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                    冨士大石寺顕正会会長 淺井 昭衛
 目 次
 
    亡国の予兆/仏法と世法
    末法の御本仏・日蓮大聖人/「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
    諸天の働き/なぜ、いま亡びんとするのか/亡国の大難は刻々迫る
 
  一 末法下種の本仏
    三大秘法
  二 釈迦仏の予言証明
  三 大智恵、大慈悲、絶大威力
    大智恵/大慈悲/現当二世の大利益/絶大威力
  四 竜の口の大現証
    諸宗はなぜ邪法か/巨大地震
    立正安国論/念仏暴徒の草庵襲撃/伊豆流罪/小松原の法難/文永の大彗星
    諸天善神とは/諸天はなぜ大聖人を守護するのか/諸天の力用
    大蒙古より国書来たる/公場対決を迫る/良観祈雨に敗れる/良観のざん奏
    「日本国の柱を倒す」/八幡大菩薩を叱責/国家権力がひれ伏す/兵士たちの帰依
  五 蒙古の責めの大現証
    佐渡流罪/阿仏房夫妻の帰依/野外の大法論/自界叛逆の予告
    開目抄/佐渡より帰還/最後の諌暁/鎌倉を去る
    大蒙古ついに襲来/熱原の法難/蒙古再度の責め
  六 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
 
  一 日本一同の仏法違背
    「自他の叛逆歳を逐って蜂起せん」/「前代未聞の大闘諍」は迫る
    諸天は忘れず
  二 創価学会の仏法違背
  (一)日蓮大聖人の御遺命に背く
   (1)御遺命とは何か
    「一期弘法付嘱書」の御教示/「三大秘法抄」の御教示
    富士大石寺歴代先師の文証/創価学会も国立戒壇を主張
   (2)国立戒壇否定と正本堂のたばかり
    「法主」を籠絡/誑惑の大合唱
   (3)御遺命守護の戦い
     第一次諌暁
     「正本堂に就き宗務御当局に札し訴う」
     細井管長と対面/「事の戒壇」の定義変更のたばかり/共産党の質問主意害
     「国立戒壇を永久放棄せよ」/再び細井管長と対面/「四箇条に従え」
     臨時時局懇談談会/政府への欺瞞回答/国立戒壇放棄の公式決定
     対面所で学会代表と論判/誑惑訂正の「確認書」
     第二次諌暁
     「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」
     宗務院を楯とする/宗務院の回答/「妙信講作戦」/「正本堂訓諭」を発布
     池田会長に公場対決せまる/悪書「国立戒壇論の誤りについて」
     阿部教学部長辞表を提出/細井管長訓諭を訂正/学会代表と法論
     「聖教新聞」で誑惑訂正/戒壇の大御本尊御遷座
     第三次諌暁
     解散処分下る/悪罵の嵐/御在世の信心/学会・宗門に亀裂/細井管長 急死
     第四次諌暁
     阿部日顕管長の登座/「早く遷座し奉るべし」/「本門寺改称」へ二人三脚
     「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」/再び自界叛逆おこる/罪を池田に着せる
     一国諌暁に立つ/不思議の還御/改悔なき輩
  (二) 本門戒壇の大御本尊を蔑如
     「偏狭にこだわらない」/観念文と会則から削除
  (三) 諌法の邪宗に与同
     全邪宗に友好の「御挨拶」/立正佼成会開祖の葬儀に参列
     世俗の名利求めて謗法与同
 
     聖徳太子の仏法守護/伝教大師の法華経宣揚/御本仏出現/残された時間は少ない


 

 序 章 日本国いま亡びんとす

 
 日本は今、亡国の前夜を迎えている。
 その亡国は、どのような災難によってもたらされるのかといえば――
 まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病(感染症)等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆(じかいほんぎゃく)(国内の分裂抗争)と他国侵逼(たこくしんぴつ)(外敵の侵略)が起こるのである。
 これは凡夫の私が言うのではない。日蓮大聖人が立正安国論の奥書に「未来亦(また)然(しか)るべきか」と示されるところによる。
 日本国は700年前、この国にご出現された大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人を、二度も流罪し、ついには竜(たつ)の口(くち)の刑場で御頸(おんくび)まで刎(は)ねんとした。この大逆罪はたちまちに「大蒙古の責め」という大罰となって現われ、国まさに亡びんとした。
 しかるに日本の人々は改悔なく、今に至るまで日蓮大聖人を信ぜず、背き続けている。仏法まことならば、どうして国の保つことがあろうか――。
 ここにいま「時」来たって、日本国は再び亡国の大難を受けんとしているのである。
 しかしこの恐るべき亡国の大難が起きても、もしその起こる所以(ゆえん)を知らなければ、人々はただ恐れ戦(おのの)くのみで、これが「日蓮大聖人に背くゆえ」とは知るよしもない。したがって大聖人に帰依信順することもない。そうであれば、日本はそのとき必ず亡ぶ。
 よって日蓮大聖人の弟子として私は、前もってこれを全日本人に告げ知らしめて国を救わんと、本書を著わした次第である。
 
  亡国の予兆
 
 およそ国が亡びるほどの大事に、予兆がないということはない。立正安国論には多く予兆が示されているが、その中に、いまの日本にすでにはっきりと現われている一つの予兆がある。それが
 「一切の人衆(にんしゅう)皆善心無く……」
 との仰せ、すなわち人心の荒廃である。
 現在の日本は、人の心が荒(すさ)み頽廃(たいはい)し、上は政治家から下は小学生にいたるまで、あたかも箍(たが)がはずれたようになってしまった。
 政治家の腐敗を見てみよう。代議士には年間1億円近い国費が投じられている。そのうえ国民よりも格段に有利な議員年金制度で老後も守られているというのに、秘書給与のピンハネ、口利き等で私腹を肥やす者があとを絶たない。これに関わりのない政治家が、果して何人いるであろうか。
 しかしこんなことはまだ可愛い。政治家は利権のために際限もなく国債を濫発させ、ついに日本を世界最大の借金国家、破産寸前の国にしてしまった。私利私欲が国を食い物にしたのだ。
 さらに許されないことは、売国的行為である。異常な軍備増強で我が国に脅威を与えている中国に、国民の血税を以て6兆3千億円もの支援をしているのはどういうわけか。これに異を唱えた政党・国会議員のあるを聞いたことがない。彼らは己れのために国を危うくしているのだ。雁首(がんくび)そろえて北京詣でをする親中・拝中・媚中の多くの議員たちを見るとき、「亡国の政治家」の感を深くする。
 一方、巷には凶悪・残忍な犯罪があふれている。殺人・強盗・放火・婦女暴行・誘拐などの重要犯罪だけでも、昨年度(平成15年)は23971件、一日平均66件となる。これでは、テレビニュースが毎日殺人事件であふれるのも当然である。
 ことに〝親殺し〟と〝幼児虐待〟の激増は、目を覆うばかりである。どれほどの極悪人でも、自分を生み育ててくれた親、骨肉を分けた父母を殺すことは容易にはできない。ところが今や、カネめあて、あるいは衝動的怒りから、簡単に親を殺す。
 ごく最近の事件だけでも、3月15日には横浜で、37歳の息子が父親に注意されたことを怒り、鉄亜鈴(あれい)で父の頭部を数回殴り、さらに台所の包丁で腹を数回刺し殺害した。その5日後の20日には、千葉で20歳の息子が父親の胸をナイフで刺し殺害するという事件がおきている。
 また同17日には、大阪泉佐野市で24歳の母親が、1歳の長男を虐待して死亡させ、さらに二女(三つ)にも虐待を繰り返し、殴ったり、たばこの火を押し付けたりして、126ヶ所の傷を負わせていたという。
 これらは人間ではない、鬼畜の所行といわねばならぬ。このような、あってはならぬ犯罪が、連日のごとくおきる世の中に、なってしまったのである。
 若者の頽廃も目に余る。覚醒剤中毒者は推定160万人といわれる。教室で麻薬を売買して逮捕された高・中学生もいた。女子高校生・中学生の出会い系サイトを利用しての売春など、もう珍しくもない。小学校の学級崩壊も増加の一途をたどり、平成14年度は公立小だけで4057件に達したという。
 まさに政治家から小学生まで、箍(たが)がはずれたようになってしまった。貪欲(とんよく)(欲望肥大)、瞋恚(しんに)(衝動的怒り)、愚癡(ぐち)(道理のわからぬ愚か)を三毒というが、三毒強盛が、この犯罪社会を作り出しているのである。
 日本の史上、今日ほど物の豊かな時代はないが、今日ほど人の心が荒廃した時代もない。この人心荒廃こそ、亡国の予兆の一つなのである。
 
 これら亡国の予兆の地鳴りが聞こえるのか、巷には憂国の書が溢れている――「日本の死」「国が亡びる」「日本崩壊の危機」「日本の危機」「危機の日本」「誰が国を亡ぼすのか」「日本の没落」「日本崩壊」「日本破綻」「日本の終わり」「家族破壊―こうして日本は毀される」「日本経済恐ろしい未来」等々、挙げればきりがない。このように亡国を憂える書が氾濫したのも、戦後はじめての現象であろう。
 これらの著者はみな一流の識者、内容も真摯である。ただし、枝葉の事象の分析は詳細だが、それが何に因ってもたらされたのか、すなわち亡国の根本原因を知る人はいない。
 それは、仏法を知らないからだ。いま日本が迎えんとしている亡国は、世間の浅き原因から起こるのではない。仏法に背くを因としているのである。
 
