでは国立戒壇建立のための選挙戦に勝利した旨を称揚しています。
 さらに35年1月1日には日達上人がやはり国立戒壇ということをおっしゃっておる。日達上人はあまり国立戒壇ということをおっしゃっていないのだが、この35年1月1日の時に初めて、国立戒壇を標榜されておるのです。でも、こういうのはおもしろいもので、国立戒壇の名称は田中智学が言い出して、先程も言いましたように天皇主権のもとの内容だったのですが、戦後においてはそうではなくて、民衆の上からの国立という形で、ずっと名称だけが一人歩きしてきたということであります。
 それから35年6月1日に女子青年部共同研究、36年4月6日には日達上人がまたおっしゃっておる。あとは、小泉隆とか秋谷城永とかが色々と言っておるわけですが、そういう形であります。
 

  正本堂の定義

 
 次に、正本堂ということが、これは解体されているけれども、やはり一つの流れとしてあるわけです。皆さん、正本堂の名称は一体どこから来ておると思いますか。これは、まず『百六箇抄』に、「下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書1699ページ)という御文がある。この御指南が、宗門においては戒壇建立に関する一つの基本をなしておると思うのです。
 これは日淳上人や日達上人の御指南もありましたが、叡山とは全く違っておる意味があるのです。叡山の場合は根本中堂というのが中心にあり、あれが本堂で、戒壇堂は別なのてす。根本中堂よりもずっと小さいもので、それが僧侶が受戒する所であります。南都の小乗の戒壇に対する大乗円頓の戒壇と言っても、そういう意味での特別な戒壇堂というのがあったのです。
 ところが、この『百六箇抄』の御文からすれば、「三箇の秘法」だから、これは戒壇も当然、含むわけです。また、その戒壇は「富士山本門寺の本堂なり」ということだから、本堂がそのまま戒壇であるということ、要するに、これは事の戒法ということがそのまま戒壇の意義を持つことの上からも、根本の御本尊様がおわしますところの本堂がそのまま戒壇の堂であるということです。それが「富士山本門寺の本堂なり」という御指南で、これが『百六箇抄』にあるのであります。

 けれども、これはまだ本堂であって「正」が付いていないのです。どこで正が付いたかというと、これが実は日淳上人なのです。「そんなことはありませんよ、もっと前にありますよ」という人がありましたら、私の間違いということで指摘してください。だけれども、色々と調べた結果、30年10月に日淳上人がおっしゃられたのが初めだと思うのです。
 これは当時、高田聖泉という人が『興尊雪冤録』というのを出して、宗門の在り方やなんかを色々と間違って書いたのです。そのなかでは「本門戒壇の大御本尊は戒壇院の本尊だ」というように、叡山の在り方を中心に考えたのだろうが、あくまで戒壇ということからすれば戒壇院だと誤解して言っております。つまり先程言った、直ちに本堂という考え方がないから、そのように考えたと思うのですが、そういう意味で日淳上人がこの『興尊雪冤録』を破折している文章のなかに初めて「正本堂」という言葉が出てくるのです。
 そこで私が思うには、根本の『百六箇抄』の「富士山本門寺の本堂なり」という御文からいくと、本堂にはそのまま正しい御本尊を安置するという上において「正」という字を付けるべきであると日淳上人がお考えになり、正本堂という名称としてお示しになったのが一番最初だと思われるのであります。
 ところが、おもしろいのは、戸田城聖氏の著述はたくさん残っているが、その著述のなかで、正本堂ということは1ヶ所も出てこないのです。全然、どこにもないのです。だけれども、池田大作は戸田先生の遺言として正本堂を造りなさいと言われたということを言っているわけだ。これは、池田は色々とうそを、言う人ですから、うその点も多々あるかとも思うのだけれども、私の推測なのだが、その流れから言えば、やはりこのところはそう言われたという意味もあったのかなと思うのです。なにも池田だからといって必ずしも全部うそだと、私は絶対に言いません。だから、そういう面も多少あったのではないかと思うのです。

 それというのも、これはどうかとも思うのだが、池田が日記を書いていて、この日記というのが「正本堂」が出てくる池田の一番最初になるのです。もちろん日記などというものは、文章を作っておいて「この日のものだ」と言えばそれでよいのだから、あとからいくらでも作れるかも知れないけれども、とにかく、昭和32年10月12日の池田の日記に、「広布の総仕上げの、第一歩たる、正本堂」(若き日の日記4―54ページ)というのが出てくる。これは一往、あとから出版されてはいるけれども、公的なところで言っているわけではないし、どうも私には眉唾のように思えるのだが…。
 また同じく昭和33年7月31日の日記にも、池田大作は、「七年後……大客殿建立。また七年後…正本堂の建設」(同5―35ページ)ということを書いてあるのだが、これもどうも、あとから書いたのではないかと、直感的には感じられる。しかし、けっしてそう断定はしません。
 ただ、実際に言ったのは34年1月1日に池田大作が、国立戒壇建立の時には正本堂が出来て、戒壇の大御本尊様が奉安殿より正本堂へお出ましになるということを、はっきり言っている次第であります。さらに34年8月9日にも、正本堂へ大御本尊様がお出ましということを言っている。このような意味で正本堂ということを言いながら、奉安殿が出来たあと、この大講堂が出来たこともあり、そのあとは大客殿と正本堂を造りなさいということを戸田氏が言ったと言っているわけです。そして34年11月17日には、日淳上人が御遷化あそばされました。それから35年4月4日に初めて、さっき述べたように、戸田城聖氏の遺言で正本堂を造れと言われたと、池田大作が言うのです。
 だから昭和32年の池田の日記からすると、日淳上人が初めて正本堂と言い出されたのが30年だから、かなり時間が短いと言える。しかし、日淳上人が戸田氏と色々な面で話をされていたことは当時、私達もたしかに目にしておりますから、したがって、日淳上人がこの戒壇の問題について、その時は正本堂として建立すべきというように戸田氏に言われたことも、あるいはあったのではないかと思うのです。そのようなことから、戸田氏がそのことを池田に遺言したというような経過があったとも思われます。

 ところが、この正本堂に関しては、遺言で造れと言われたと言い出したのが35年4月4日で、35年5月3日には池田大作が第3代会長に就任しているわけです。さらに女子青年部が共同研究をしたこともあったりと、池田も正本堂ということを既に、かなり言っておりました。しかし37年9月1日に、今でもまだ学会の幹部でいる森田一哉というのが、当時の宗門の庶務部長である早瀬日慈上人に、正本堂とは一体どういうことですかと聞いているのです。その時に早瀬庶務部長は「これはあくまで御法主上人猊下の御胸中におわしますことである。我々が簡単に話をすることではない」というような意味の返答をされています。これは当然のことであります。つまり、このころ学会の幹部達は正本堂の名称について、あまりはっきりしていなかったとも思われるのです。
 そして39年5月3日、大客殿が出来る年ですが、池田大作がまた、この7年間で正本堂を建てよというのが戸田氏の遺言だと発言します。つまり、あとの7年ということは昭和46年になるわけで、それを目指して正本堂を造れということが戸田先生の遺言だと言っているのです。

