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  遠藤文書

                     総合教学部長・遠藤孝紀 副会長
 
 総合教学部長・SGI 教学部長の遠藤孝紀副会長が2014 年7 月10 日午後、会長・原田、副理事長・長谷川に査問を受けた。
 これは当日の午前中、副理事長宛てに提出した質問文書である。2014/7/10 付と思われる。
 
 **――***――**
 

( 遠藤文書1 )

 
 きょうの呼び出しは、昨年来の「大御本尊・会憲問題」に関連する事柄であると推測します。
 昨年9月以来、教学部の行動は、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本とする創価学会会則に些かも悖るものでないと確信しております。 
 
 私の立場で、あれこれ申し上げるのは、はなはだ僣越であり、躊躇いたしましたが、こと御本尊と先生に関する最重大事であり、そこにわずかでも私情を差しはさめば仏法違背になりますので、申し述べさせていただきます。この根本事を絶対にあいまいにしたり、ごまかしてはならないという一点は、もちろんご賛同願えると信じます。
 そこで、午後の話の大前提として以下の諸点について確認させていただきたく存じます。 

 ■1.先月、長谷川本部長、谷川総長は、戒壇の大御本尊に関する教義変更について「池田先生は、大御本尊との決別を大前提とされていた」「大御本尊との決別は先生の意志であった」と明言されました。 
 しかし池田先生は昨年、会則における大御本尊の記述変更の報告書に対して「そこまでする必要があるのか。今は事件を起こしていくというのは小さい考え方だ。もう少し流れの様子を見ていきなさい」と明快に御指導されています。 
 この点について谷川総長は先月、大御本尊との決別は池田先生の御意志であったが、先生が途中で判断を変えられた等の説明をしていました。
 しかし、この御指導には、そうした曖昧な説明を許す余地は全くありません。 
 しかも昨年9月から2カ月近く、10回以上行われた会議では、秋谷議長、谷川総長はじめ、だれ一人として、「池田先生は大御本尊との決別を大前提とされていた」「大御本尊との決別は先生の意志であった」などとは述べてはいません。
 そればかりか、谷川総長は、「大御本尊(問題)に執着しているのは、実は秋谷議長である」と再三に渡って明言しています。
 さらに谷川総長は「大御本尊と決別できないけれども、どう決別したかのような印象を与えるかだ」等と、「実質」は無理でも「印象」さえ作れればいいという発言を繰り返しています。
 こうした夥しい矛盾について、どのようにお考えでしょうか。 
 
 先月は、宮地の作成した文書のうち、昨年の9月19日、20日の出来事が焦点になりました、 
 「戒壇の大御本尊とは決別する」「学会常住の御本尊を大御本尊と位置付ける」と池田先生から御指導を受けたという原田会長の発言について、昨年の9月19日、大山第一庶務室長は、「池田先生は全くそんなことを言われていない」「会長もそうした指導は受けていない」「こんなやり方をしていたら学会の信心も
教学も崩れてしまう」と明言されました。 
 また翌20日、長谷川本部長は、「池田先生は大御本尊と決別するなどとは言っていない」「会長は嘘をついている」「御本尊では宗門と決別できない」「急いでやる必要など全くない」と確言されました。 
 さらに、その折、池田副理事長も「総本部ができて、お祝いする時にやる必要はない」「2年ぐらいして勤行会が一回りしてから考えれば十分である」等と述べています。 
 
 こうした経緯については、私自身も記録に残しております。 
 ところが先月、長谷川本部長は「原田会長が嘘を付いているなどということは私は絶対に言わない」と、立ち位置を180度変えられ、その後、更に「『池田先生が決着を付けると御指導された』と会長が言うなら、会長は嘘を付いているということだ」と、再び主張を変えられました。 
 (2013年)9月の発言は、根本尊敬の対象である御本尊に関する師匠の御指南についてです。 
  「戒壇の大御本尊とは決別する」「学会常住の御本尊を大御本尊と位置付ける」というのは、池田先生に決裁を頂いた方針だったのでしょうか。 
 もし、そうであるなら、教学部は昨年9月以来、全面的に師匠の御意向に背いていたということになります。教学部の教義的な主張が全面的に師敵対だったということになります。私も森中も、池田先生に腹を切ってお詫びすべきことになります。 
 教学部は全面的に師敵対であったいうことでしょうか。この点も是非とも明瞭にしていただきたいと存じます。 
 