 仏法と世法
 
 仏法とは、大智恵の仏が、時間的には過去・現在・未来の三世を、空間的には宇宙法界を見極わめて覚(さと)られた、生命・生活の根本の理法である。
 仏が仏法を説かれる目的はただ一つ。それは一切衆生に「成仏」を得さしめるところにある。成仏とは俗にいう死ぬことではない。成仏とは、仏が証得(しょうとく)された永遠に崩れぬ最高無上の幸福境界である。この「成仏」を得る唯一の実践法・生活法が仏法なのである。そして仏法は国家にとっては、真の安泰を得る根本の指導原理となる。
 仏法に対して、世間一般の道理・法則・現象等を「世法(せほう)」という。仏法と世法とは別なものではない。もし深く世法を見つめれば、その奥底に仏法がある。
 ゆえに大聖人は「もし深く世法を識(し)れば、即ち是(こ)れ仏法なり」(開目抄)
 と仰せられている。すなわち仏法は根底の理法、世法は表層の理法。仏法は全体観、世法は部分観。仏法は根本の因果を明かし、世法は枝葉(しよう)の因果にとどまるのである。
 だから、たとえ世法における最善を尽くしたとしても、もし仏法に背けば、幸福はもたらされないし、国も安泰にはならない。たとえば、いかに農作技術の最善を尽くしても、太陽の恵みがなければいかなる技術も虚しくなるのと同じである。
 この道理を大聖人は、個人生活に約しては次のように示されている。
 「夫(そ)れ運きはまりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従(しょじゅう)もしたがはず」(四条抄)――もしその人の運命が極まってしまったら、いかなる兵法も役に立たないし、果報が尽きてしまったら、従者までも背くようになる――と。
 人は、才能があって努力さえすれば幸せになれると思いがちだが、これは部分・表面だけを見た因果にすぎない。もし福運が尽きれば、いかに才能があろうと努力しようと、役には立たないのだ。かえってそれらが裏目に出てしまう。崩れぬ幸福をもたらす福運・果報等は、仏法の実践によってのみ、その人の身に具わるのである。
 また大聖人は、国家に約しては次のごとく示されている。
 「万民(ばんみん)百姓を哀(あわれ)みて国主・国宰(さい)の徳政を行う。然りと雖も唯肝胆(かんたん)を摧くのみにして、弥(いよいよ)飢疫に逼り……」(立正安国論)――たとえ為政者が人民の苦悩を見て徳政を行なったとしても、もし仏法に背いていたら、国土に飢饉や疫病などの災難が相次ぎ、かえって人民の困窮は増す――と。
 国防についても、かく示されている。
 「設(たと)い五天の兵(つわもの)を集めて鉄囲山(てっちせん)を城とせりともかなふべからず。必ず日本国の一切衆生、兵難に値うべし」(撰時抄)――防衛手段の最善を尽くしたとしても、仏法に背くならば、他国の侵略を防ぐことはできない――と。
 さらに国家の命運に与える影響について仏法と政治を比べては、次のごとく示される。
 「王法(おうぼう)(政治)の曲るは小波・小風のごとし、大国と大人(たいにん)をば失いがたし。仏法の失(とが)あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし、国のやぶるる事疑いなし」(神国王御書)――たとえ失政があったとしても、国家・国主に福徳があるときには、国が亡ぶということはない。だが正しい仏法に背くときには、いかなる福徳の国主の国といえども必ず亡びる――と。
 このように仏法は、個人の幸不幸、国家の興亡盛衰における、根本の因果を明かす理法なのである。
 
  末法の御本仏・日蓮大聖人
 
 仏法は歴史的には3千年前、インドの釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)(釈尊)によって説き出されている。釈尊は一代50にわたって法を説いたが、最後8年に説いた法華経をもって、一切衆生を成仏得脱せしめた。
 そしてこの釈尊が、滅後2千年以降の「末法」という時代について、二つの重大な予言をしているのである。
 その一つは「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」といって、末法には釈迦仏法が滅尽するということ、経巻は残っても利益が消滅するということである。もう一つは「闘諍堅固(とうじょうけんご)」といって、末法に入ると人の心が荒くなり、大戦乱の時代になるということである。
 
 では、この末法の全人類は、いかなる仏様によって救済されるのであろうか。
 釈迦仏はさらに重大な予証をしている。すなわち法華経には、「上行菩薩」という威徳ある大菩薩が、根源の大法をもって末法の一切衆生を救うということが説かれている。そしてこの上行菩薩の徳を釈尊は
 「日月(にちがつ)の光明(こうみょう)の 能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く、斯(こ)の人 世間に行じて、能く衆生の闇を滅せん」(神力品)
 と讃嘆しているのである。
 この上行菩薩こそ、実は、宇宙法界に存在するあらゆる諸仏の本源に位置する「久遠元初(くおんがんじょ)の自受用身(じじゅゆうじん)」という本仏なのである。
 末法には、この根源の仏が、根源の大法「南無妙法蓮華経」を以て、全人類をお救い下さるのである。その御本仏こそ、日蓮大聖人であられる。
 大聖人は釈尊滅後2171年に、日本国に出現された。そして透徹の御智恵をもって我が生命を観(かん)ぜられ、そこに宇宙法界をも包含する生命の極理「南無妙法蓮華経」をお覚りになられた。
 この南無妙法蓮華経こそ、釈尊が法華経の本門寿量品の文底に秘沈された大法であり、「十方三世の諸仏」の成仏の種であり、末法の一切衆生成仏の唯一の正法である。
 当時の日本国は、念仏・真言・禅・律等の成仏の叶わぬ邪法が国中に充満していた。人々は毒を薬と信じ、服んでいたのである。
 この中において、「邪法を捨て、南無妙法蓮華経と唱えよ」と勧めれば、必ず身命にもおよぶ迫害がおこる。しかし言わなければ無慈悲になるとして、大聖人は捨身不退のご決意を以て立ち給うた。
 「今日蓮は、去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安三年十二月にいたるまで、二十八年が間又他事(たじ)なし。只、妙法蓮華経の七字五字を、日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計(ばか)りなり。此(こ)れ即ち母の赤子(せきし)の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(諫暁八幡抄)と。
 この大慈悲をもって、ひたすら成仏の大法をお勧め下されたのである。
 ところが諸宗の僧らは、すでに教義上の正邪は明白なのに、己れの地位と利益を守るために大聖人を憎嫉(ぞうしつ)し、民衆を煽動(せんどう)したうえ、国主にも讒奏(ざんそう)した。
 ここに国を挙げての悪口罵詈(あっくめり)がおこり、さらに国家権力による理不尽な流罪がなされ、ついには竜の口において、御頸(おんくび)を刎ねんとしたのであった。
 だがこのとき、凡夫の思議を絶することが起きた――
 大刀まさに振り下されんとしたその刹那(せつな)、深夜の暗闇の中に満月のような光り物が出現し、太刀取(たちと)りは眼くらんでその場に倒れ伏し、まわりを取り囲んでいた数百人の兵士たちも、驚怖のあまり一斉に逃げ出した。
 砂浜に坐するは、日蓮大聖人ただお一人。大聖人は高声で叫ばれた。
 「頸切るべくわ急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん」――首を切るならば早く切れ、夜があけたら見苦しいであろう――と。
 だが、返事をする者もない。皆へたりこみ、ひれ伏してしまったのである。まさに国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切れず、かえってその御威徳にひれ伏してしまったという、人類史上かってない光景が、ここに現出したのであった。
 
  「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
 
 この死罪ののち、流罪の地・佐渡の雪中において大聖人は
 「日蓮によりて日本国の有無(うむ)はあるべし」と師子吼(ししく)された。
 日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決する――との御意である。
 この仰せのごとく、竜の口における血の凍るような大逆罪のわずか5ヶ月後、鎌倉幕府に深刻な自界叛逆がおこり、京・鎌倉は戦乱の巷と化した。
 さらに3年後には、恐るべき亡国の大難が日本を襲った。世界の5分の3を征服してきた大蒙古が、その圧倒的な大軍を以て、文永・弘安の二度にわたり押し寄せて来たのである。彼我(ひが)の軍事力の差から見れば、この時すでに日本は亡んでいたのである。亡んで亡びなかったのは、実に「日蓮がひかうればこそ」のゆえである。
 このように、日蓮大聖人に背けば人も国も必ず亡びる。この厳然たる賞罰をもって、御本仏は心の荒んだ末法の一切衆生をお救い下さるのである。
 
  諸天の働き
 
 では、大聖人に背くと、なぜこのように国に災難が現われるのか、罰があらわれるのであろうか。
 それは、宇宙的スケールの力用(りきゆう)を持つ「諸天善神」が、日蓮大聖人を常に守護し、その御化導を助けまいらせているからに他ならない。
 立正安国論にはこの理(ことわり)を、災難のおこる原理に約して次のごとく示されている。
 「世皆(みな)正に背き、人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てて相(あい)去り、聖人(しょうにん)所を辞して還(かえ)らず。是(ここ)を以て魔(ま)来たり鬼(き)来たり、災起こり難起こる。言わずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず」と。
 文意を端的にいえば――もし一国こぞって日蓮大聖人に背くならば、仏法を守護する諸天善神の働きにより、国に災難が起こる――ということである。このことは、世間の常識では理解しがたいとは思われる。しかし、わかろうとわかるまいと、真実のことはどうしても言わねばならぬ。「言わずんばあるべからず」なのである。
 では「諸天」とは何かというと、十界の中の天上界の衆生である。この宇宙法界には、仏法を守護する天上界の生命活動が存在している。梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・日月(にちがつ)・四天(してん)等がこれである。目には見えないが、その存在を疑ってはならない。
 人類はつい近年まで、ウィルスの存在も、ブラックホールの存在も知らなかったではないか。しかし人の知・不知にかかわらず、これらは存在していたのである。だから、固定観念にとらわれて諸天の存在を否定すれば、慢心・偏見ということになる。
 まして、大聖人の御化導の上に現われた諸天の厳然の働き、この現実の証拠を見れば、これを否定できる人は一人もないはずだ。(詳しくは次章)
 この諸天の働きはどのようなものかといえば――もし一国こぞって日蓮大聖人を迫害すれば、諸天はまず大地震・大彗星・異常気象・大飢饉・大疫病(感染症)等を発生させてその国を諫める。しかるに迫害なお止まなければ、人の心に入って自界叛逆せしめ、ついには隣国の王の心を動かしてその国を責めしめる――と経文・御書には示されている。
 地震・異常気象・ウィルスの発生など、自然現象と見られるものも、表面の発生メカニズムは科学者の説明するごとくかも知れぬが、その根底には、諸天の力用が作用しているのだ。まさに諸天の力用は時空を超えた宇宙的スケールなのである。
 この諸天が、日蓮大聖人を常に守護し、その御化導を助けまいらせている。ゆえに竜の口のあの大現証も起きたのである。いかに狂気の権力者が大聖人の御命を奪わんとしても、奪うことはできなかった。このことを大聖人は
 「設(たと)い大鬼神(きじん)のつける人なりとも、日蓮をば、梵釈(ぼんしゃく)・日月(にちがつ)・四天(してん)等、天照太神(てんしょうだいじん)・八幡(はちまん)の守護し給うゆえに、罰しがたかるべし」(出世本懐成就御書・別称 聖人御難事)と仰せられている。
 また、大慈大悲の御本仏を流罪・死罪にすれば、諸天は必ずその国を治罰(じばつ)する。このことを
 「日蓮は一閻浮提(いちえんぶだい)(世界)第一の聖人(しょうにん)なり。上一人(かみいちにん)より下万民(しもばんみん)に至るまで之を軽毀して刀杖を加へ流罪に処するが故に、梵と釈と日月・四天、隣国に仰せ付けて之(これ)を逼責(ひっせき)するなり」(聖人知三世事)と。
 さらに深く見れば、この蒙古の責めは大聖人が諸天に申しつけ、起こさしめ給うたものである。これ一国を改悔(かいげ)させ、後生(ごしょう)の無間(むげん)地獄の大苦を今生(こんじょう)に消さしめんとの大慈大悲であられる。ゆえに
 「法華経の敵(かたき)となりし人をば、梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・日月(にちがつ)・四天(してん) 罰し給いて、皆人に見(み)懲(こ)りさせ給へと申し付けて候。日蓮 法華経の行者にてあるなしは、是れにて御覧あるべし。こう申せば国主等は、此の法師(ほっし)の威(おど)すと思へるか。あへて憎みては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」(王舎城事)とは仰せられる。
 このように末法の御本仏は、諸天を随え、申し付ける大境界であられればこそ、その主徳を
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
 とお示し下さるのである。
 