 ところが、40年2月16日に第1回の正本堂建設委員会があったのですが、それまでの間、日達上人は正本堂ということを全然おっしゃっていないのです。また、この会合でも、池田が色々なことを言い、戸田氏の遺言であるということも言っているけれども、日達上人はこの点については非常に慎重を期せられたと思うのであります。
 そのようなことで、40年2月16日の正本堂建設委員会の挨拶のなかで、日達上人は、「池田会長の意志により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います」(大日蓮・昭和40年3月号9ページ)と、正本堂という言葉を初めて使われて、しかもそれを寄進すると言うから受けると言われたのです。このお言葉は、そのあとずっと長い文が続くのだけれども、今は省略します。しかし、日達上人はこの挨拶のなかで、「正本堂」という言葉を12回ほどもおっしゃっているのです。
 そして、正本堂の寄進を受けるという意味から、正本堂の色々な在り方を初めて述べられておるわけだが、今この御文を拝してみても、この時に特に正本堂が大聖人様の御遺命の戒壇であるというような、はっきりとした意義を示すお言葉があったとは、私には思えない。だが学会では、日達上人が第1回正本堂建設委員会で、正本堂が実質的な戒壇だということをおっしゃったと言っているのです。しかし、あの文を拝すると、はたしてそこまで言えるかと思うのです。
 そのお言葉のなかではほかにも、例えば、まだ謗法の者が多いから蔵の形にするとか、色々な意味のことをおっしゃっているのですが、とにかく、日達上人が正本堂という名称をはっきり示されたのは、正本堂を寄進したいという池田の言葉を受ける形でおっしゃったように拝せられるのです。そして、それまでの間、自ら先に正本堂ということをおっしゃってはいない。そういう在り方があったわけであります。さらにこれ以後は、正本堂という言葉は宗門のあらゆる所で、色々な文献、色々な発言に無量無数に出てくるのであります。
 さて、戸田氏は昭和30年3月25日には、当時、宗会議長だった市川真道さんへ奉安殿と大客殿の建立寄進を誓願しております。その後、戸田さんは亡くなるまで、ずっと国立戒壇と言ってはいるけれども、国主というのはあくまで民衆であり、日本中の人なのだと言っておりました。これはたしかに憲法が昭和22年以降そうなっておりますから、そのことを言っておるわけです。

 そして39年4月1日に池田が初めて、『三大秘法抄』の事の戒壇の時が来たということを言っておる。さらにその次の日には「本門の時代」ということを言い出したのですが、これは記憶のある人もいるでしょう。また「化儀の広宣流布」「王仏冥合達成の総仕上げの戦い」ということも言い出しています。
 同年6月30日には、おもしろいことを言っている。これも本当かうそかは判らないのだが、本尊流布は豆腐で、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと、戸田先生が何度もおっしゃったと言うのです。これはもし、言ったとすれば、戸田氏は、昔だったら天皇が一人信仰して、その力で一国全部を信仰させればよいのだけれども、現在の主権在民の上からすれば国民全体が信仰しなければならない。そうなると、どうしても本尊流布が大事になるということから、本尊流布が豆腐なのだという意味のことを言ったのかも知れない。したがって、むしろ内容的には、本尊を流布してみんなが幸せになるのが豆腐であって、それに対して戒壇建立はその結果であるから、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと言ったのかも知れません。
 戸田さんは色々な面で意表をついたことを言う人だから、例えば「我々は車引きだ」と言ったこともある。我々は折伏した人を引いて御本尊様のもとに御案内するのだというようなことを言ったかと思うと、今度は「御本尊様は幸福製造機だ」と言ったこともありました。みんなも覚えがあるでしょう。とにかく色々なことを言う人でした。けれども信心は、池田とはもう一つ違った深さがあったと、私は確信しています。
 さて、豆腐とおからの話を受けて、池田は、戒壇建立はほんの形式で、石碑のようなものだと言って、さらに、「したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえない」(聖教新聞・昭和39年7月2日付)と、そこまで戒壇建立をさげすんで言っているのです。そうかと思うと、その次からは戒壇建立に執われて、「本門戒壇建立成就は三千年仏教史の最重要の時」等と言い、大聖人様の御遺命が達成される意味を諸所に言い出し、そこにたいへん執われていたのです。
 そこで昭和40年1月1日に日達上人がおっしゃっておりますが、池田がしょっちゅう利用して使っていた言葉がある。それは日達上人が池田に「もう広宣流布だな」ということをおっしゃったというのです。これはおそらく、おっしゃったでしょう。けれども私は、日達上人がそのようにおっしゃったのは、いわゆる大聖人様の御遺命が全部、達成するという意味ではなく、大略的な意味からだと思うのです。それはたしかに、あのころは折伏が進み、信徒の増加が著しかった形の上からの在り方、そして折伏の指揮を執っておる池田会長に対する苦労を労う意味、また今後の激励の意味も含めて、そのようなことをおっしゃったと思うのです。それを池田は「日達上人がこうおっしゃったんですから…」と、その言葉をとっこに取って、それをさらに強い意味において色々な面で利用したのであります。

 例えば、先程言った第1回正本堂建設委員会の日達上人のお言葉ですが、これを、「日達上人猊下から、正本堂の建立は実質的な戒壇建立と同じ意義をもつ旨の重大なお話があった」(同・昭和40年2月20日付)というように、聖教新聞で発表(※ 大日蓮3月号にも掲載)しているのです。
 それから、正本堂建設委員会で作った「御供養趣意書」においても、「かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになった」(大日蓮・昭和40年5月号14ページ)と書いて、聖教新聞に載せてある。
 この「実質的な戒壇建立」もそうであるが、「広宣流布の達成」というところからも、これらの言は、日達上人の第1回正本堂建設委員会のお言葉には発見できず、既に広布達成という考え方が先走った在り方として出てきておるのであります。
 そこで40年4月6日には、宗門でも大石菊寿さんが、「正本堂は、実質において、まさに本門戒旦堂の建立となった」(同・昭和40年9月号18ページ)と述べている。ここにそのお弟子方もいるだろうが、この方は福岡の霑妙寺の住職を長い間されていた方で、百日説法をするというぐらい、お説法が実に熱心な方でありました。病気になってからも必ず説法したということも聞いているように、とにかくお説法を一生懸命なさる方だったのです。それで私が登座してから大石菊寿さんを能化に昇進させたのですが、その時に常に説法していた方であったから「常説院」と院号を付けたのです。そうしたら、私は日号を知らなかったのですが、大石さんの日号が「日法」だったのです。院号と日号の意味がぴたりと一致し、うまくできているものだと思いましたが、それはともかく、大石師の例からしても、宗門の全体が学会のそのような考えの在り方に、ずっと引きずられていったような意味があるのです。

 (※ <九月十二日、正本堂御供養について、「本門戒壇の大本尊を奉安申しあげる清浄無比の大殿堂」、「蔵の宝に執著することなく大本尊に供養して、以て身の福運を安明に積まんことを」とする、日達上人の訓諭が発せられた。続いて同日、宗務院は「今般、管長猊下より、別紙の通り訓諭が発せられたので通達いたします」として院達(宗務院通達)を出した。
 「訓諭に仰せ遊ばされてあるように、本門戒壇の大本尊を奉安申しあげる清浄無比の大殿堂であり、このことは、大聖人の御遺命にしてまた我々門下最大の願業である戒壇建立広宣流布の弥々事実の上に於て成就されることなのであります」
 訓諭の、「清浄無比の大殿堂」の一文について、宗務院は「このことは」と解釈・敷衍し、「大聖人の御遺命・門下最大の願業たる戒壇建立の成就」と、踏み込んだ通達を出した。情報遮断されていた妙信講員は、この院達を知るよしもなかった。
 細井日達上人の意図していたことは、「広宣流布を待ってはじめて『本門寺』を建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って『事の戒壇』建立という事になるのでございます。それまでは戒壇の御本尊をおしまい申し固く護る」、「戒壇の御本尊は、どこまでも蔵の中にあるのでございます。お出ましは、先程から申す所の、いはゆる広宣流布の暁である」(「大日蓮」昭和三十四年九月号)と明快である。翌・昭和四十一年まで、日達上人の言明はこの趣旨で一貫している。
 このように、日達上人の指南と院達等にギャップがあるのは、何がなんでも正本堂を御遺命の戒壇としたい池田会長の強い圧力の影響によるものであろう>
「迷走する顕正会を斬る」(p98))