 ■2. 私どもは、再三にわたり「教義変更は先生のご指示ですか」と確認し、「そうではない」という諸氏の明言を信じて、「これを実現させては絶対にならない」と行動いたしました。
 日蓮大聖人と先生に背く不法を阻止するために智慧をしぼり、同憂の士と連携もとったことも私はあります。 
 その結果、先生の明々白々の御指導をいただき、「学会が、先生の御心に背く大罪を犯すことを防げて、本当によかった」と安堵いたしました。 
 私から申し上げるのは僣越ですが、教義変更を推進しようとした皆さんからも「たいへんな間違いをするところであった。おかげで助かりました」と感謝されるものと信じておりました。 
 かりに万歩ゆずって、教義変更について何らかの先生のご指示が、かつてあったのだとしても(それは「ない」というのが、かつての皆さんの明言でしたが)、先生が更に熟考されて「すべきでない」と判断されたのであれば、先判・後判の義からいっても、後の御指示が有効であり、正義であることは論をまちません。 
 私どもの努力の結果か、この「一歩深い御指導」をいただけたのですから、皆様にとっても大変にありがたいことではないでしょうか。
 いわんや、最重大事の御本尊についての判断ですから、どんなに慎重に慎重を期してもしすぎではないのですから。 
 いずれにしても、皆様にとって喜ばしい結果であったと思います。ところが、私どもに感謝されるどころか、正反対の対応をされております。
 これはなぜでしょうか。 
 皆様の基準が池田先生であるならば、まことに理解に苦しむ話であります。 
 こういうことをあいまいなままにしては、学会の支柱である師弟の精神は崩れてしまうのではないかと危惧いたしますので、あえて明確に教えていただきたく存じます。 
 
 ■3.先月、宮地の方から、弓谷の言動に関してお伝えいたしました。弓谷は、前代未聞の女性問題を起こして男子部長を頚になった人間です。
 池田先生が、弓谷の不祥事で、大変に苦しまれたとうかがっています。先生御自身、「あいつは将来、絶対に叛逆する。絶対に使うな」と断じられたと聞き及んでおります。その弓谷が、大御本尊という学会にとって最重要の事項について、どういう資格、どういう立場で調査に当たったのでしょうか。 
 
 ■4.漏洩騒ぎ【注*01】の際には、調査委員会から、私のコンピューターと携帯電話が一方的に取り上げられました。再三、不当性を訴えたにもかかわらず、今に至るまで返答がありません。職員の就業規則に背く越権行為であると考えますがいかがでしょうか。
 【注*01:教学部レポート(「大御本尊問題と会憲の問題点」)の流失を指す】 
 
 ■5.そもそも、昨年9月以来、会議、打ち合わせ、尋問など全てが強権的、強圧的な雰囲気で行われてきました。これは、明確なパワーハラスメントであると判断しております。 
 谷川総長自身も、昨年11 月、信原幸弘東大教授、菅野博史創大教授との酒席で、「宮地は軽い人格障害だ」と嘲笑する菅野氏に同調し、「あいつは生意気だから30分ばかし締め上げてやった」等と発言しています。
 谷川総長にはパワーハラスメントをしている自覚があったのです。必要とあらば、旧知の信原東大教授に証言していただくつもりです。 
 繰り返しになりますが、私たち教学部の行動は、大聖人の御指南にも、三代会長の御精神にも、些かも悖るものでないと確信しております。 
 誤りであると言われるなら、御書に照らして池田先生の御指導に照らして、どこが誤りであるか、指摘していただきたいと存じます。 
 「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」 
 私は、どこまでも池田先生に殉ずる覚悟でおります。

 
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( 遠藤文書2:大きな誤解があったと懸念しております )