  なぜ、いま亡びんとするのか
 
 日蓮大聖人の大願は、日本および世界の人々がことごとく三大秘法を受持して、成仏を得るところにある。そして世界の広宣流布は日本の広宣流布から始まる。この日本の広宣流布について大聖人は
 「剰え広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)
 「大地を的とする」とまでのご断言をされているのである。
 では、どのようにして広宣流布になるのかといえば、大聖人はかく仰せられている。
 「時を待つべきのみ」(一期弘法付嘱書・三大秘法抄)
 「ただをかせ給へ、梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)等の御計(みはからい)として、日本国一時に信ずる事あるべし」(上野抄)
 「前代未聞の大闘諍(だいとうじょう) 一閻浮提(いちえんぶだい)に起こるべし。其の時、日月所照(しょしょう)の四天下(してんげ)の一切衆生、或いは国ををしみ或いは身ををしむゆへに、(中略)皆頭を地につけ掌(たなごころ)を合わせて、一同に南無妙法蓮華経と唱うべし」(撰時抄)と。
 これらの諸文の意は――
 大聖人の滅後において、もし日蓮大聖人に背き続けるならば、梵天・帝釈等の諸天の働きにより、年ごとに災難は増大しついには未だ曽てない大戦争が地球規模で起こり、日本はその大渦に巻き込まれる。そのとき、亡国の恐ろしさ、身を喪(うしな)う恐しさから、始めて日本一同、今まで軽んじていた日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱えるにいたる――ということである。
 ゆえに、大聖人の仏法を継承された二祖日興上人は、鎌倉幕府への諫状において
 「所詮、末法に入って法華本門(ほっけほんもん)を建てられざるの間は、国土の災難日に随って増長し、自他の叛逆(ほんぎゃく)歳(とし)を逐(お)うて蜂起(ほうき)せん」と仰せられている。
 「法華本門」とは三大秘法のことである。すなわち――末法において日蓮大聖人の三大秘法を立てない間は、国土の災害と、自界叛逆・他国侵逼は年を追って激しくなるであろう――と。
 事実、大聖人滅後700年の歴史を見れば、幕末までの500数十年は戦国時代に象徴されるように自界叛逆(内戦)の時代であり、明治より昭和の敗戦までは日清戦争・日露戦争・満州事変・日中戦争・太平洋戦争等と、他国との戦いの時代であった。
 敗戦後の60年は、珍しく戦争のない時代であった。しかしこの安逸は、決して真の平和・安泰などではない。これを政治レベルでみれば、アメリカの庇護(ひご)下における属国的な安逸。そして仏法の上からみれば、まさしく「前代未聞の大闘諍」が起こるまでの踊り場、大罰あらわれるまでの潜伏期間にすぎない。
 「前代未聞の大闘諍」とは、第一次世界大戦も第二次もそれには当らない。まさしくいま起こらんとしている、人類を絶滅するに足る大量破壊兵器を用いての世界大戦乱こそそれである。そしてその序は、すでに3年前の9・11テロから始まっている。いま世界はテロの嵐が吹き荒れ、騒然としてきた。やがて全世界が殺気立ち、最終的には米中対決にいたろう。
 日本国は700年前に大慈大悲の御本仏の御頸を刎ねんとし、その後もなお背き続けて来た。諸天はこれを許さず、ここにいま時来たって、「前代未聞の大闘諍」の大渦に巻き込まれんとしているのである。
 「用いずば国必ず亡ぶべし」
 とはこれである。
 
 加えて、創価学会の仏法違背が、いまの日本にはある。創価学会は今や自民党を背後から操り、国政を壟断(ろうだん)するに至っている。
 この巨大勢力が、大聖人の門下を名乗りながら、政治野心のため、大聖人の唯一の御遺命たる「国立戒壇建立」を抛ってしまったのである。この重大な背反は
 「日蓮を用いぬるとも、悪(あ)しく敬(うやま)はば国亡ぶべし」の厳誡に当る。
 日本一同の仏法違背に加え、創価学会の御遺命違背。この二悪が鼻を並べるゆえに、日本はいま亡びんとしているのである。
 
 亡国の大難は刻々迫る
 
 冒頭に述べた「巨大地震・国家破産・大飢饉・大疫病・他国侵逼」等が、いかに切迫しているかについて述べたい。
 
   <巨大地震>
 
 石橋克彦博士(神戸大学理学部教授)が「大地動乱の時代」の名著をものしたのは、今から10年前の平成6年であった。その中で同博士は
 「いま(平成6年)から10年~20年のうちに、大地の運動の自然の成り行きとして、日本の心臓部を小田原、東海、首都圏直下の大地震が、相次いで襲う可能性が高い」と記している。
 「小田原地震」とは、世間ではあまり騒がれていないが、西相模湾断裂により起こるM7クラス以上の地震をいい、大正12年の関東大地震もこれであった。石橋博士は、この小田原地震がきわめて規則的な周期を持っていることに注目したのである。
 博士は次の発生を「1998年」と予測していた。すでに6年を過ぎているがこれには相当の理由もあり、かつ「地震の災厄は台風などと違って、進路が変わったり消滅したりすることはない。(中略)先送りされればされるほど、事態は悪化する」(同書)ことから、この小田原地震は今日にも起こるかもしれないのである。そしてこの小田原地震は、東海地震と相互に引き金の関係にあるといわれている。
 次にいま世間で騒がれているのが、東海地震である。
 この地震については、人体では感じられない微小地震を、静岡県を中心に20年以上も観測し続けてきた防災科学技術研究所・室長の松村正三博士が本年2月
 「東海地震はいつ起こってもおかしくないと言われてきましたが、今はもう臨界状態。最後の局面になっています」
 と語り、その発生時期についても、学術誌「地震」(第54巻)に「東海の推定固着域における1990年代後半の地震活動変化」と題する論文を発表し、その中で「2004年から2006年」とまで具体的に記している。
 また東大名誉教授で地震防災対策強化地域判定会会長の溝上恵氏は、2000年後半から始まり現在も進行中の異常な地殻変動(スロースリップ)が、東海地震の前兆現象だとして、同じく本年2月、次のように語った。
 「東海地震の監視にあたる責任者として率直に言えば、これまでとは全く心境が違うのです。東海地震に懐疑的だったり、関心がなかった研究者も皆、このスロースリップの動向を見守っているのです。東海地震の研究が始まって以来、これまでにないことです」(Yomiuri Weekly・平成16・2・8)と。いま気象庁では「24時間監視態勢」を続けているという。
 そして政府の中央防災会議は昨年9月、「東海地震、東南海地震、南海地震は、同時に発生する可能性がある」と発表した。この三大地震はそれぞれがM8クラスの巨大地震であるから、連発ないし同時発生となれば、その地震規模も被害もたいへんなものになろう。
 さらに首都圏直下のM7クラスの大地震についても、石橋博士をはじめ多くの学者が、「いつ起きても不思議はない」と口を揃えている。M7クラスといっても、直下地震は安政江戸地震にみるごとく、甚大な被害をもたらす。
 以上、小田原地震・東海地震・東南海地震・南海地震・首都圏直下地震と挙げたが、遠からずこれらの巨大地震は咆哮し、列島の大地を大波のごとく躍(おど)らせるであろう。
 その被害がどれほどのものになるか、誰人にも予測はつかない。ことに首都圏は超過密のハイテク巨大都市群である。この地域が巨大地震に襲われるのは「人類にとって初めての体験」「ここで生ずる震災は人類がまだ見たことのないような様相を呈する」(大地動乱の時代)と石橋博士は警告している。
 首都圏だけではない、被害は日本全土におよぶから列島潰滅といっても過言ではない。
 日蓮大聖人は、正嘉元年の前代未聞の巨大地震を指して
 「他国より此の国をほろぼすべき先兆(せんちょう)なり」(法蓮抄)と判じ給うた。
 では、いま起こらんとしている巨大地震の連発は何の先表(せんぴょう)であろうか。時を以て論ずれば、まさしく他国侵逼の前相であり、同時に三大秘法広宣流布の大瑞(だいずい)であると、私は確信している。
 