 これに対して、浅井はこの当時、40年5月25日には、千載一遇の時だから全講を挙げて御供養するということを言っております。現在、浅井があのように言っているけれども、矛盾点があるのです。
 一つは昭和61年8月に、「昭和四十年の御供養趣意書の当時は、まだ誑惑が顕著でなく、少なくとも管長猊下は一言も正本堂を御遺命の事の戒壇などとは言わず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調された故に御供養に参加したのだ(取意)」(冨士・昭和61年8月号53ページ)と言っているのです。
 また事実、先程も言ったように、第1回正本堂建設委員会における日達上人のお言葉をずっと拝見してみると、広宣流布の上に信徒が非常に増えたことからこのような堂を造るという意味の御指南ではもちろんあるけれども、それが直ちに御遺命の戒壇というようにおっしゃっているとは、私にはどうも感じられないのです。
 ところが、昭和52年8月には逆に、「昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において日達上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされた」(同・昭和52年8月号6ページ)ということで、攻撃しているのであります。そうすると、同じお言葉に対して、片方ではこのようなことは言っていないと言っていて、もう片方では、そのようなことを言っていると攻撃しているのだから、浅井が口からでまかせを言っていると言えるぐらい、全く反対のことを言っているのです。(※ 「糺し訴う」では、池田氏の誑惑を破し、猊下を擁護することが趣旨である
 それはともかく、日達上人もこれからあとの御発言のなかでは、創価学会が広宣流布に向かって進んでいく姿、また正本堂を御供養するという姿を御覧あそばされて、その意義の上から、大聖人の御遺命の戒壇建設の方向に向かって進んでおるというような意味での色々なお言葉が拝せられるわけであります。それを浅井は取り上げて、最後は日達上人もが御遺命違背の法主だということを言って、ついでに私のことも徹底的に悪口を言っているのです。
 最近、浅井が出した本でも、日達上人の悪口をさんざん言ったあと、また私の悪口を言っているのですが、この当時、浅井の問題に関連した形で宗門と学会とが、日達上人の御指南を承りつつ、どうしてもやらざるをえなかったのが正本堂の意義付けということでありました。

 私は当時、教学部長をしていたものだから結局、このことについて私が書くことになってしまい、昭和47年に『国立戒壇論の誤りについて』という本を出版したのです。また、そのあとさらに、これは少しあとになるが、51年に『本門事の戒壇の本義』というものを、内容的にはやや共通しているものがありますが、出版しました。
 しかし、これらは全部、正本堂に関連していることであり、その理由があって書いたのです。つまり正本堂の意義付けを含め、田中智学と瓜二つの浅井の考え方を破り、また本来の在り方をも示しつつ、さらに創価学会の考え方の行き過ぎをもやや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。
 このなかで、47年の『国立戒壇論の誤りについて』を読んだ人は手を挙げてみなさい。一往、4分の1ぐらいの人が読んでいるようだね。では次に、51年に出版した『本門事の戒壇の本義』を読んだ人は手を挙げてください。これは、なお少ないようです。なぜ、このようなことを私が言っているのかというと、現在、私が一往こうして当職を汚させていただいておることもあるので、教学部長時代とはいえ、書いた二書のなかにはどうしても当時、創価学会が正本堂の意義付けに狂奔し、その関係者からの強力な要請もあって、本来の趣旨からすれば行き過ぎが何点かあったようにも、今となっては思うのです。これらはあとで触れますが、これらに関しては日達上人も池田創価学会の強引な姿勢と、その一方での広布前進の相より慰撫と激励にたいへん苦心をされた結果、縦容のお言葉も拝せられるのです。
 そのころ池田は、正本堂が御遺命の戒壇で、御遺命の達成であると、そのものずばり言っておりました。学会のほうでは正本堂が『三大秘法抄』の戒壇そのものであると言っていたのです。それに対して、浅井から色々と横槍がたくさん出てきたのですが、この時、浅井は一往、捨て身の考え方で抗議したということは、言えると思います。しかし、その色々な面において、国立戒壇ということを言い出しているわけで、その浅井の国立戒壇の主張は何かと言えば、先程言った田中智学の内容なのです。
 たしかに明治欽定憲法の時代だったならば、そういう可能性もあっただろうけれども、今の憲法下では絶対にありえないことです。まして天皇の国事というのは憲法の上に決まっていて、その天皇がなさることには、様々な書類に押印するなど、その上からのもちろん権力もあるだろうけれども、こと宗教に関する限りにおいては全然、決定の権限がない。政教分離がきちんと決まっているのだから、そういうことは、今の憲法下においては絶対に無理なのです。
 なおかつ、浅井が言っていることは『本化妙宗式目』にある内容、つまり勅命の国立戒壇であります。それは結局、どうしてできるかと浅井に言わせれば、憲法を改正すればよいのだと言うのですが、現実問題として今日の日本乃至世界の実情を見るに、簡単に憲法を改正することはできない。それはむしろ時代に逆行という批難から、正しい布教の妨げになるとも考えられます。しかし彼は、あくまでそういうことを言っておるのであります。
 
 そこで少し話を戻して、昭和41年に池田が、「本門の戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上、達成される」(日蓮大聖人御書十大部講義1―1057ページ)と言っているが、先程までは「実質的」と言っていた言葉が、ここで初めて「事実上」という言葉に変わっており、これからあとはずっと「事実上」ということになるのです。「実質的」ということの意味よりも、「事実」ということのほうが、なお強い意味があると思って使ったのでしょう。その意味が、この41年7月の池田の言葉から出てきておるのであります。
 さらに42年1月にも、「事実上の本門戒壇である正本堂の起工式」(大白蓮華・昭和42年1月号14ページ)と言っている。そして、1月2日に出されたものには、学会の教学部が「正本堂建立により、三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられ、これが化儀の広布の実現である」というようなことを言っているのですが、これもまた言い過ぎた言葉です。この「三大秘法抄に予言されたとおりの相貌」というのは『事相』なのであります。先程も言いましたように、「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持つ」というのが事相であるにもかかわらず、正本堂がその相貌を具えた戒壇であると言い、また、それによって化儀の広布の実現であると、はっきり言いきってしまっておるのです。
 また昭和42年5月3日にも池田が、「正本堂は(中略)事実上の本門戒壇」(大日蓮・昭和42年6月号13ページ)であると言い、また、「正本堂完成により、三大秘法が、ここにいちおう、成就したものといえる」(同17ページ)とも言っている。「いちおう」ならば「成就」などと、くだらないことを言わないほうがよいのだが、ずるいことに「いちおう、成就した」などと言っておるのです。
 また池田は、日達上人のお言葉をとっこに取って、6月1日に、「先日、猊下は『宗門はまさしく広宣流布だよ』と、満足そうなお顔で申されました」(同・昭和42年7月号12ページ)ということをずけずけと言って、日達上人のせいにしている。
 そのあとも、妙信講と学会との論議のような形においては、あのころ観妙院日慈上人が総監であり、私が教学部長で、この2人がその間に入って、さんざん立ち会ったことがあるのです。その時でも、学会はずるいことに、「日達上人がおっしゃっているのだ」などと言って、とにかく猊下を障壁にする癖がある。これは本当にそうです。そういうように、「猊下と言えば文句は言えないだろう」というのが学会の考え方だったのです。これもまた、激励と慰撫の大きなお心からのお言葉を、とっこに取り上げて、日達上人が「宗門はまさしく広宣流布だ」とおっしゃった、などと言っているわけであります。