 
 長谷川本部長 
 御教示・御教導願い 
                    2014/7/17
 御多亡のところ、失礼いたします。 
 さまざま、ぜひとも御教えを賜りたい点があり、大慈悲をもって、御教示・御教導をお願い申し上げます。 
 私一身のことではなく、学会の将来に関して根本的な重大性をもった問題でありますから、必ずや御返答を頂けるものと信じております。 
 大きな誤解があったと懸念しております 
 7月10日の対面には、原田会長、長谷川本部長の御臨席を賜りましたが、その際に私が抱いたのは「これは、根本的な誤解があるではないか」という確信めいた思いです。
 要点は二つあります。 
 
 一つは、原田会長の失脚のようなものを目指した、謀略めいた動きに私が加担していると思われているのではないかという懸念です。
 これは、とうてい想像もしたことのないことであり、だからこそ、お二人が「分派活動」いう言葉で言われんとされている内容が、まったくピンと来ず、理解できなかったのです。
 御本尊に誓って、そのような発想も、もちろん行動も、私にはありません。きちんと調べていただければわかることです。 
 私にあったのは、ただただ「性急にして無理な教義変更によって、池田先生と会員に、取り返しのつかない損失を与える」ことを「断じて阻止しなければならない」という一念だけでありました。 
 
 二つには、会長は「自分は池田先生のご意思を実行したのだ」と今なお信じておられるのではないかという発見です。
 つまり、「自分は先生の認可があったからこそ、教義変更を推進したのに、そんな認可はなかったと言われ、『嘘を付いている』かのごとく批判されるのは心外だ」と思っておられるのかもしれない、ということです。 
 ここにも大きな誤解があるのではないでしょうか。
 先生の御指示に関する会長の誤解」であり、また「会長は先生の御指示を単に誤釈あるいは拡大解釈されただけであるのに、御指示を意図的にゆがめていると信じた」私どもの誤解です。 
 
 説明いたします。 
 昨年8月20日午後、会長の報告に対して、先生は「それでいい、そのとおりだ」と御指示されました。 
 これを私どもは「大誓堂に安置される学会常住御本尊を化儀の広宣流布の象徴と位置づける。それを行うに際し、あたかも弘安2年の大御本尊が一切の御本尊の根本・根源であるかのように過度にその存在を意義づける言い方については、会員の信仰が混乱しないよう、見直しを図る」と解釈しました。
 そして、事実、その通りの先生の裁可でありました。 

 ところが、会長はこれを「学会常住御本尊を、弘安2年の大御本尊に替わる新たな根本の大御本尊と意義づける。弘安2年の大御本尊については、信仰上も教義上も、もはや学会には関係のないものとして完全に決別する」というところまで拡大解釈されたのではないでしょうか。
 まさに、先生の「そこまでやる必要があるのか」というご指摘どおりであり、先生はもともと「そこまで」認可してはおられなかったということだと思います。 
 もしこれが実相に近いとすれば、私どもは「会長は誤解しておられるのではないか」と言うべきであり、「会長は嘘をついている」と言うべきではありませんでした。
 これが当たっていれば、謹んでおわび申し上げます。 
 私どもの「誤解」の背景には,先生の御指示を最もよく知っておられるはずの長谷川本部長の「会長は嘘を付いている」という言葉、大山室長の「先生は全くそんなことを言われていない」「会長もそんな指導受けていない」という言葉などがあったわけですが、先日の対面の結果、「もしかすると、会長は主観的には『自分は先生の御指示通りやったのだ』と思っておられるのではないか」と思うに至った次第です。 

( 遠藤文書3:学会は「池田先生が基準」ではなく「会長が基準」なのでしょうか )

 
 学会は「池田先生が基準」ではなく「会長が基準」なのでしょうか 
 
 先日(2014/7/10)の対面で私が驚いたのは、原田会長、長谷川本部長のお二人が声をそろえ、口をそろえて、「(大御本尊問題に関する議論の)内容はともかく」となんと10回以上も繰り返されたことでした。
 私が大御本尊問題の「内容」に触れようとすると、「それに答える必要はない」と即座にさえぎられたことも含めて、「内容の実質には立ち入りたくない」というお気持ちが、ありありと強く迫ってまいりました。 
 