   <国家破産>
 
 国家破産は現代社会における「飢渇(けかち)」といえる。「飢渇は大貪(だいとん)より起こる」(曽谷抄)とある。政治家・官僚たちの限りなき私利私欲・大いなる貪りが、国を食いつぶして国家破産をもたらすのである。
 国家が破産するなど有り得ない、と思っている人は多い。しかし終戦翌年の昭和21年に、日本はすでに一度破産している。膨大な戦費を賄(まかな)うために国が大借金を作ったからだ。このとき、国民が買った国債は紙クズとなり、預金封鎖・新円切り換えなどで国民は資産を収奪されたうえ、ハイパーインフレで塗炭の苦しみを味わった。わずか58年前のことであった。
 そしていま、日本は再び破産しようとしている。その理由は簡単、難しい財政論など振りまわす必要はない。常識で考えればわかることだ。
 返済不能の大借金を作って、返す意志もなくなお借金を増やし続ければ、破産するのは当然なのである。
 この道理は、家計においても企業においても、国家においても同じである。ただ会社は破産すれば消滅するが、国家は消滅するわけにはいかない。そこで国家が破産すればそのツケはすべて国民にまわされ、国民生活破壊という悲劇がおこるのである。
 我が国の借金がどれほどあるのかというと、平成16年度末の国と地方を合わせた長期債務残高は719兆円。これに特殊法人などの隠れ借金約400兆円を加えれば、実に約1100兆円となる。この大借金は金額はもちろん、国内総生産(GDP)比でも世界最悪である。
 この大借金に対し、平成16年度の税収は42兆円しかない。たとえこの1割を借金返済に回わしたとしても、719兆円を返すには171年かかる。隠れ借金を加えた1100兆円の返済ならば262年もかかるのである。
 まして政府には返済の意志がない。平成16年度をみても37兆円の新規国債(政府の借金証書)が発行される。この事実を見れば、国家破産は時間の問題ということがわかろう。
 GDP比からみても、どれほど破滅的であるかがよくわかる。借金を719兆円としてもGDPの144%。隠れ借金を加えた1100兆円でみれば220%である。学徒出陣までさせた敗戦2年前の昭和18年でさえ、133%であった。今日の財政情況がいかに破産前夜であるか、愕然とするであろう。
 財政を家計にたとえればより明瞭だ。平成16年度一般会計の歳出は82兆円、税収は42兆円、新規国債発行は37兆円である。これは、月収35万円の者が、月の生活費は68万円、その不足分33万円は借金する。これまでの借金総額は1億1000万円、ということである。これで破産しなかったらおかしい。
 アメリカの格付け会社「ムーディーズ」が、日本国債の信用度をアフリカの小国・ボツワナ以下に下げ、その理由を「すでに政府債務は未踏の水準に達し、さらに債務は膨張し続けている。いずれ持続不可能になる」としたが、きわめて的を射ている。
 国債市場が平穏なのも、本年までであろう。国債発行には年度ごとの財政赤字を埋める新規債と、過去の借金を借り直す借換(かりかえ)債とがある。2004年度はその合計が118兆円だが、2005年度には約135兆円となり、2008年度には170兆円台にまで膨らむからである。
 いずれかの時点で国債の消化は困難となる。つまり借金がもうできなくなるということだ。そして国債は暴落し、長期金利は暴騰し、政府は金利負担にも耐えられなくなる。ひとたび政府の信用がゆらぐとき、1100兆円の大借金が国を押しつぶす。津波が入江で何倍にもその波高を増すように、1100兆円の大借金は一挙にふくらんで政府に押しよせる。このとき国家破産は現実となる。
 これに伴い、国庫の2分の1負担を前提にしている厚生年金や介護保険なども崩壊することはいうまでもない。
 いま景気回復をはやす向きがあるが、これは個々の企業業績が少々上向いたというだけの話で、わずかの税収増加があったとしても全く焼け石に水。借金の返済はおろか、新規国債の発行すら止まらない。いまの景気回復など、死期せまった病人がけさは熱も下がって気分がいいというほどのことだ。国家破産はすでに回避不能なのである。まして巨大地震が発生すれば、国家破産も同時発生となる。
 
   <大飢饉、大疫病>
 
 飽食のいまの日本では「大飢饉(ききん)」は実感が湧かない。大方の人はあり得ぬことと思うであろう。
 しかし世界では、現に8億4200万人(FAO調査)、すなわち7人に1人が飢餓(きが)状態にあるし、日本でも終戦後の食糧難はたいへんなものであった。むしろ今の飽食が、戦後の平和と同じく、かりそめなのである。
 すでに異常気象は地球規模で始まっており、年々その激しさを増している。ここ数年、世界各地に大規模な山火事、大洪水、大旱魃(かんばつ)、大熱波などが頻発しているのも異常気象のせいだ。
 もし世界の穀倉地帯、とりわけアメリカのそれを旱魃・長雨・冷害等が襲い、大凶作となったらどうなる。日本には食糧が入ってこなくなる。日本の食糧自給率はわずか28%(穀物ベース)しかないのである。1億2000万人はたちまちに飢えるであろう。
 ちなみに昨年は、日本も冷夏で大凶作となったが、アジア地域でも異常気象により凶作が広がり、いま穀物備蓄が激減している。もしこのままの状態が続けば、アジアで食糧危機が起こるのは時間の問題といわれている。
 
 「大疫病(やくびょう)」とは、病原体ウィルスによる大規模な感染症をいう。昨年の新型肺炎・SARSで思い知らされたが、近年、動物を宿主とする病原体が人間に感染する動物由来の感染症が、地球規模で起きてきた。いま騒がれている鳥インフルエンザはもちろん、エイズも狂牛病も、この動物由来感染症(人獣共通感染症)なのである。
 鳥インフルエンザは、中国・東南アジア・韓国そして日本に上陸したが、この鳥ウィルスが突然変異を起こして人間に感染したり、鳥ウィルスと人間のインフルエンザウィルスがブタの体内で遺伝子交雑して強毒型に変異する可能性が指摘されている。
 万一、ブタの体内での遺伝子交雑で生まれたウィルスが人間に感染したら、誰ひとりとして免疫を持っていないので、大惨事が起こる。
 国立感染症研究所の田代真人ウィルス第3部長は昨年10月、厚生労働省の新型インフルエンザ対策検討小委員会に、その「シナリオ」を提出した。
 その内容は、最悪の場合、地球人口の半数が感染し、その半分の15億人が重症患者となり、さらにその3分の1の5億人超が死亡する――という凄じいものだった。
 また、このところ静かに潜伏しているエイズも、いよいよ危険水域に近づいて来た。日本国内のエイズ最新データ(厚労省エイズ動向委員会)によれば、エイズの感染者・患者数は、6年後には5万人に達すると予測され、これを臨界点として爆発的な感染が起こるという。
 
 前にも述べたが、異常気象による大飢饉もウィルスの発生も、諸天、ことに日・月天の働きによるのである。
 
   <他国侵逼の影>
 
 戦後60年、日本人は戦争放棄の「平和憲法」のおかげで平和が続いていると錯覚して来たが、日本が戦争を放棄しても、戦争は日本を放棄してくれなかった。いつのまにかこの日本に、他国侵逼の影が忍び寄って来ている。
 磁石が鉄を吸うように、日蓮大聖人に背く国には、自然と災いが集って来るのである。
 「影は体(たい)より生ずるもの、法華経をかたきとする人の国は、体に影の添うがごとく、わざわい来るべし」(十字御書)とは、これである。
 見まわせば、日本は憎日、反日、侮(ぶ)日の諸国に取り囲まれているではないか。中国・北朝鮮の憎日はいうまでもない。韓国も本年3月2日、日本統治時代の親日行為を改めて断罪し歴史に残そうという「反日法」を成立させている。この立法は「北朝鮮の対日強硬姿勢を側面から支援する意味がある」ともいわれている。そしてロシアは侮日といえよう。
 日本はこれらの国々に、固有の領土すら侵されている。中国には尖閣諸島を、韓国には竹島を、ロシアには北方領土を、それぞれ領有権を主張され、あるいは不法占拠されているのである。
 そして中国の圧倒的な軍事力は大聖人御在世の大蒙古を彷彿(ほうふつ)とさせ、また北朝鮮の核・生物・化学兵器も我が国に重大な脅威を与えている。さらに国際テロ組織も日本を標的にし始めた。他国侵逼の影は、確実に日本に忍びよっているのである。
 
 国際テロ組織の脅威――日本は北東アジア域内だけでなく、地球の裏側からも狙われるようになった。
 昨年11月、国際テロ組織・アルカイダは「イラクに派兵した日本もテロの標的」と予告恫喝(どうかつ)してきたが、3月11日にスペインの列車爆破テロが起きたことで、この脅迫は俄に現実味を帯びて来た。
 本年2月には、日本政府に米国から、テロへの警戒を呼びかける最高レベルの警告が緊急通達されており、またスペインのテロの7日後にはテロ組織から、「我々は新しい準備をしている。次は日本か……」との予告もあり、いま首相官邸をはじめ、重要施設、主要駅、新幹線等では、一斉に厳戒態勢が布かれている。
 もしテロが行われるとすれば「顔立ちなどが日本に溶け込みやすい東南アジア出身のテロ要員が、観光客などを装って入国を図る恐れがある」(治安関係者)とされ、アルカイダと連携している東南アジア最大のテロ組織ジェマア・イスラミア(JI)の動きが注目されている。
 イラク派兵の国々に相次いでテロが起きている事実を見れば、日本への攻撃も予断を許さない。
 