 次に、7月11日には日達上人も、「全民衆による戒壇の建立」という趣旨のことをおっしゃっている。これは、現在の憲法下ですから当然のお言葉でしょう。そして9月12日には、「成仏の根本である本門の戒壇が建立せられる」(同・昭和43年2月号11ページ)ということをおっしゃっております。これは「成仏の根本」ということの上からの「本門の戒壇」との仰せですが、戒壇という意味は、その前やあとに付く言葉によって色々に解釈できるわけです。「本当の御遺命の戒壇」「最終の本門戒壇」と言う場合とは意味が違うでしょう。
 我々日蓮正宗は迹門ではなく、本門の教義なのですから、「本門の戒壇」と言っても、それが直ちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』に示される御遺命の最終戒壇だということではない意味もあります。おそらく日達上人は、そのような意味において仰せになっていると拝するのであります。
 ただ、42年10月1日に、学会の教学部長であった小平芳平が、「正本堂は事実上の本門戒壇であり、『三大秘法抄』における戒壇の全文が事実となって現れる」という趣旨のことを言っている。そして「あとは、不開門を開くまで」、つまり儀式はもう少しあとだということでごまかしているのです。この「不開門を開く」ということは池田も盛んに言っていたが、「正本堂は戒壇そのものであり、ただ儀式を行うまでは、もう少し期間があるのだ」というような意味で、なんとかうまくごまかしていたのであります。ともかく学会は、本当に汚くて、ずるいのです。
 ところが42年11月、これは「載せるから何か書け」と言われたのです。それで高木伝道房、私、藤本栄道房、椎名法英房、大村寿顕房、菅野慈雲房等が書いているのですけれども、これが当時の空気に飲まれてしまっていて、だいたいそういう流れの上から発言をしてしまっているのです。空気というものは恐ろしいものですが、あのころはそういうものが色々とあったのです。
 それから今の富士学林長の八木信瑩房も、「正本堂建立の意義は、真の世界平和を建立する根本道場である(取意)」(大白蓮華・昭和43年9月号99ページ)と、これはなかなか、あのころとしてはうまいことを、言っていると思います。

 次は、43年10月12日の正本堂着工大法要における池田大作の言葉です。この大法要において、池田が、 「三大秘法抄のご遺命にいわく」(大日蓮・昭和43年11月号巻頭グラビア)として、「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり」(御書1595ページ)の御文を全部挙げて、「この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要」(大日蓮・昭和43年11月号巻頭グラビア)ということを言っている。
 ですから、正本堂がまさしく『三大秘法抄』に示される戒壇だと言っているのです。これは私が平成3年にも指摘したところですが、池田本人がこれだけ言っているのだから、和泉覚達に文書を作らせて対応させるのではなく、反省するなら本人がはっきりすべきだということを言ったのである。あれは学会問題が起きたての時だけれども、そういうことが色々とありました。
 そこで日達上人は、正本堂は総講頭である池田が発願主になっていますから、それにより本門戒壇がまさに立たんとしている、ということを言われているけれども、そこまでのことなのです。さらに妙信講に対しては「国立戒壇とか国教というようなことは御書に全くない」との旨を仰せであります。

 ここでまた、浅井が昭和45年3月25日に、宗務院に対して、第1回正本堂建設委員会での日達上人のお言葉について、「いま猊下の御説法をつぶさに拝し奉るに『事の戒壇』なる文字はもとより、その義・意すら見られない。いやむしろ、よくよく拝せば否定すらしておられる」(冨士・昭和50年3月号30ページ)と言い、したがって「当局は正本堂を事の戒壇と承認するや否や」ということを、言うのであります。
 そこで、45年4月6日の虫払大法会における『三大秘法抄』の戒壇についての御説法があるのですが、これは日達上人の御本意をお示しになったものだと、私は思うのであります。虫払大法会の説法ですから長い御説法でしたけれども、趣意は「『三大秘法抄』の戒壇は御本仏のお言葉であるから、私は未来の大理想として信じ奉る」ということをおっしゃっておるのです。要するに「未来の大理想」だから、御遺命の戒壇は未来のことだということです。
 そこで、これは先程言い損ねてしまいましたが、正本堂がそのものずばりの御遺命の戒壇か、そうではないのかということが一つの問題なのです。
 学会は妙信講の攻撃をうまくかわすため、今はまだ、そうではないと言うのです。ただ、このところがおもしろいのですが、今はそうではないけれども、将来その時が来れば、その建物になる。つまり結局のところ、正本堂自体は将来において『三大秘法抄』『一期弘法抄』の建物となるということです。
 それ以前には、正本堂はまさに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇そのものずばりでなければならないと、学会の教学部も池田自身も言っていたのですが、この時点で学会は一往、そこまでは譲ったのです。だが、色々な面で引っ込んではきたけれども、最後の不開門を開く時、つまり儀式の時とか、あるいは本門寺に改称する時には、やはり正本堂自体が『一期弘法抄』の戒壇になる建物であるということは絶対に譲れない、というのが学会の方針だったのであります。けれども一往、今はまだ、その意義を含んでおるというような在り方なのです。
 
 しかし、私どもはそうではなく、日達上人の御説法を拝すると、未来の大理想として信じ奉るということだから、あくまで未来なのです。つまり『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇は名実ともに未来であるが故に、正本堂はそうではないというのが御説法の内容であります。したがって、たしかに広布の相から言って『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を含むということはあっても、その建物がそのまま『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となるのは未来のことで、確定的ではないという意味で宗門は考えたいと思っていたし、また日達上人もそのようなお考えであらせられたと拝するのであります。その辺のところが非常に微妙だったのです。
 ところが、実はこの前から浅井の横槍はずっとあったのだが、45年4月に、谷口善太郎という共産党の代議士が衆議院で行った質問について、創価学会が照会を受けるということがありました。
 これは要するに、「国立戒壇ということを言っているけれども、これははたして憲法の上から言ってどうなのだ」というようなことの質問です。それに対して学会が言ったのが、次の三つであります。一つは「本門戒壇は、民衆のなかに仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建つ」ということ。次は「現在建設中の正本堂は昭和四十七年十月十二日に完成予定で、これが本門戒壇になる」。三番目に「一時、本門戒壇を国立戒壇と称したことがあるが、その本意は一の如くである」と、古来の考え方として国立ということがあったけれども、それを否定した形において、民衆によって建立することになったのであると言うのです。だから、さらに「これはあくまで宗門の事業であり、国家権力とは無関係である」と述べ、御遺命の戒壇という意義はそこにあって、「国立」という在り方は大きな間違いだということを答えたのです。
 しかし、これは浅井の考え方とは違っているから、浅井は「国立戒壇を否定した、たいへんな間違いだ」ということを言っているわけだが、宗門のほうは日達上人が「今後は国立戒壇という名称は使用しない」ということをおっしゃったのであります。