 しかし、本当に「内容は問題ではない」のでしょうか。 
 実際には、反対に「内容」が仏法と池田先生の指導に適っているか否かで、今回の問題は180度、その「意味」が変わってくるのではないでしょうか。
 あたかもオセロゲームのように、白と黒は一気に反転するのです。 
 あるいは、会長御自身の主観では「自分は正義であり、先生の意図をくんでやったのだ」と思われているかもしれません。
 しかし、仏法に関する正邪は「主観」で決まるのではなく「文証・理証・現証」という「客観的」な基準に拠らねばならないということを教えてくださったのが、ほかならぬ目蓮大聖人であられます。 
 だからこそ、その御精神のまま、主観的な思いではなく、互いの主張内容を客観的に吟味すべきなのではないでしょうか。 

 具体的には、私どもの行動を「分派活動」と非難されましたが、私どもの主張のほうが正義であり、「執行部による性急な学会教義改変」のほうが池田先生の御指導に沿っていないのであれば、むしろ変更を無理に推し進めようとした行為のほうが、「池田先生を師とする創価学会」から逸脱しようとする、いわば「分派活動」となる――客観的には、こういう理路になってまいります。
 また、日寛上人の教学を根本としてきた戸田先生以来の伝統の学会から離反する「分派活動」ではないでしょうか。(会長に対して「分派活動」などという言葉を用いることは畏れ多いことですが、論理を明瞭にするために、敢えてこのような失礼な表現を用いたこと、ご寛恕ください) 
 
 お教えください。 
 創価学会は、いついかなるときも「池田先生が基準」なのではないでしょうか。「そうでない」と言うなら、会長の意図に従わず、阻止しようとした私どもは「分派活動」となるのでしょう。 
 「そうである。池田先生が基準である」と言うなら、池田先生の御指示でない教義変更を強要した方が「分派活動」をなされたことになります。
 だからこそ「内容次第」なのです。 
 もちろん、そんな背信を会長がなされるわけがありませんし、本部長がそれを支持されるはずもありません。
 その点、ありのままの「事実」を多くの心ある幹部・会員諸氏に知っていただき、そのご判断・ご意見を謙虚にうかがえば、皆様の正義は証明されるはずではないでしょうか。そのための記録も私どもは残しております。 
 

( 遠藤文書4:「会長は無謬」なのでしょうか )

 
 「会長は無謬」なのでしょうか
 
 (2014年)6月4日、長谷川本部長は、私と宮地に言われました。 
 「頼むよ、あんたよ。二人が転んじゃったら、どうすんだよ。学会教学、原田会長のもとで、もう右って言えば右という論文を書く。左って言えば左の論文を書く。創価学会教学っていうのは、そういうもんじゃない」 
 私は「そういうもん」だとは考えておりません。
 これでは「教学部は『時の会長に信伏随従せよ』と言っているのと同じではないでしょうか。
 こう言われた時、私は「法主が白と言えば白。黒と言えば黒」という宗門を思い起こしてしまいました。 法主無謬説を唱える宗門と学会が全く異なっていることは言うまでもありません。 
 
 そこで長谷川本部長にお伺いしたいのです。 
 「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」との日興上人の御遺誡をどのようにお考えでしょうか。 
 創価学会会則に「(会長は)教義および化儀を裁定する」と定めてあるのだから、どんな時でも会長は無謬であり、信伏随従すべきであるとでも言われるのでしょうか。 
 大聖人は仰せであります。「仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か」 
 「経の如くに説かざる」人間には、どのような立場の相手であろうと従ってはならない。これは御本仏の御命令であります。 

 原田会長、長谷川本部長は、私たちの行動を「分派活動」と決めつけられました。
 しかし、「会長の指示を阻止しようとして会合するのは分派活動という主張が成り立つ前提は、「会長の指示が、御書と三代会長の指導に照らして、間違いなく正しいものである」ことです。 
 反対に、会長の指示が御書と三代会長の指導と異なっているにもかかわらず、関係者の再三の指摘にも耳を貸さず、強行するのであれば、それこそ大切な多くの会員を自らの「仏法違背の道」に巻き込み、道連れにしていく「分派活動」に他なりません。そうではないでしょうか。 
 こうした「分派活動」を阻止することは、真の仏弟子の使命であります。 