 北朝鮮の脅威――この国はすでに「核保有」を公言し、日本列島のほぼ全域を射程に収める弾道ミサイル「ノドン」を二百基保有し、そのうち相当数が日本に照準を合わせている。ノドンは化学兵器の弾頭も装着可能である。
 また昨年春に、日本海で2回発射実験が実施された中国から導入した「シルクワーム」改良のミサイルは、当時はその威力のほどは軽視されていたが、調査が進むにつれ、脅威が明らかになってきた。
 大量破壊兵器に詳しいキャスリーン・ベイリー全米公共政策研究所上級研究員は「射程も延ばされ、命中精度も上がり、生物・化学兵器を積んで大都市でばらまく手段として理想的な道具」と指摘している。北朝鮮が大量に備蓄している生物・化学兵器と、このミサイルが合体したときの脅威は計り知れない。
 北朝鮮が保有している生物兵器は、天然痘ウィルス・炭疽菌・コレラ菌・発疹チフスなどの15種類で、これらを年間15トン生産している。化学兵器は現在実戦配備されているのが、サリン・VXガスなどの有毒ガス17種類で、約5000トンといわれる。
 北朝鮮の日本に対する攻撃で、最も容易に行われ、最も警戒すべきは、工作員による生物・化学兵器テロである。
 もし工作員が天然痘ウィルスや炭疽菌などを大都市でひそかに撒いたら、日本国中は瞬時にパニックに陥る。しかも犯人は誰か全くわからないのである。
 慶応大学病院救急部長の相川直樹教授は、生物兵器テロに全く無防備な日本の現状について、天然痘を例に挙げ、次のような警告を発している。
 「今、私が最も危惧しているのは、<天然痘(てんねんとう)>です。バイオテロには、炭疽菌のほか様々な微生物や毒素が使われる可能性があります。このうち、伝播力と致死率が極めて高い点で天然痘が最も危険です。最も恐ろしいことは、症状が出るまでの潜伏期が7日から17日もあり、症状が出る前に他人にウィルスをうつしてしまうことです。<ダーク・ウィンター>のシミュレーションでも、オクラホマのショッピングモールで撒かれた天然痘ウィルスが、2次感染、3次感染で鼠算式に伝播し、13日後には、25州、世界15ヶ国に伝播すると予測されています。人類の歴史上3億人もの命を奪った天然痘は、種痘の普及で、1977年の患者を最後に地球上から姿を消しました。このため、現在26歳未満の日本人は種痘を受けていません。この若い人たち(東京都だけでも240万人以上)には、天然痘に対する免疫は全くなく、もし、テロで天然痘ウィルスが撒かれたら無数の国民が犠牲になるでしょう。バイオテロリズムは国家的緊急事態であり、民族の存亡にまで関わると言っても大袈裟な話ではありません」(文芸春秋・2002・4)と。
 金正日は日朝平壌宣言で小泉首相に謝罪と経済支援を約束させたが、拉致に対する日本世論の反発で経済支援は反故になり、大いに苛立っている。だから、いま日本で「特定船舶入港禁止法案」が国会に提出されんとするのを見ても、激しく反発する。2月27日の朝鮮中央放送は「日本反動らは、わが民族の自主権と生存権を少しでも侵害するなら、わが方の無慈悲で超強硬な報復を受けることになるという点を肝に銘じるべきだ」と声高に強調している。
 例によっていつもの〝脅し〟ではあるが、窮地に陥って異常心理になっている金正日が、いかなる命令を出すか、全く予断を許さない。
 
 中国の脅威――日本と向き合う広大なる中国大陸に、わずか半世紀の間に出現した侵略性の強いこの軍事大国を見るとき、大聖人御在世の大蒙古が彷彿として胸に浮ぶ。
 中国の脅威は、その狂気のごとき軍備増強と、絶え間なく近隣諸国を脅(おびや)かし続けてきた侵略性にある。この特異性は修羅の思想ともいうべき共産主義を背骨とする中国共産党の、一党独裁から生じている。
 中国の軍事費は1989年以来、連続16年にわたって2ケタの大幅増加を続け、実質的にはアメリカに次ぐ世界第2の軍事費国になっている。このような軍事膨張を続けている国は世界で中国以外にはない。また旧ソ連が崩壊した冷戦後も一貫して核兵器を増強している国も、核保有5ヶ国の中では中国だけである。
 中国の軍備は、曽ての人海作戦からハイテク作戦へ、陸軍重視からミサイル・海軍・空軍へと、大転換が図られている。
 ミサイルは、米国本土にまで届く大陸間弾道核ミサイル(ICBM)を30基以上保有し、さらに原子力潜水艦搭載の弾道核ミサイル(SLBM)も保有している。これらはアメリカ本土攻撃を目標としている。
 また日本全土を射程に収める新型中距離ミサイル「東風21」も配備が進められ、台湾対岸に配備された短距離ミサイル「東風11」は496基に達し、さらに沖縄を射程に入れた「東風15」の改良も進んでいる。
 一方、海・空軍の増強も著しい。ことに潜水艦の増強ぶりが目立つが、米空母を攻撃するためのSSN22ミサイルを搭載したロシア製ソブレメンヌイ級駆逐艦も四隻購入している。航空戦力では、ロシア製戦闘機スホイ27と、海軍用の新鋭戦闘爆撃機スホイ30MKなどが配備され、年内にはスホイ200機が揃えられるという。
 昨年には有人宇宙船の打ち上げにも成功している。日本では小泉首相をはじめメディアは一斉におめでたい祝賀ムードを漂わせたが、この打ち上げの目的は、米国のMD(ミサイル防衛)計画潰滅を狙った、純軍事的なものである。
 中国の当面の戦略目標は台湾統一である。中国は、歴史的にも中国の実質的な支配下にあったことのない台湾、しかも台湾人が住んでいる事実上の独立国・台湾を、一方的に自国の領土とみなして、「一つの中国」を主張している。
 そして前々から、次のような宣言を繰り返している。
 「もし台湾が独立を宣言すれば、軍事力を使ってその独立を阻止する。もし台湾が外国勢力に占領されても、軍事力を使う。さらにもし台湾が中国との統一交渉を無期限に拒めば、軍事力を使って攻撃する」と。
 しかし宣言はしても、台湾の軍事統一はなかなかできない。理由は米国の軍事介入があるからだ。もし米軍の空母が台湾海峡に出てくれば、中国の作戦遂行は不可能となる。
 そこで、米国本土に届く大陸間弾道ミサイルや潜水艦搭載のミサイルが必要となるわけだ。もし米国が軍事介入すれば、米国本土を核攻撃すると威嚇して、介入を断念させようとしているのである。
 現在のところ、まだ中国は米国の軍事介入を抑制するまでの軍事力を持つには至ってない。その焦りが、年々加速する軍備増強となっているのである。
 いずれ、中国が対米軍事力に自信を持ったとき、台湾への軍事統一は必ず具体化する。その時期は、そう遠くはないと思われる。この3月20日、台湾独立をめざす陳水扁総統が再選されたことにより、中国の武力行使は一段と現実味を帯びて来た。
 もし台湾有事となれば、その影響は日本にとっても重大である。台湾海峡で軍事緊張が高まっただけでも、日本のシーレーン(海上輸送路)は脅かされる。あるいは米軍の前線基地となる沖縄が中国の攻撃を受けることもあろうし、米軍空母が日本の基地から出動することになれば、中国は日本を核攻撃すると言うに違いない。まして台湾が中国に呑み込まれたら、日本の運命も風前の灯火となる。
 
 この中国と日本は、尖閣諸島の領有権で争いがある。尖閣諸島は日本固有の領土であるが、中国政府は1971年、一方的にこの領有権を主張し始め、92年に中国が制定した領海法では、「尖閣諸島は中国固有の領土」と明記している。中国のこの狙いは海底油田もあろうが、曽て「琉球」として中国に属領していた沖縄をも領有せんとするところにあるとみられる。
 台湾統一と尖閣諸島との関係を中国はどう見ているか。昨年12月、中国共産党機関紙「人民日報」系の国際情報紙「環球時報」は、台湾統一の重要性を強調した上で、「台湾を統一すれば、尖閣諸島が中国の軍事力で保護できる範囲に入る」と述べている。ゆえにもし台湾統一が成れば、中国は次に必ず尖閣諸島に手をつけるに違いない。
 中国がいかに軍事行使をたやすく行い、かつ領土に執念を燃やす国であるかを、長年、中国を観察し続けてきた国際ジャーナリストの古森義久氏は、次のように述べている。
 「建国以来の40数年の間に、ざっと数えただけでも11回の対外軍事力行使の実例があるのである。この経緯をみると、中国は隣接、周辺のほぼすべての諸国に対し軍事力を行使してきたことがわかる。中国の外交には軍事力という手段が不可欠要因のように組みこまれてきたのだ、ともいえよう。しかもさらに重要な史実は、これらの軍事衝突の歴史では、中国側がさきに軍事攻撃を受けたというケースがほとんどない、という点である。中国が自国領に攻撃を受けたわけでもないのに、先制の形で相手に軍事攻撃をかける実例ばかりなのだ」
 このように侵略性の強い国を「修羅界の国」という。さらに古森氏は
 「歴史的にみても、中国はこと領土の争いとなると、強大な旧ソ連でも、インドでも敢然と軍事闘争を挑んでいく。戦争をしかけることをも辞さない、のである」(米陸軍大学戦略研究所編「中国が戦争を始める」・特別寄稿文)と。
 いま中国は、アメリカと対等の軍事力を持つべく狂気の軍備増強を続けているが、彼らなりに自信を得たとき、台湾に次いで日本への侵略が始まる。
 日本の頼りとするのは、ただアメリカのみである。しかし、いつまでアメリカが日本を守ってくれようか。米国本土を核攻撃される犠牲を払ってまで、日本を守る義務はアメリカにはないのだ。
 また政権が変われば、日本を見捨てる日も来よう。国益に反するとなれば、アメリカの戦略がいつ変わっても不思議はない。事実、1996年に日中間で尖閣諸島問題の紛争がおきたとき、クリントン政権下のモンデール駐日米国大使は、米国の報道機関に対して「米軍は尖閣諸島の紛争に(武力)介入する責務を日米安保条約上有していない」と言明した。
 現ブッシュ政権でも、アジア太平洋地域に駐留する米軍10万人体制の縮小がいま検討され、在韓米軍の撤退もささやかれている。いつまでも米軍が日本を守ってくれると考えること自体、幼稚な甘えでしかない。
 
 法華経の寿量品には「自惟孤露(じゆいころ)・無復恃怙(むぶじこ)」(自ら惟(おもんみ)るに、孤露(ころ)にして復(また)恃怙(じこ)無(な)し)とある。仏法に背けば孤独になり誰も助けてくれない――との意である。
 ひとたび諸天が動けば、日本はあっというまに世界の孤児となる。そしてこの孤立した日本に、諸天は「隣国の王」をして侵略の意志を懐かしめる。
 大聖人は報恩抄に経文を引いて
 「時に隣国の怨敵(おんてき)、かくの如き念を興(おこ)さん。当(まさ)に四兵(しひょう)を具(ぐ)して彼の国土を壊(やぶ)るべし」
 また
 「時に王、見(み)已(お)わって、即ち四兵を厳(よそお)いて彼(か)の国に発向(はっこう)し、討罰(とうばつ)を為(な)さんと欲(ほっ)す」
 と仰せられている。このとき、恐るべき亡国の他国侵逼はおこるのである。
 大慈大悲の日蓮大聖人の御頸を刎ねんとし、700年後の今日に至るまで背き続けた日本を、どうして諸天がそのまま許しておくことがあろうか。
 日本に残された時間は少ない。亡国となってからでは取り返しがつかない。
 早く全日本人が日蓮大聖人の大恩徳にめざめ、三大秘法を立てて日本を安泰ならしめんこと、ただただ熱願するのみである。
  