 そこで日達上人が45年4月22日の時局懇談会および4月27日の教師補任式において、正本堂はまだ出来ていなかったけれども、その『定義』についておっしゃったのであります。これは、御本尊が事であるから、御本尊のまします所はいずこなりとも、場所に関わらず事の戒壇であるということを御指南になったのです。
 我々は事の戒壇というと、やはり『「一期弘法抄」「三大秘法抄」の戒壇』であると思い込んでいたところがありました。そこで、日達上人から戒壇の大御本尊のまします所が事の戒壇だという御指南があったので、そのことについて、私と観妙院日慈上人が日達上人のところへお伺いに行ったことがあるのです。するとその時に、「これは御相伝である」ということの上から、特に「御戒壇説法」をお示しになったのであります。すなわち「御戒壇説法」において、「本門戒壇建立の勝地は当地富士山なること疑いなし。また、その本堂に安置し奉る大御本尊は今、眼前にましますことなれば、この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、もしこの霊場に詣でん輩は無始の罪障、速やかに消滅し云々」ということがあるのです。
 そして、もう一つには日寛上人の『法華取要抄文段』の、「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段543ページ)という御文を引かれておりました。そこでは「根源」ということは言われなかったけれども、そういう意味から事の戒壇ということを示されたのであります。これらは無論、日達上人がお書きになった文ではなく、別の御先師がお書きになったもので、それを当時、総監であった観妙院日慈上人と私に見せられて、日達上人は「こういうような文からいって、事の戒壇と言ってもよいのだ」と仰せになったのです。だから、御戒壇様のまします所が事の戒壇という意味になるのであります。
 そうすると、日寛上人が仰せの『三大秘法抄』の「事の戒壇」と、御戒壇様まします所の「事の戒壇」の二つがあることになり、紛らわしいという意味も出てきます。実際、浅井もそういうことを、そのあとにおいて盛んに言っていたわけです。しかし、日達上人は「現時における事の戒壇」というように仰せられているのです。つまり、『三大秘法抄』の戒壇は未来における事の戒壇であり、現時における事の戒壇は御戒壇様がおわします所で、そこに大勢の人が参詣し、真剣な信心・唱題・折伏によって即身成仏の大きな功徳を得ることが、そのまま事の戒壇であるという意味の御指南もありました。このほかにも色々あったのですが、簡単に言えば、こういうお話があったのです。
 さて、47年2月には浅井が「事の戒壇」についての宗門の見解を変えるよう要求を出してきたのです。一つは「正本堂は両抄の御遺命の事の戒壇ではない」というのですが、これは以前から今日まで御戒壇様のまします所、事の戒壇という御指南が本筋であります。次が「正本堂は奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで、大御本尊を厳護する堂宇である」ということです。さらに「御遺命の事の戒壇とは、一国広布の暁、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇である」と主張するのです。この間ずっと、日達上人が宗門の公式決定として「国立」ということは言わないと言われておるのです。にもかかわらず、あくまでこれに固執しているのであります。
 そこで47年4月28日に、日達上人は妙信講への色々な回答等の意味も含めて、正本堂の『全面的な定義』をお示しになったのであります。
 その「訓諭」には、「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり(大日蓮・昭和47年6月号2ページ)ということを仰せであります。
 このなかの「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」というところが、また一つの解釈があるのです。「たるべき」ということは、そうであるべきということにおいては、現在はその意義を含んでいる建物だけれども、広布の時にはその建物がそのまま『一期弘法抄』の本門寺の戒壇になるのだという解釈と、そのようになるべく願望しておるところの意味との二つの解釈があるのです。つまり「本門寺の戒壇たるべく願うけれども、未来のことは判らない」という意味が、そこには含まれておるということなのです。この二つがあって、それはどちらとも言えないという不定の意味で、こういうようなことをおっしゃったのではないかと思うのであります。
 

  池田大作野望の挫折と反発(1)-日達上人代

 
 それから、とにかく昭和47年中は浅井の問題がずっと起こってきて、昭和49年には学会本部へ襲撃をかけたり、そのほか暴力事件を起こすような話があったり、さらに浅井の問題に関して日達上人の御指南を受けるという意味があったりと、とにかく色々なことがありました。
 それらのことは到底、一概には言えないし、時間もありませんから申しませんが、これらの問題が終わったあと、特に49年ごろのことだが、創価学会が色々な意味で宗門を実質的に支配しようとしたことがありました。正本堂も造ってやったし、みんな我々がやったではないかというような考え方から、宗門をことごとく支配しようとしたという不逞な心根が、たしかにあったわけです。
 当時の大幹部に山崎正友氏と八尋がおり、山崎氏は当時、池田の懐刀でしたが、まもなく学会と別れたあと色々ないきさつがあったけれども、今は宗門の信徒となり、学会破折の急先鋒に立ってやっているのであります。しかし、八尋は今も学会の弁護士としてやっています。ともかく、昭和49年4月12日の山崎・八尋の文書があって、そこに、「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて、二とおり考えられます。一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて、背後を固めるという方法です(中略)本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭と思われ」と言っているのです。
 本来、学会は総本山を根本とし、中心としての信心をする信徒団体ではないか。それが創価学会が中心であり、民音や公明党が創価学会を守るように、宗門も創価学会を守る存在価値があると言うのだから、これは実に逆さま極まる愚かな考え方でしょう。つまり「学会主・宗門従」ということが、ここにはっきり出ているのであります。そして、「そのための布石としては、(1)本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配 (2)財政面の支配(学会依存度を高める)」と、つまり「学会に袖を振られたら宗門はお手上げだから、何かあったら宗門を助けてください」というような体制を作らせておこうというのです。
 これは私の時に実際にあったのですが、私が登座してしばらくした時に、平野(当時、創価学会登山部長)という者が何度も目通りに来て、「近ごろ、どうもみんなお山に来る熱意がなくなっている」とか、妙なことをごちゃごちゃと話すのです。結局、あとで判ったことだが、あの男は「猊下に創価学会が有り難いということを知らせるために、そのような話をしたのだ」ということを、あとで言っていたらしいのです。また「場合によっては登山もやめようという考えがある」とか、「みんな池田先生を大切にしないと大変ですよ」という趣意も、たしかに私の所に来て言っていた。このことからも、このような宗門支配を目指す内容がよく解るのであります。

 また次に、「(3)渉外面の支配 (4)信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等) (5)墓地、典礼の執行権の委譲 (6)総代による末寺支配が必要です」とあります。末寺の総代のほとんどが学会員であったことは、みんな承知していると思います。ある年代から最近は法華講員に総代を替えたけれども、ほとんどが学会の総代の時代がありました。ともかく、そういうようなことを言っておって、さらに、「今回のとこは(1)(2)(3)を確立し更に(4)まで確立てきるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるべきと思います」というようなことを言っているわけです。
 だから日達上人は、49年4月25日の法華講連合会春季総登山会で、「最近ある所では、新らしい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります」(蓮華・昭和49年5月号35ページ)とおっしゃったのであります。この「ある所では、新らしい本仏が出来た」というのは池田のことです。そして、「もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません。そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以って食い止めて頂きたい。これが法華講の使命と心得て頂きたい。法華講は実に日蓮正宗を護る所の人々である。日蓮正宗を心から信ずる所の人々であります。大聖人様以外に本仏があるなどと言ったらば、これは大変なことである。どうかそういうことを耳にしたならば、どうぞ『それは間違っておる』ということを言って頂きたい。どうか皆さんは、この信仰の根本を間違わないで、信心に励んで頂きたい。広宣流布はしなければならん、けれども教義の間違った広宣流布をしたら大変であります」(同ページ)という有名なお言葉があったのであります。このことは本当にそう思います。
 ところが、最近でも「日蓮大聖人に続く法華経の行者が池田先生だ」ということを言っているのであります。言い方は色々あるけれども、これはまさしく同じことです。 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書1773ページ)と『御義口伝』にあるように、法華経の行者とは本尊の意味であって、大聖人様お一人しかおられないのであります。それなのに、「池田が大聖人に続く法華経の行者である」ということを言っているのであり、そういうところに創価学会の邪悪な考え方があるのです。
 
 また、日達上人とお話しになったことを北条浩が記録して、池田大作に報告した文書があります。要するに「猊下の話は大変ひどいもので、これが猊下かと疑いたくなるほどである。また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした」ということが記録にあるのですが、これは何も、日達上人は大作の犯した謗法やおかしなことをきちんとおっしゃったに過ぎないのです。それを池田にはこのように報告しているのです。これについてはあまりにひどいから全部を読むのはやめますが、そういう在り方もあったのであります。
 それから、もう僧侶はいらないということを彼らが言い出したことがあるが、それについては日達上人が、49年5月31日の寺族同心会の時に、「今、我々出家しておる僧侶がいらないで廃止すれば、次の和合僧団の僧侶が出来る事になってしまう。何も変りはない、ただ現実を破壊せんが為にこれを云うのである」(蓮華・昭和49年6月号8ページ)とおっしゃっている。つまり学会が現実を破壊せんがために僧侶がいらないということを言っておるということです。
 さらに続いて、「大いに我々も考えて一層努力し、大聖人の仏法を本当に純粋に護っていかなければならない。謗法厳禁という事を考えなければならない(中略)ただ大きくなればいい、大石寺はいろいろの生活が楽であればいいというような考えで皆いろいろの今までの法門のあり方、あるいは布教のあり方を忘れるという様な事があるならば、私は、どこまでも一人でもいいから本山を護りたいと思います。皆様も、大いにしっかりと考えてもらいたい。富士宮のこれは信者ではないけれども、ある有名な人は大石寺は前々から言う通りに、『軒を貸して母屋を取られる』様な事があるならば、大石寺の恥だけではない、富士宮の恥だという事を放言していたという事です(中略)大いに反省し、大いに我々のいくべき道を考え、ただ表面に服従して、ただ大きくなる事を望まないでもっとよく信心をしていただきたい」(同ページ)ということを、ここにおっしゃっておるのであります。
 次が、49年6月18日の富士学林研究科開講式の時ですが、「この辺でも、最近、人間革命が御書だということを盛んに言われてきております。私の耳にもしばしば入ってきています。又、誰れが本仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています(中略)日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります。皆様の時に、もし、日蓮正宗の教義でなし、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、決して、我々は喜ぶべきでないし、大聖人が、お喜びになるとは思いません。むしろ、正宗の精神が、なくなってしまった、消滅してしまったということになるので、非常に悲しいことであり、我々の責任は重大であります(中略)どうか、一時の富貴を喜ばないで、大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたいと思います」(大日蓮・昭和49年8月号19ページ)ということをおっしゃっております。
 学会は本当に『人間革命』が御書だと言っていましたが、考えてみればひどい話です。また、学会がたくさん来ていれば、葬式や法事などの形で多少の御供養が入るでしょう。しかし、そのようなことよりも「大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたい」とおっしゃっておるのであります。