 大聖人は重々誡められています。 
 「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せざれば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり 若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」 
 今回行われようとした教義改変は明らかな誤りです。
 こうした暴挙の阻止のため、同憂の士が集まることは、御言に照らし、道理に照らして、正義であります。
 反対に、その戦いを避けるならば、御本仏から「仏法の中の怨」との責めを被ること必定です。
 実際、私どもが阻止のために行動しなければ、性急な意図が「実現」し、結果的に、池田先生のお考えに反する結果になったのではないでしょうか。
 私どもの行動の「おかげで」、先生に違背せずにすんだのではないのでしょうか。 
 そうした行動を「処分」するということは、いついかなるときも「池田先生が基準」という原則と完全に矛盾するのではないでしょうか。
 それとも、その基準自体が間違いなのでしょうか。
 
 学会の原理原則にかかわるこの問いに答えず、沈黙したまま、「処分」を強行されるのであれば、それは会長みずから率先して「師弟の道から逸脱している」姿ではないでしょうか。
 それ自体が、私どもの行動の正しさを強く「裏づけ」「実証」してくださることになるのではないかと考えます。 
 良識ある多くの方も、そう考えるほかないと賛同されると信じます。 
 
 これは将来にわたっても十分、起こりうる事態でありますから、会長御自身にも明確に答えていただきたいのです。
 日興上人が先々の未来まで考えられて、遺誡を残されたように。 
 すなわち「時の会長が、誤れる行動をしようとしている時でも、会長の意図を阻止する行動をした者は、それだけで分派活動であり、処分の対象になる」と主張されるのでしょうか。 
 主張の「内容にかかわらず」会長の意向に沿わない者は処分する――これでは、「会長無謬説」「会長独裁制」であると認めていることになります。 
 「会長は無謬ではない」のであれば、「会長の行為は誤っているのではないか」という主張の「内容」を吟味するのが当然ではないでしょうか。 
 この点、いかがお考えでしょうか。 
 

( 遠藤文書5:二転三転する御主張の真意はどこにあるのでしょうか )

 
 二転三転する御主張の真意はどこにあるのでしょうか。
 
 昨年9月20日、長谷川本部長は、教義改変の画策に関して「池田先生は大御本尊と決別するなどとは言っていない」「会長は嘘をついている」「御本尊では宗門と決別できない」「急いでやる必要など全くない」と、会長を厳しい口調で批判されました。
 まさに「切って捨てる」ような口調であり、表情であられました。 
 にもかかわらず、この6月4日に対面した際には、谷川総長の「池田先生は大御本尊との決別を大前提とされていた」「大御本尊との決別は先生の意志であった」と言う主張に賛同し、宮地作成の文書についても「内容が全くの虚偽だ」という態度を表明されました。 
 その上、「『原田会長が嘘をついている』などということは私は絶対に言わない」と昨年9月20日の発言を否定され、その点に関する記録を当方が読み上げると、今度は更に変わって「『池田先生が決着を付けると御指導された』と会長が言うなら、会長は嘘をついているということだ」と、あわてて前言を翻されました。 

 更に7月10日には、中央会議(昨年10月3日)における方面長の発言内容【注*02】について「『皆やはり方面長だな、大変しっかりしているな』と受け止めた」等と肯定的に評価されています。
 もし大御本尊との決別が最初から先生の御意思であったならば、このような肯定的評価など出てくるはずがないのではないでしょうか。 
 また、つい1カ月半前(6月4日)には「内容の問題が大事だ」と述べておられたにもかかわらず、今回(7月10日)は「内容はともかく」と何度も何度も繰り返しておられました。 
 ことは、大御本尊にかかわり、学会の将来にかかわり、池田先生にかかわる大事です。
 長年、池田先生に仕えてこられた本部長が、先生の御指示について180度異なる主張をなされる真意は、どこにあるのでしょうか。 
 おそらく、凡愚の私などには、とうてい理解できない甚深の意味があるのだと思いますが、ぜひとも御教示願いたく、お願い申し上げます。 
  【注*02:教学部レポートによると原田会長の説明に疑問を呈するものだった】 
 

( 遠藤文書6:「これは先生の明確な御指示」という言は真実なのでしょうか  )

 
 「これは先生の明確な御指示」という言は真実なのでしょうか 
 
 このように、問題の要点は「振出し」に戻ります。 
  「池田先生は、大御本尊との決別を大前提とされていた」のか否か? 
 「今、大御本尊と決別することが先生の明確な御意思であった」のか否か? 
 