 第一章 日蓮大聖人とはいかなる御方か

 
 日蓮大聖人とは、三大秘法という根源の仏法を以て、末法の全人類を現当二世にお救い下さる、下種の御本仏であられる。
 
 一、末法下種の本仏
 
 この広漠の宇宙には十方・三世にわたって、釈迦仏・多宝仏・善徳仏・薬師如来など無数の仏が存在することが経文には説かれている。これらの仏を「三世十方の諸仏」と総称する。これら諸仏は漠然と存在しているのではなく、それぞれが「一大事因縁」といって、重要な使命・役割をもって、その時代・時代に出現している。
 これら諸仏のルーツをたどっていくと、ことごとく久遠元初の本源の仏から発していることがわかる。この本源の仏を「本仏」といい、この本仏が衆生を利益のために本身を隠して応化垂迹した仏を「迹仏」という。前述の三世十方の諸仏は、ことごとくこの迹仏に当る。
 さて、久遠元初とは、無始の始めといわれている。それがどれほどの昔になるか、凡夫には想像もつかない。法華経の寿量品には、釈迦仏の久遠の成道を「五百塵点劫」の昔と、気の遠くなるような年数を挙げて説いているが、久遠元初はこの五百塵点劫をさらにさかのぼること久々遠々の昔である。
 このとき、一人の聖人がましました。この聖人は透徹の智恵をもって自身の生命を観ぜられ、南無妙法蓮華経という生命の極理を証得し、ひとり成仏の大境界に立たれた。この最初の仏を「久遠元初の自受用身」と申し上げる。すなわち諸仏の本源たる本仏である。
 この本仏は大慈悲を起こされ、一切衆生をも成仏の境界に入れしめようと、「南無妙法蓮華経と唱えよ」とお勧め下された。この最初の化導を「下種」という。仏に成る種の南無妙法蓮華経を、人々の心田に下されたのである。
 この下種本仏の化導を受けて、素直に信じ唱えた人々は一生のうちに成仏することができた。しかし逆い謗った者や、信じても途中で退転した者は一生成仏がとげられず、悪道に堕して無数劫を経たのち、再び生まれてくる。
 これら無数億の衆生を救うために、こんどは垂迹の仏が熟脱の化導をされる。熟脱とは、過去すでに下されている仏種を調熟し、得脱せしめることである。
 熟脱の仏の特徴は、三十二相をもって身を荘厳っているところにある。下種の本仏は「名字凡身」といって、あるがままの本身であるが、熟脱の仏は身をかざる。
 たとえば鎌倉の大仏などを見ると、眉間にイボのようなものがある。これはイボではなくて「眉間白毫相」という白い毛が渦を巻いたもの。また頭頂には肉が盛り上がったコブのようなものが見えるが、これは「頂上肉髻相」である。これらを三十二相という。
 熟脱の仏はこれらの相好をもって人々に尊敬の念をおこさせ、法を信受させる。その説法は、まず爾前経(小乗経・権大乗経)を説き、次に法華経を説いて過去の下種を思い出させ、得脱せしむるのである。
 これら熟脱の仏は「世々番々の出世」といわれるが、垂迹第一番の五百塵点劫以来どれほど多数の仏が出現されたことか。またその時間はどれほど長遠であったことか。そしてその最後に出現されたのが、三千年前のインドの釈迦仏なのである。
 この釈尊の説法により、過去下種を受けた衆生はすべて得脱し、また釈尊在世に洩れた衆生も、その後、正像二千年の間に生まれ、釈迦仏法によりことごとく脱し終わった。
 かくて末法に入ると、過去下種の者は一人もいなくなり、衆生の機根は久遠元初と全く同じになる。新たなる最初下種の時を迎えたのである。
 このとき久遠元初の自受用身が、末法の全人類をお救い下さるために出現される。その御方こそ、まさしく日蓮大聖人であられる。
 この筋目から見て、インドの釈尊は前に出現しても「熟脱の迹仏」であり、日蓮大聖人は後に出現されても「下種の本仏」と申し上げるのである。
 この種・脱の立て分けは仏法の枢機ともいうべき重要な法門である。この立て分けを大聖人は
 「彼は脱、此は種なり」(観心本尊抄)
 「仏(釈尊)は熟脱の教主、某は下種の法主なり」(本因妙抄)
 等と明確に示されている。
 
  三大秘法
 
 三大秘法とは「本門の本尊」と「本門の題目」と「本門の戒壇」である。日蓮大聖人が南無妙法蓮華経の大良薬を一切衆生に服せしめるとき、具体的にはこの三大秘法と開かれるのである。
 「本門の本尊」とは、日蓮大聖人が覚られた生命の極理を、文字をもって一幅に顕わされたもので、信仰の対境である。
 そしてこの御本尊を信じて「南無妙法蓮華経」と唱え奉る修行を「本門の題目」という。この御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えれば、御本尊の仏力・法力により、いかなる人も幸福を招き成仏を得ることができるのである。
 「本門の戒壇」とは、日本国中が南無妙法蓮華経と唱え奉る広宣流布の時、一国の総意をもって富士山下に建立される国立戒壇をいう。この本門戒壇が建立されれば、日本は不壊の仏国となる。さらにこの本門戒壇に世界の人々が詣でるとき至れば、地球上が仏土となる。大聖人の大願はこの本門戒壇の建立にあられる。しかし御在世には未だその時いたらず、よってこれを門下に御遺命されたのである。
 この三大秘法について、大聖人は次のように仰せられている。
 「問うて云く、如来(釈尊)滅後二千余年、竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答えて云く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(法華取要抄)と。
 このように三大秘法は、釈尊滅後二千余年の間、インド・中国・日本のいかなる論師・人師といえども弘め得なかった最大深秘の久遠元初の大法である。この大法を以て、戦乱にあけくれる三毒強盛の末法の全人類をお救い下さる下種の御本仏が、日蓮大聖人であられる。
 
 二、釈迦仏の予言証明
 
 久遠元初の御本仏が末法に出現されるとあれば、釈迦仏にとってこれほど重大なことはない。よって、その御化導を前もって予言し証明することは、釈迦仏の一大使命でもある。
 この重大事が説かれているのが法華経である。法華経は、一応は釈尊在世の弟子たちの得脱のためであるが、再応深くこれをみれば、日蓮大聖人の御化導を予言証明するために説かれた経なのである。
 では、それがどのように説かれているかといえば――
 まず勧持品においては、末法において法華経の肝心たる南無妙法蓮華経を弘めれば、必ず「悪口罵詈」「及加刀杖」「数々見擯出」といって、国中から悪口をいわれたり、刀で切られ杖で打たれたり、あるいは幾たびも流罪にあうことが説かれている。これは日蓮大聖人が受ける大難を、予言証明したものである。
 次いで涌出品では、釈尊の高位の弟子すら未だかって見たこともないという、巍々堂々たる上行菩薩を上首とする、おびただしい数の地涌の菩薩が大地の底より召し出される。この上行菩薩こそ、実は久遠元初の本仏の、法華経会座における仮の姿である。
 そして釈尊は、いよいよ寿量品の文底に三大秘法を説き顕わし、神力品においてこの三大秘法を上行菩薩に付嘱し、末法における弘通を証明している。
 この神力品の付嘱の儀式は、釈尊一代五十年の説法においても例を見ない荘厳なもので、この一事からも、釈尊が上行菩薩への付嘱、すなわち日蓮大聖人の末法弘通の証明をいかに重大視していたかが窺われる。
 釈尊はさらにこの神力品において、上行菩薩が末法の衆生を救い切るその徳を讃嘆して、次のように述べている。
 「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人 世間に行じて、能く衆生の闇を滅せん」 ――太陽や月の光りが地上のあらゆる闇を除くように、この上行菩薩こそ末法の衆生の苦悩をよく滅する人である――と。
 日蓮大聖人は、このように釈尊の予言証明に照らされて末法に出現された、久遠元初の下種の本仏であられる。
 
 三、大智恵、大慈悲、絶大威力
 
 仏様の偉大さとは何かといえば、詮じつめれば大智恵と大慈悲と絶大威力に尽きる。われわれ凡夫にも分々において智恵と慈悲と力用はある。が、それは局限されたもので小さいものである。
 
  大智恵
 
 仏の智恵は、時間的には過去・現在・未来の三世をつくし、空間的には宇宙法界の奥底をきわめる。ゆえに「仏のいみじきと申すは、過去を勘へ、未来をしり、三世を知しめすに過ぎて候御智慧はなし」(蒙古使御書)とある。
 この大智恵をもって、仏は何を見究められたのかといえば、人間の生命である。
 余談であるが、先日、ノーベル賞の小柴昌俊氏がテレビの対談で、「宇宙にどうして人間が存在しているのか。私はこの不思議にもっとも関心がある」という趣旨の発言をしておられたが、興味ぶかく聞いた。
 まことに人間の生命ほど不思議なものはない。このような精緻の存在を誰が作ったのであろうか。神が創造したなどというのはキリスト教のおとぎ話にすぎない。仏法はあるがままに宇宙を、生命を、見つめる。
 大聖人は、宇宙法界こそ「万法能生の体」(色心二法抄)と示されている。人間をはじめすべてのものは、大宇宙より生じたのであると仰せられる。
 宇宙より生じた人間の生命ならば、本来この生命には、宇宙のあらゆる存在が含まれ具わっている。仏法では宇宙のあらゆる存在を「十界三千の諸法」という。大聖人は十界三千の諸法を具えた御自身の生命を「妙法蓮華」と名づけられた。
 人の生命には宇宙法界のすべてが具わり、その一身一念は法界に遍満する。このとき、我が身は即宇宙、宇宙は即我が身である。この宇宙と等しい大境界を証得された方を「仏」という。凡夫は理屈でこれを論ずるだけであるが、仏様は事実の上に証得されているのである。
 このことを観心本尊抄には
 「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば已みなん。介爾も心有れば即ち三千を具す」「当に知るべし、身土は一念の三千なり。故に成道の時 此の本理に称うて、一身一念法界に遍し」と。
 さらに当体義抄には
 「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法これ有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道し給へば、妙因妙果倶時に感得し給う」と。
 たいへん甚深にして難解の御文ではあるが、大聖人が御自身の生命を見つめ切って生命の極理を証得され、仏と成り給うたことが示されている。
 すなわち大聖人は御年三十二歳の立宗の時、我が身は十界三千の諸法具足の当体、即妙法蓮華経なりと知り給い、それより自ら南無妙法蓮華経と唱え出されると共に、人にもこれを勧め給うた。そして御年五十歳、竜の口の頸の座に臨み給うたとき、不惜身命のご修行成就して、ついに「法界を自身と開く」という宇宙大の境界を、事実の上に証得され、久遠元初の自受用身と顕われ給うたのである。
 大聖人はこの大法悦を、流罪の地・佐渡でかく述べられている。
 「我等は流人なれども、身心共にうれしく候なり。大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時々刻々にあぢはう」(最蓮房御返事)と。
 まことに骨まで凍る寒さも、飢えも、仏果を得られた大法悦を妨げることはできない。法界を自身と開かれた成仏の大境界とはこれである。
 