 しかし日達上人御自身の上からは、昭和54年5月3日に、学会を最終的には許された御説法がありました。そこでもって学会を許され、そのすぐ2カ月後に御遷化あそばされたのです。そして、そのあとを私がお受けしたのですから、私としてはやはり日達上人が締め括られたところから出発しなければならなかったのです。だから、私はどこまでもその立場を尊重し、そこから出発したつもりであります。正信会の莫迦どもは「私の言うことがしょっちゅうぐるぐる変わっている」とか、「今になって池田の悪口を言っている」などと言っているけれども、私はその時その時で正しい在り方を常に考えてきたつもりであります。
 これはまた別のことだが、池田大作は浅井の抗議や色々な問題があって、結局、正本堂が御遺命の戒壇であると正面を切ってはっきりとは言えなくなったのです。どうしてもうまくいかないから、そこで最後に考えたことが、正本堂建立の記念の御本尊をお願いして、その裏書きを日達上人に書かせようということであります。それはどういうことかと言いますと、池田は「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」と日達上人に書かせようとしたのです。ここからも、いかに大作が御遺命の戒壇ということに執着していたかということが解ります。日達上人がこういうことをお書きになれば、「池田大作が大聖人様の御遺命の戒壇をお造りしたのであり、それを時の御法主がきちんと証明されている」ということが万代にわたって残る。そういうようにしたかったのです。
 そこで日達上人は昭和49年9月20日に、賞与御本尊の裏に「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法妙に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」と書かれたのです。「準じて」というのだから本物ではない。これを見た池田は、最後には怒っただろうと思うのです。それからまた色々なこともありましたが、池田には、どうしても日達上人が自分の思惑のままにならない、ということでの不平不満があったのであります。
 それから池田は47年10月12日には、正本堂完成奉告大法要の慶讃の辞で、「大御本尊公開の時運招来の為に奮迅」(大日蓮・昭和47年12月号23ページ)ということを言っているのです。つまり正本堂が出来て、「今度は公開だ、公開ということが広宣流布なのだ」と言うのだから、正本堂を公開するという意味において、正本堂そのものが事の戒壇であるという意味を、ここで言っておるわけであります。 そういう背景において、『国立戒壇論の誤りについて』の中でも「(※正本堂は)現在は違うけれども未来においては、その戒壇が御遺命の戒壇でないということは必ずしも言えない」というような、今考えてみると言い過ぎにも思えるようなことを言ってしまっているのであります。
 だから、あの書を廃棄すべきかとも考えたけれども、私としては廃棄するべきではないと思ったわけです。やはり日達上人のもとで私が御奉公させていただいたのだし、当時の宗門の流れの上から、その時その時の事実は事実として、きちんと残しておいたほうがよいと思うのです。また正直に言いますと、やはりその当時は、私はそういうように書かざるをえなかったし、そういうようなことがあったのであります。

 また『広布第一章・第二章』ということも、池田が言い出しています。そして有名なことだが、昭和47年10月12日の正本堂完成奉告大法要が終わってから、帰る信者に向かって「今日、大聖人様の御遺命が達成されました」というような言葉を言わせたのです。これは聞いたことがあるでしょう。それを、こそこそと側近の者に言わせたのだから、まあ、とにかくなんとしてでも御遺命の戒壇の達成ということに持っていきたかったということです。
 それから、その翌年の昭和49年辺りに、先程言ったような陰謀が出てきます。さらに国際センターの話もあって、これは日達上人が断固としてお断りになったわけです。この国際センターを作るということは、その世界的な在り方の組織として創価学会インタナショナルのような組織があり、その全体のなかに日蓮正宗も入ってもらうというような形になるというのです。つまり日蓮正宗もその傘下に入ることになるというので、日達上人は一時、大変に心配されておられました。そのほかにもなんだかんだありましたが、とにかく学会は、あらゆる面からお山を自分達の傘下にしようと画策していたのであります。
 また、これは全然違う話だが、正本堂が出来たあと日達上人の御在世中に、このなかにこれを知っている人がいるかどうか判らないが、正本堂の御戒壇様の鍵を学会で管理したいと言い出したことがありました。もちろん日達上人は断固としてお断りになったと聞いております。これについては、私も直接には知らないのですけれども、そういうこともあったと伺っております。御戒壇様が学会に管理されてしまったら、もう学会のやりたい放題になって、大変なことになってしまったでしょう。そういうこともありました。
 ほかにも様々なことがあり、先程の賞与御本尊の問題もあったけれども、49年8月から11月にかけて妙信講の処分という問題がありました。結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております。ただ「王法」の解釈と、正本堂の建物についてのことでは書き過ぎがあったという感じもしておるのですけれども、しかし、これもその当時の流れのなかで彼らを慰撫教導するという意味では、あのように書いたことはやむをえなかったと思っておるのであります。

 それで浅井を処分し、それからあとは、浅井は宗門の者ではないということになっていますが、浅井達はその色々ないきさつに関して裁判で訴えてきたのです。その流れ等も色々ありましたが、このことに対しては藤本総監が当時の在り方のなかで色々と述べておるものがあります。しかし、今はこれを省略いたします。
 この浅井の言っておることのなかには、特に「天母(あんも)ヶ原」ということがあるのですが、これについては、日寛上人も『報恩抄文段』に、「富士山天生原に戒壇堂を建立する」(日寛上人御書文段469ページ)ということをおっしゃっているのです。それで浅井は「天母山の戒壇」と言っているのです。天母山というのは大石寺の東、4km強の所にある小高い山だけれども、あれも東側のほうは大石寺の所有になっています。とにかく、「天生原に戒壇堂を建立する」ということを御先師が言っておるけれども、このようなことをだれが言い出したかということでは、文献的に確かなものはないのです。ただ、日興上人の書かれたという棟札が一つあって、その裏書きに「天母原」ということがあるけれども、これは日興上人の御筆ではありません。おそらく、あとから書かれたものであると思います。
 そこで、日達上人が色々とおっしゃったなかでは、「天生原」というのは富士山の山麓一帯を言うのであり、そのなかでも特に、縁あって本門戒壇の大御本尊を安置するところの総本山の場所が、その中心である。また、その意味から、由緒ある建物、正本堂等はここに建つべきてあるということをおっしゃっておったのであります。ところが、浅井はあくまで天母山だと言っております。そもそも「天母山」の場合は天の母と書くのに対して、日寛上人の『報恩抄文段』などは「天生原」と「生」の字が使ってあり、その文字の違いは内容的にも違うのです。だいいち、天母山は水の便も良くないだろうし、まあ掘れば水ぐらいは出るかも知れないが、山の上で偏狭な所です。だから将来、広宣流布の時の大勢の参詣者を想定するという面から言っても、やはり不適当と思われます。
 