 この「内容」こそが、最重要のポイントです。
 これによって、皆様と私どもの行動の黒白は180度反転します。 
 昨年の9月19日、大山室長は証言しておられます。 
 「先生は全くそんなことを言われていない」「会長もそんな指導受けていない」
 「会長も先生の前で『いろいろな意見がありますので、慎重の上に慎重に進めます』そう言っていた。確かに『慎重に進めます』とは言ってた。あわてて事を進めるなんて、そんなこと言ってないよ。一切。言うわけない]「こんなやり方をしてたら、学会の信心も崩れてしまう。教学も崩れてしまう」 
 更に池田副理事長も「せっかく、総本部ができて、お祝いなのに。お祝いの時にやる必要などない。何で、今やるなんてなったのか」等と繰り返し言われています。 

 また谷川総長は、我々との打ち合わせの際、弘安2年の大御本尊に対する秋谷議長の執着が招いた混乱だと率直に吐露しておられます。 
 「秋谷議長は、結構恐ろしいけど、板御本尊に結びついていく論理とか感覚がしみこんでいるんだ。だから『やっぱり学会常住御本尊も広宣流布の大御本尊にした方がいいじゃないか』となるんです。結局、抜け出よう抜け出ようと言っている人たちの命にすごく深く入っているわけですよ」 
 「やっぱり秋谷議長の中に弘安2年の大御本尊が、すごく深く入っている。深く入っているがゆえに、抜かなきゃならないという意識がすごく強い。抜く方に関心が行って、今回何をしなければならないかということが、むしろ後になってしまう。それで議論の混乱を招いている。会長は説明したらかなり速く分かりました。秋谷議長は分からない」 
 なにより池田先生御自身が「そこまでする必要があるのか。今は事件を起こしていくというのは小さい考え方だ。もう少し流れの様子を見ていきなさい」と明快に裁定を下されています。この師匠の言葉まで、自分たち都合のいいように捻じ曲げることは許されるのでしょうか。 
 
 要するに、この最重要のポイントについては、かつて長谷川本部長みずから断じられたように「会長は嘘をついている」、あるいは私が推測した通り「会長は誤解しておられる」のではないでしょうか。 
 「そうではない」と言われるのであれば、具体的に「何年何月何日の何時ごろ、どこで、だれの立会いのもとで、どのようなご指導があったのか」を会長から明示していただければ幸いです。 
 それをなされないのであれば、邪推するわけではありませんが、そういう明確な御指導は「なかった」からこそ、内容に踏み込むことを、あれほど忌避されたのではないのでしょうか。
 「内容」を検討すれば、先生と会長との齟齬が明白になってしまう――そのことを恐怖されたのでなければ幸いです。 
 そうではないと言われるのであれば、「内容」について、具体的に反駁していただきたく、お願い申し上げます。
 ことは御本尊と先生にかかわる根本事です。
 誤れる「内容」に執着していれば、誰人であれ、堕地獄は間違いありません。ゆえに、私の誤りをも大慈悲をもって、御教導願いたく、伏してお願いするものです。 
 

( 遠藤文書7: 「内容」だけでなく「形式」面でも逸脱していないでしょうか  )

 
  「内容」だけでなく「形式」面でも逸脱していないでしょうか 
 
 「内容次第」であることはご理解願えたと思います。 
 でもなお、内容よりも形式が大事であると言われるなら、教えていただきたいことがございます。 
 そもそも今回の教義改変の画策は、当会の意思決定のルールから逸脱したものではないでしょうか。 
 