  大慈悲
 
 仏果を成就された大聖人は大慈悲を起こし給うた。そしてこれより御本尊を顕わし、一切衆生に授与されたのである。
 一切衆生は本来仏と同じ「妙法蓮華」の生命を持ちながら、その自覚がない、それを識らない。よって生死を離れず苦悩の流転をしている。この衆生のために、御自身のお覚りの全体を一幅の御本尊に図顕し、末法の全人類に授与して下さったのである。ゆえに
 「日蓮が魂を墨にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ。仏(釈尊)の御意は法華経なり、日蓮が魂は南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事)
 と仰せられる。われら凡夫は、ただこの御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、たとえその義を識らなくとも、御本尊の仏力・法力により、自然と成仏を遂げることができるのである。
 
  現当二世の大利益
 
 さて成仏とは、決して観念上の気休めではない。事実において、現世には宿命が変わって幸せになり、後生においても大楽を得る。これを現当二世の大利益という。
 現世の生活というのは、誰でも過去世の宿習の影響を強く受ける。生まれながらにして人それぞれに人相・性格の異なるのを見ても、このことはわかる。これが先天的な宿命である。
 ところが、たとえ幸せになるべき福運を持って生まれなかったとしても、ひとたび御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、「現世において其の福報を得ん」の経文のごとく、福運が具わる。そして生命力は強くなり、諸天の守護を得るゆえに、幸福になるのである。いわんや、後生における成仏の大果報はいうまでもない。
 
 しかし人は言うであろう。「死んだ先のことなど、どうしてわかるか」と。
 だが、わかるのである。仏法は観念論ではない。すべて証拠をもって論ずる。成仏とか堕獄ということも、証拠があるのだ。その証拠とは、臨終の相である。
 臨終は人生の総決算である。その人の一生の行為は凝縮されて臨終の相に現われ、同時にその相は未来の果報を示しているのである。この厳然たる法則性を説き切っている教えは仏法以外にはない。
 大聖人は妙法尼御前御返事に
 「日蓮幼少の時より仏法を学し候いしが、念願すらく、人の寿命は無常なり(中略)されば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあら勘へ集めて、此れを明鏡として一切の諸人の死する時と、並びに臨終の後とに引き向へて見候へば、少しもくもりなし。此の人は地獄に堕ち給う乃至人・天とは見へて候を……」と示されている。
 では、地獄に堕ちる相とはどのようなものかといえば、死後、遺体が黒色を呈するのを「堕獄の相」という。
 中国の真言宗の元祖・善無畏三蔵は法華経を誹謗して地獄に堕ちたといわれるが、大聖人はその証拠を、臨終の相を以て判じておられる。
 「善無畏三蔵は(中略)死する時は『黒皮隠々として骨甚だ露わる』と申して、無間地獄の前相を其の死骨に顕わし給いぬ。人死して後 色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」(神国王御書)と。
 また千日尼御前御返事には
 「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は設い七尺・八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、やわらかなる事兜羅綿の如し」と。
 大聖人の指南はまことに克明である。地獄に堕ちる者は臨終ののち、身体全体が黒くなるうえ、遺体が異常に重くなる。一方、成仏の者は、たとえ生前色が黒くとも、死してのち色が白くなり、その遺体は軽く、かつ柔かい――と仰せられる。
 成仏と堕獄だけではない。宇宙法界の衆生は「十界」といってその境界にしたがって、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十種があるが、そのいずれに生ずるかは、すべて臨終の相にあらわれるのである。
 そして一生の行為の善悪には、世法上と仏法上の二つがあるが、世法の善悪よりも、仏法上の善悪のほうが、臨終に強い影響を与える。
 たとえば、世法における最大の悪行は殺人であるが、この悪行よりも、謗法といって正しい仏法を謗る罪はなお重いのである。殺人は堕地獄の因ではあるが、他人を殺すだけでは通常の地獄には堕ちても、無間地獄には堕ちない。ただ父母を殺したときは無間地獄に堕ちる。しかしその期間も一中劫(三億二千万年)といわれる。ところが謗法は無間地獄に堕ちて、その期間は実に「展転して無数劫」(法華経譬喩品)と説かれている。
 無間地獄とは、同じ地獄でも最大の苦痛ある地獄で、言語を絶する激痛が間断なく襲うから「無間」というのである。この無間地獄の大苦について大聖人は法蓮抄に
 「彼の臨終の大苦をこそ堪忍すべしともおぼへざりしに、無間の苦は尚百千億倍なり。人間にして鈍刀をもて爪をはなち、鋸をもて頸をきられ、炭火の上を歩ばせ、棘に籠められなんどせし人の苦を、この苦にたとへば数ならず」
 ――臨終の大苦すら耐えられぬほどなのに、無間地獄の大苦はその百千億倍である。この世のあらゆる拷問すら、この大苦に比べればものの数ではない――と仰せられる。
 死後の堕獄など信じないという人は、生命が三世にわたることを知らないだけだ。しかし、臨終の相にそれが現われることを知れば、誰がこの厳然の証拠を否定できようか。
 死は生命の消滅ではない、有相が無相になるという存在形態の変化にすぎない。有相が無相になり、無相はまた有相になる。これが生死なのだ。この生死を繰り返しつつ宇宙とともに生命は常住する。もしこの生命の永遠を知れば、真に求めるべきは成仏であり、真に恐るべきは堕獄なのである。
 ここに日蓮大聖人は、三大秘法をもって全人類を成仏せしめ、無間地獄の道を塞ぎ給うたのである。これより大なる慈悲はない。ゆえに報恩抄には
 「日本 乃至 漢土(中国)・月氏(インド)・一閻浮提(世界)に、人ごとに有智・無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし。此の事いまだひろまらず、一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱へず、日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声も惜しまず唱ふるなり。(中略)日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」と。
 日蓮大聖人ただ御一人が唱え始められた南無妙法蓮華経は、日本に広宣流布したのち、中国・インド・全世界へと広まり尽未来際まで流れる。その功徳はまさしく一切衆生を成仏せしめ、無間地獄の道を塞ぎ給うものである。まさに凡夫の思慮もおよばぬ昿大の慈悲といわねばならない。
 
  絶大威力
 
 そしてこの大慈悲の化導を施すに当って、大聖人は絶大威力を以てなされる。絶大威力とは、御本仏の命を奪うことは誰人もできないし、背けば人も国も亡びるという絶対の威徳である。
 なぜ、そのような威力・威徳がましますのかといえば、日蓮大聖人は、宇宙的スケールの力用を持つ諸天を随え「申し付け」る御境界だからである。このことは「竜の口」と「蒙古の責め」の大現証を見れば如実にわかり、誰人も否定できない。
 まず竜の口の現証を拝見する。
 
 四、竜の口の大現証
 
  竜の口の法難は、大聖人が受けられた迫害の中でも最大の法難で、まさしく国家による絶体絶命の死刑であった。なぜこの法難が起きたのかといえば、当時国中の帰依を受けていた念仏・真言・禅・律等の諸宗の高僧たちが、国主に讒奏したからである。
 
 まずこの法難にいたるまでの経緯を、簡略に述べたい。
 大聖人は立宗の始めより、「念仏無間」「禅天魔」「真言亡国」「律国賊」と、諸宗を強く折伏された。この折伏について、世間では「自讃毀他」「排他的」などと批判する人が多い。しかしこういう人々は、宗教に正邪があることをまだ知らない。
 