  池田大作野望の挫折と反発(2)-日顕上人代

 
 さて、私が昭和54年にお跡を受け、それからずっと来た平成2年の夏に、法華講の大集会を開きました。あれは「三万総会」という名目で行ったのだけれども、実際には4万人以上が集まったのです。それからさらに、その年の10月13日には大石寺開創七百年の慶讃大法要が行われ、私はこの時の「慶讃文」で、「一期弘法抄ニ云ク 国主此ノ法ヲ立テラルレバ 富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ建立セラルベキナリ。時ヲ待ツベキノミ。事ノ戒法ト云フハ是ナリト。コノ深意ヲ拝考スルニ 仏意ノ明鑑ニ基ク名実共ナル大本門寺ノ寺号公称ハ 事ノ戒法ノ本義更ニ未来ニ於テ一天四海ニ光被セラルベキ妙法流布ノ力作因縁ニ依ルベシ」(大日蓮・平成2年11月号86ページ)ということを言いました。
 少し難しい言葉だけれども、これを簡単に言えば、本門寺の公称は未来だということを言ったのです。この時の池田大作は、怒りたくても怒れないような、『なんとも言えない顔』をしておりました。大客殿では、私はちょうど東を向いているから見えたのです。そのあと彼も出てきて挨拶したけれども、その時の顔はなんだか見ていられないような顔でした。
 けれども、私は信念を持っているのです。いくら何でも、あのような間違った流れや様々な形のあったなかで、しかも池田のわがまま勝手な姿の色々と存するなかにおいて、今現在、直ちに「本門寺の戒壇」と称すべきではないと思っていました。しかし池田は、おそらくあの大石寺開創七百年慶讃大法要の時に、この私が「大石寺を本門寺と改称したい」とか、「改称する」と言うことを期待していたと思うのです。
 それなのに「未来のことだ」と言ったものだから、怒ったのでしょう。だけど色々な状況上、私は一宗を統率させていただくという意味において、安易に「本門寺と改称する」などとは言えないし、また、あそこで「本門寺にする」とか、「本門寺になる」というような意味のことを言わなくて、私はよかったと思っておるのであります。

 ですから、「たるべき」ということも、あくまで願望・予想であり、したがって日達上人が「もう広宣流布だな」とおっしゃったというのも慰撫激励その他、色々な深い意味がおありになってのお言葉であり、直ちに御遺命達成と言われたのでは絶対にないと思うのです。だから、池田がこれを様々に利用してきたけれども、あくまでも願望であるということの上から、正本堂が御遺命の建物そのものではないということを、平成3年1月にも言いました。これは前の平成2年の時の在り方から出てきておるのであります。
 つまり、君達も知っているように「11・16」という話があるでしょう。これは、この平成2年11月16日のことです。この年の10月13日に大石寺開創七百年の慶讃大法要で私の「慶讃文」を聞いて、池田は怒って、「よし、それならば日顕のやつをやっつけてしまえ」ということで私を誹謗したのが、約1ヶ月後の「11・16」の発言なのであります。そのあとすぐ次の日に、雲仙普賢岳が噴火したわけで、池田の大謗法、歴然です。そういう流れがあったのであります。
 そこで、平成3年3月9日に私が色々と述べたことに関してですが、私が教学部長時代に書きました『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』という本があります。そのなかに、正本堂は広布の時に『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇となる建物だというように、その時はそう思って書いたけれども、現在においては不適当であると、これははっきり言っておきます。この時はまだ正本堂もありましたから当然、その願望は込めつつも、未来の一切は御仏意に委ね奉るのであると言ったのであります。
 
 ところが平成3年12月8日に、池田大作は、「正本堂には八百万の御供養者名簿がある。また正本堂を、日達上人は永久不滅の大功績と言われた。だから、だれびともこれを壊すことはできない。自分達が世界一の正本堂を大聖人へ御供養したのであるから、正本堂は私達民衆の殿堂と言い切る資格がある。これをハイジャックか何かのように乗っ取り、横取りし、我がもの顔に居座る悪人が出現した」(聖教新聞・平成3年12月10日付・取意)という主旨のことを言っているのです。
 これは私のことを言っているのだが、私は横取りしたわけでも、なんでもないではありませんか。昭和54年からずっと総本山にいるのです。そうでしょう。それを何を横取りしたと言うのだ。ただ平成2年12月の終わりに法華講本部の機構を改正した時に、前の「宗規」によってなった総講頭・大講頭等にはいったんやめてもらう、ということでやめてもらったに過ぎないのだから、横取りもへったくりもないのです。しかし、そういうことを言っているのです。
 そしてまた「須弥壇の基底部に桐の箱を納めた」というようなことも言っているのだけれども、このうちの日達上人の記念品は現在、きちんとお山で保管してあります。池田大作のモーニングなどはどうか知らないけれども、日達上人のお衣や願文等は、きちんと保管してあります。
 それで、昭和47年の『国立戒壇論の誤りについて』と51年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景に依らざるをえなかったのです。
 つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来た後だったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。
 あのなかでは、王法や勅宣・御教書に対する解釈を述べるなかで、「建築許可証」(※が相当する)というようにも書いてしまってある。これは当時の在り方において、学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまったのです。けれども、今考えてみると、やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。

 それから『一期弘法抄』の「国主」ということの考え方、これもそうです。今は国民主権だから、国主というのは今ではたしかに民衆なのです。けれども、政治の在り方等というものは、いつどこでどう変わるか、未来のことは判りません。日達上人も「未来のことは判らない」ということをおっしゃっておりました。とすれば、我々は本当に全人類を救済するという大目標の上において、御本仏大聖人様が最後に御遺誡また御命題として我々にお残しくださった『三大秘法抄』『一期弘法抄』の「戒壇」の文については、軽々にああだこうだと言うべきではないと思います。
 もちろん今、ある時点を予測して考えれば、こうともああとも色々なことを言えるけれども、将来どう変わるかということは本当に判りません。だいいち、日本の現在の民主主義の形だって、憲法だって、将来どう変わるか判らない。だから、そんなことに関して今、どうのこうのと具体的な形で言う必要はないのです。一番最初に言ったように、戒壇というのは事相だということを、大聖人もおっしゃっておりますように、『事相』なのだから、実際の相というものはその時でなければ明確性が顕れません。よって『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ということは、まさにその時が来た時に、本門戒壇の大御本尊様を根本と拝しつつ、その時の御法主がその時の実状に即した形で最終の戒壇を建立するのだと、私どもは信ずべきであると思うのであります。
 そこでまた、なぜ正本堂を壊したのだということですけれども、やはり創価学会のあのような謗法の姿が平成2年・3年から出てきて、しかも正本堂の発願主である池田大作は、平成4年に既に信徒除名されているのです。たしかに日達上人も御苦労あそばされ、正本堂のことに関しては大聖人様への御奉公のお心をもって真剣にあそばされたけれども、今日の状況から見るならば、結局、総本山に正本堂が存在することは広宣流布への大きな妨げとなるということに、一言もって尽きると思います。したがって、このような謗法の姿があるのであり、まして正本堂が『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を含むと言っても、それは大勢の信徒が本当に御戒壇様を拝する姿があって初めて、そう言えるのであります。
 しかし現在、その姿は全然なくなっているではないか。最近では、戒壇の大御本尊様にすら疑いや文句を付けているようなことも聞いています。そういうような莫迦どもが今日、大勢充満しているような姿があり、しかも「我々が造ったのだ」と言って威張り返っているような意味においては、正本堂はやはり未来の真の正法広布の妨げになると思っておるのであります。そこで大客殿に続いて正本堂を解体し、奉安堂を造らせていただいた次第であります。
 