 第1に、学会の未来を決する重要事でありながら、永遠の指導者である池田先生に、最終盤に至るまで、決裁を仰ぐ「報告書」すら提出していない。 
 第2に、執行部の合議を経ずに、独断専行的に決めようとした。 
 第3に、小委員会を推進派で固め、密室で協議を進めた。 
 第4に、教学部に対し、従来の教学とまったく整合性のとれない教義改変を強要した。 
 第5に、その際、「恫喝」まがいの荒々しい言動が繰り返された。 
 (先日、お答えいただけなかったので、再度、記させていただきますが、昨年9 月以来、会議や尋問など全てが強権的、強圧的に行われてまいりました。私のコンピューターと携帯電話も一方的に取りげられました。著しい人権蹂躙であります。再三、不当性を訴えたにもかかわらず、今に至るまで一言の返答すらありません。これは法的見地からも明らかなパワーハラスメント行為です。また、谷川総長の毎回毎回の言動も常軌を逸した強権的なものでした。全て記録に残してあります) 
 第6に、全てが池田先生の御意思であるかのように印象づけ、日本とSGI各国の首脳たちの意見を出しにくくさせた。 
 第7に、責任役員会の際、事前に根回しした一部の人間に示威的な言動をさせるなどの不明朗な策略を巡らした。九州の山本氏、北海道の浜名氏から直接うかがっています。 
 
 これらがルールの逸脱でなくてなんでありましようか。 
 内容から言っても、形式から言っても、道理を逸脱した異常な画策と言われても仕方のない実態だったのではないでしょうか。
 それを実行された方々に、それを阻止しようとした人を裁く資格がおありだとお考えでしょうか。 
 「そんな理屈は関係ない」と、今後も態度で示されるのであれば、それは、実態的に「会長独裁制」であり、「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」との御本仏の教えを無にする強権主義ではないかと愚考いたします。 
 もとより私は自分が処分されることなど恐れてはおりません。むしろ「誉れ」と思っております。
 しかし、こうした職権乱用が横行すれば、仏意仏勅の和合僧団は崩れ去ってしまいます。私は、そのことを恐れるのです。
 御本仏日蓮大聖人のお怒りを、また不惜身命で学会を護ってこられた三代会長ならびに真面目な会員の悲しみを恐れるのです。 
 
 ちなみに、宮地に関しては、皆様の言われる「分派活動」なるものにはまったく関与しておりませんので、教学室でこれまで以上に活躍してくれることを私は信じ、期待しております。 
 彼は将来の学会にとって不可欠の大人材であり、彼が活躍しなければ教学の振興は実質的に不可能になってしまいます。これは、私見のみならず、衆目の一致するところです。 
 また先生の指導選集の連載も、毎回毎回、世界各国と連携を取りながら細心の配慮をもって進めておりますので、万が一にも彼が外されるようなことがあれば、連載が立ち行かなくなるか、致命的な失敗が起こることは必至です。 
 先生にとっても、会員にとってもマイナス価値でしかないこうした結果を招きよせてよいという資格は誰にもないと信じます。 
 そもそも、彼は「御書と池田先生を基準」に正義感をもって行動しただけであり、あの文書【注*03】も、その一環として作成したものです。
 そして、皆様の御主張のように、文書を彼のそうした意図と異なるかたちで利用しようとする人間が存在したと「仮定」したとしても、それは彼のまったくあずかりしらぬことであり、こういうかたちで文書が問題視されることで、むしろ迷惑をこうむっている被害者であります。 
 
 私も65歳になろうとしています。もはや地位も立場も何も惜しくはありません。むしろ「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」との法華経の経文を、かつてない実感をもって拝せることに無上の喜びを感じております。 
 憂えるのは、ただ学会の将来であり、「池田先生第一」で生きている真面目な後輩たちの活躍の道を閉ざしたくないという一心で、申し上げました。
 その真情に免じて、数々の無礼の言、ご容赦を賜りますように。そして、大慈大悲をもってこれらの疑問に答えてくださいますよう、重ねてお願い申し上げます。 
 【注*03:教学部レポート(「大御本尊問題と会憲の問題点」)を指す】 
 
                     2014 年7 月17 日 遠藤 拝 
 **――***――** 
 
 ※これは入手した文書を忠実にテキスト化し、若干の注や補足説明を補い、改行等を読みやすくしたものです。 


   出典:http://www.geocities.jp/bosatu2015/endo.htm
 

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