  「事の戒壇」における根源と事相の区別

 
 この奉安堂については、池田大作が正本堂に関して『三大秘法抄』だ『一期弘法抄』だと言って強いてめちゃくちゃに意義づけしたようなことは、私は何も言っていないし、宗門でももちろん言っていません。奉安堂は、ただ戒壇の大御本尊様の安置の殿堂であります。しかし、今日においてはあれ位の大きさがないと、実際問題として困るのです。今年も例年同様、信徒の夏期講習会が10回にわたって行われましたが、だいたい4千から5千人、多い時だと5千数百人の方が、その日一日で来ておるわけです。そういう面からも、かなり大きい建物でないと、今の法華講の方々の信仰心による参詣行事等の対応の必要性においては不適当な意味もあります。したがって、敢えてそういう大きさの奉安堂をお造りさせていただいたわけであります。
 さて、この奉安堂においても、日達上人の時と同じように御戒壇説法があります。これはもちろん二大法要(※御大会、御霊宝虫払会)の時にだけ行う例になっておりますから、今日も行わなかったし、普段は行いません。しかし、昔はそうではなかったのです。このことを知る人も、ここにはないだろうけれども、昔、まだ私が小僧から所化のころ、御宝蔵で御開扉をお受けしました。だいたい日開上人から日恭上人のころで戦前の話だが、そのころはしょっちゅう御戒壇説法があったのです。
 例えば、ある日は10人なら10人、15人なら15人の登山者があると、そのなかに新登山者がいる場合には、それを内事部で聞いておいて、きちんと御法主に報告するのです。すると、新登山者が1人でも2人でもある時には必ず、御法主が御戒壇説法をされたわけです。だから今も、私もしようかなと思ったりもしているのだけれども、ずっとしないで来てしまっているから、今のところまだしておりません。もっとも、今は大勢だから「あなたは初登山ですか」と一々聞くのも大変だから難しい意味もあります。とにかく、昔はそういうように御戒壇説法をしたのです。

 その時の御戒壇説法は、私もだいたい伺っておったのですが、そのなかには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」という御文はありませんでした。ところが、先程話したように私と観妙院日慈上人が宗務院の役員として日達上人に伺った時には、日達上人が御先師の説法本をお示しになり、そこには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」というお言葉があったのです。
 それから、もう亡くなったけれども、日開上人の弟子で私の法類に奥法道という人がいまして、この人が非常に書き物が好きな人で、ありとあらゆるものを書き写していました。その奥法道師の写本のなかに、日開上人の御戒壇説法というものがあったのです。今でもどこかに残っていると思いますが、そのなかには、ちゃんとその文があるのであります。ところが、またおもしろいことに、日開上人が当職の当時は、御戒壇説法を扇子にずっと書かれていたのです。たしか金銀の扇子だったが、それを開くとずっと墨で書かれてあって、それを読まれていました。しかし、これは割に簡単な御説法で、それには先程の御文はなかったのです。小僧のころだったが、私も聞いていて、「本門事の戒壇」ということはたしかにありませんでした。また御先師の日応上人の御戒壇説法にもないのです。だから、いつ、どこで、どなたが、どう始められたかは判らないが、六十世日開上人の写本としてはあったのです。もう一つは、日達上人が我々にお示しくださった御先師の御説法本のなかに、それがあるということです。よって、先程の意味から言っても、また日達上人のあらゆる点からの御指南から言っても、本門戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇という御指南は、たしかにそのとおりだと思います。
 ただ、私が今考えていることは、今日こういう話をすることは一つのけじめだということを言ったけれども、やはり今日は創価学会の、一時、800万とも称したような人数が御戒壇様に御参詣するような状態ではない。しかし30万の総登山があったように、これからさらに未来に向かって、日達上人が仰せの「因の広宣流布」に向かっての行業を進めるわけであります。
 要は、日寛上人が『法華取要抄文段』で、「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段543ページ)とおっしゃっておりますが、この「根源」というところに当然、深い意味があるのであり、つまり本門戒壇の大御本尊まします所が根源なりとおっしゃっているわけです。だから、御戒壇説法の「この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということについては、「この所すなわちこれ本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」というように、「本門」と「事の戒壇」との間に「根源」という文字をお入れすることが、現時においては適切ではなかろうかと、私は思うのです。
 もちろん、これは御戒壇説法の時のことであって、普段からそういうような意味の定義だということではないのだけれども、しかし考えてみると、「本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということだから、意味としては、事の戒壇であることを否定しているわけでは絶対にないのです。ただ「根源」の二字が「本門」と「事の戒壇」の間に入れることにおいて、日寛上人が「本門戒壇の大御本尊の所は根源である」と仰せになった意味を、そのままお受けするということです。このことは1年に2回だけのことではありますが、そういう意味で考えております。

 ではそれならば、未来における広布の上からの『三大秘法抄』『一期弘法抄』の事の戒壇の目標と、その戒壇の建物というのはいったい、どういうものかと言うと、これは今、論ずるべきことではありません。それこそ本当に不毛の論であります。しかし考えてみれば、今もイスラム教の聖跡を巡拝する信徒達の数たるや、すごいものがありますが、将来、1日に2万、3万、5万以上の大勢の人が総本山に参拝するような形があると、大聖人様の御仏意の上から一往考えるならば、奉安堂などは小さいものだと思うのです。だから、その時になればまた、建築技術も盛んになっているでしょうし、いくらでも大きい物を造ればよいのです。
 要するに、御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の「本門寺の戒壇」ということであります。だから未来の戒壇については「御遺命の戒壇である」ということでよいと思うのです。そして、その御遺命の戒壇とは、すなわち本門寺の戒壇である。さらに本門寺の戒壇ということについて、浅井達は「国立戒壇」と言っているけれども、御遺命という上からの一つの考え方として「国主立戒壇」という呼称は、意義を論ずるときに、ある程度言ってもよいのではなかろうかと思うのです。
 なぜならば、大聖人様の『一期弘法抄』に、「国主此の法を立てらるれば」(御書1675ページ)とありますが、国主が立てるというお言葉は、そのものまさに「国主立」でしょう。国主立とは、『一期弘法抄』の御文のそのものずばりなのであります。
 また同時に、その内容を考えてみたとき、今は主権在民だから国主は国民としたならば、こういう主旨のことは日達上人も仰せになっているし、学会も国立戒壇に対する意味において色々と言ってはいたわけです。だから国主が国民であるならば、国民が総意において戒壇を建立するということになり、国民の総意でもって造るのだから、そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう。
 ところが、国立戒壇ということにこだわるから、あくまで国が造るということになり、国が造るとなると直ちに国の法律に抵触するから、どうしても憲法改正ということを言わなければならないような意味が出て、事実、浅井もそのように言っているわけです。だから国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります。要は、正法広布の御遺命を拝して、倦まず弛まず広布への精進を尽くすことが肝要であります。

 しかし、私は「国主立ということを言いなさい」と言っているわけではありません。ただ私は、国主立という言い方もできるのではなかろうかという意味で言っているだけで、正規に大聖人が我々に示され、命令された御戒壇は何かと言えば御遺命の戒壇、いわゆる本門寺の戒壇であります。そして、これは本門寺が出来た時に行うということです。
 ですから、正しい御遺命の意義における本門寺は、まだ当分は出来ないだろうけれども、これからの我々の信心修行、折伏の成果において具体的に現れてくるということを考えていきたいと思うのであります。 

 以上をもって本日の話を終わりとします。


 
 この文書は「妙音」サイトからの引用(誤字等を訂正)で、見出しは妙音で付けられたものです。
 http://www.fsinet.or.jp/~shibuken/SHIRYO2/A04.htm

 文中の「強調」、「下線」 ならびに「※」は、櫻川が独自に付したものです。
 拙著 「迷走する顕正会を斬る」の記述と、併せて精読していただくと「正本堂誑惑」問題の焦点・本質が、お判りになることでしょう。
 また、本門戒壇の意義については、拙著 「本門戒壇の本義」をご覧下さい。

 

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