   諸宗はなぜ邪法か
 
 念仏・真言・禅・律等の諸宗は、いずれも「我が宗こそ最も勝れた経を本としている」と自讃しているが、実はすべての宗が釈尊の教えに背いているのである。
 釈尊は一代五十年にわたって説法をされたが、その目的は、唯一の成仏の法である法華経を説くことにあった。しかし直ちに法華経を説けば、理解できずに誹謗する者も出る。そこで一代五十年のうち、前四十二年は衆生の機根を調えるために方便の教えを説き、最後の八年で目的たる法華経を説いたのである。
 前四十二年の諸経を爾前経といい、未だ真実が明かされてないから権経ともいう。これらの経々は成仏の経ではない。このことを法華経の序分といわれる無量義経には
 「四十余年には未だ真実を顕さず」と説かれている。
 また、釈尊が説いたすべての経々の中で法華経が最も勝れた第一の経であることは、法華経法師品の次の文に明らかである。
 「我が所説の諸経、而も此の経の中に於て、法華最も第一なり。(中略)我が所説の経典無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て此の法華経 最も為れ難信難解なり」と。
 このように、釈尊自身が一代の諸経の勝劣を判定して、「法華経だけが成仏の経」と定められたうえは、四十余年の方便の経々は捨てて、法華経だけを信じなければいけない。
 ゆえに法華経方便品には
 「正直に方便を捨てよ」とあり
 さらに同譬喩品には
 「余経の一偈をも受けざれ」と厳しく誡められている。
 しかるに、もし方便の経々にこだわって法華経を信じなかったらどうなるか。釈尊は法華経譬喩品に重大な誡告をされている。
 「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」――もしこの法華経を信ぜずに謗るならば、その人は臨終ののち無間地獄に堕ちる――と断定されているのである。
 そこで諸宗の依経(依りどころとしている経)を見るに、念仏宗は無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経、真言宗は大日経・金剛頂経・蘇悉地経、禅宗は首楞厳経・楞枷経、律宗は小乗経と、それぞれ経こそ異なるが、四十余年の方便の経々であることは共通している。しかもこれら諸宗は、それぞれの依経に固執して法華経を誹謗している。ゆえにことごとく堕地獄の邪法といわねばならない。
 しかし当時の日本国は、これら邪法にたぶらかされていた。一人のこらず念仏を唱え、真言を崇め、禅・律等に帰依していた。毒を薬と思いこんでいたのである。子が誤まって毒を服むのを見て制止しない親があろうか。大聖人の諸宗破折は実に、子の毒を制する親の慈悲に当たる。ゆえに「彼が為に悪を除くは、即ち彼が親なり」とある。
 末法においての成仏の大法は、ただ法華経の本門寿量品の文底に秘沈された「南無妙法蓮華経」であるが、この大良薬を服むには、まず邪法の毒を捨てなければならない。さもなければ薬は効かないのである。
 だが国主・万民がこぞって邪法を信じているとき、もし邪法を捨てよと言い出せば必ず身命に及ぶ。しかし言わなければ無慈悲となる。ここに大聖人は身命を賭するの大誓願を、立宗のとき立て給うたのである。そのご決意を開目抄に
 「日本国に此れを知れる者 但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば、父母・兄弟・師匠・国主の王難必ず来るべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合わせ見るに、いわずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕つべし、いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしと知りぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は退転すべくば一時に思ひ止むべし。且くやすらいし程に、宝塔品の六難九易これなり。(中略)今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願じぬ」と。
 また教機時国抄には
 「之を顕わさば、身命定めて喪わんか」と。
 まことに身命を賭して一切衆生を救わんとのこのご決意、この崇高なる大慈悲を拝すれば、ただ低頭のほかはない。「自讃毀他」などと言ったら罰も当ろう。
 
   巨大地震
 
 立宗ののち、大聖人は直ちに政都・鎌倉に赴き、三大秘法の弘通を開始された。
 当時の鎌倉は、建長寺・極楽寺・大仏殿・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺等の大寺院が甍を連ね、全国から集った高僧は稲麻のごとくであった。その中には、民衆から生き仏と仰がれていた律宗の良観・禅宗の道隆・念仏宗の念阿などもいた。
 その只中で、大聖人は「念仏・禅宗等の邪法を捨て、ただ南無妙法蓮華経と唱えよ」とお勧め下されたのである。そのお姿は、あたかも群狐・群猿の中の師子王のごとくであられた。
 諸宗の僧らは、大聖人の破折に対して怒りの反論を試みるが、経文の証拠を挙げての正しい論理の前に、全く歯が立たなかった。
 民衆は、初めて耳にする説法に戸惑い反発しつつも、大聖人の整然の論旨、師子王のごとき気魄、また犯しがたき威厳の中に無限の慈悲を湛えられた顔貌に接し、帰依する者も相次いだ。富木常忍・四条金吾・曽谷教信・太田乗明・秋元太郎・工藤吉隆・池上宗仲等の鎌倉武士の錚々も、このころ入信した人々である。
 だが弘通が進むにつれ、邪法の僧らの怨嫉は火と燃えあがった。彼らは俗衆を煽動して「日蓮房はアミダ仏の敵」と焚きつけた。ここに大聖人を罵る声は国中に満ち、石や瓦が飛ぶようになったのである。
 
 弘通が始められてより四年目の正嘉元年、巨大地震が五月・八月・十一月と三たび連発して鎌倉を襲った。ことに八月二十三日の大地震は前代未聞の巨大さであった。当時の史書「吾妻鏡」には
 「八月二十三日、大地震。神社仏閣一宇として全きなし。山岳は崩れ、人屋倒壊、築地悉く破損、所々に地裂、地下より水涌出。又火災処々に燃え出づ」とある。
 それだけではない。この巨大地震を機として天地が狂った。年ごとに異常気象は激しさを増し、大水・大火・大風・大飢饉・大疫病が相次ぎ、人民の過半が死を招くにいたった。
 
   立正安国論
 
 この天変地夭は何によっておきたのか。
 これ、諸天の働きによる。久遠元初の御本仏末法に出現して、三大秘法を弘めて一切衆生を救わんとするに、国中これを憎み怨むゆえに、諸天はまず天変地夭をもって一国を罰したのである。
 大聖人はこの巨大地震を凝視された。そして「この大地震こそ、日本国が他国に襲われる前相である」と判じ給い、日本の人々を現当に救うべく一巻の書を顕わし、時の国主・北条時頼に奏進された。これが「立正安国論」である。
 この書において大聖人は、まず国土に災難のおこる原理を明かされている。
 「世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来り鬼来り、災起こり難起こる」と。
 文意を端的にいえば――一国こぞって邪法に執着して日蓮大聖人の正法に背くならば、諸天善神は国を捨てて去る。このゆえに魔・鬼が国土に乱入して災難がおこる――ということである。
  次いで大聖人は、国中の邪法の代表として念仏宗を挙げ、その邪義を徹底して破折された上で
 「早く天下の静謐を思わば、須く国中の謗法を断つべし」
 と国主に促がされている。
そして文末にいたって、もし邪法に執着して日蓮大聖人に背き続けるならば、必ず他国によって我が国が破られることを断言されている。このご予言は安国論の肝要であるから御文を引く。
 「先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑わん。若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来らば、其の時何んが為んや」と。
 「先難」とは天変地夭など亡国の前兆としての災難。「後災」とは亡国をもたらす他国侵逼・自界叛逆の二難である。先難がすでに現われている以上、後災の来ることは疑いないとして、もしこの二難が事実になったら「其の時何んが為んや」と厳しく誡められている。
 ついで後災の二難の恐るべきことを
 「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来りて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや、豈騒がざらんや。国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん」
 と強々と教示下されている。
 この他国侵逼のご予言は、蒙古襲来の実に十四年前のこと、まだ何らの萠しもない時における御断言である。これを見るとき、大聖人の御予言は、海外情勢などにより推測する世間のそれとは全く類を異にする、まさに諸天の動きを見据えての、仏智のご断定であることがよくわかる。
 
   念仏暴徒の草庵襲撃
 
 だが国主・北条時頼は、この重大な諫暁を用いなかった。これを見て、念仏者たちが動き出した。国主が用いぬ法師ならば、殺害しても罪にはなるまいと夜討ちを企てたのである。
 立正安国論の翌月、念仏僧を主とする暴徒数千人は深夜、武器を携えて大聖人の松葉ヶ谷の草庵を襲った。彼らの目的は殺害にあった。だが不思議にも、大聖人はこの難を免れ給うた。
 「国主の御用ひなき法師なれば、あやまちたりとも科あらじとやおもひけん。念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したるぞと聞へし。夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ」(下山御消息)と。
 夜討ちを実行した念仏者たちの背後には、幕府内で隠然たる勢力を持つ北条重時がいたのである。彼は執権・北条長時の実父で、極楽寺を建てて良観を迎え入れたことから「極楽寺重時」と呼ばれていたほどの念仏の狂信者。幕府内で最も強く大聖人を憎悪していた。
 「夜討ち」は当時の法律「御成敗式目」でも重大犯罪と規定されている。しかるに暴徒たちに、とがめは全くなかった。大聖人を憎むあまり重時らは、「大事の政道」すら破ったのである。
 
   伊豆流罪
 
 草庵襲撃九ヶ月後の弘長元年五月、こんどは国家権力による伊豆流罪が行われた。その理由は生き延びたのが怪しからんというものであった。
 「日蓮が生きたる不思議なりとて、伊豆の国へ流しぬ。されば人のあまりに憎きには、我がほろぶべき失をもかへりみざるか。御式目をも破らるるか。(中略)余 存の外の法門を申さば、子細を弁へられずば、日本国の御帰依の僧等に召し合せられて、其れになお事ゆかずば、漢土・月氏までも尋ねらるべし。其れに叶はずば、子細ありなんとて、且くまたるべし」(下山御消息)と。
 ――生き延びたのが怪しからんといって伊豆へ流したが、憎さのあまり、我が身の亡ぶのも顧みないのか、また法律をも破るのか。もし余が存外の法門を申し立てているというのなら、国中の高僧と対決させたらどうか。それでもなお不審があれば、中国・インドまで尋ねたらどうか。それでもわからなかったら、これにはさだめて深いわけがあるのであろうと静観すべきである――と仰せられる。
 この流罪は、執権・長時が大聖人を憎む父・重時の心を知って、一度の尋ねもなく断行したものであった。
 御本仏を憎んで流罪に処した罰は、どのようなものであったか。――重時は大聖人を流罪し奉ったその翌月、にわかに発病し、夜ごとの発作が高じてついに狂乱状態となり、地獄の悪相を現じて死んだ。次いで長時はその三年後に三十五歳で夭死。三男・時茂は三十歳、四男・義政も三十九歳で相次いで夭折。かくて一門はことごとく亡んでしまった。
 この罰について大聖人は
 「されば極楽寺殿(重時)と長時と、彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし」(妙法比丘尼御返事)
 「極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし。念仏者等にたぼらかされて日蓮を怨ませ給ひしかば、我が身といい、其の一門皆ほろびさせ給う」(兵衛志殿御返事)
 と示されている。御本仏を怨む罰の恐しさ、慄然とせざるを得ない。
 流罪は一年九ヶ月で終わった。国主・北条時頼が讒言による冤罪と知って、赦免状を発したのである。幕府内の有力者がこぞって大聖人を憎む中、この時頼だけは、少しく大聖人の只人ならぬを理解していたようである。
 
   小松原の法難
 
 伊豆赦免の翌文永元年の秋、大聖人は母君・妙蓮の「病篤し」の報せを受けて、故郷の房州小湊へ戻られた。
 このとき、小松原の剣難がおきた。地頭・東条景信が軍勢を率いて待ち伏せ、襲撃したのであった。
 この景信は、大聖人が立宗のおり念仏破折の説法をされたことに憤激して、その場で危害を加えんとしたほどの念仏信者である。以来、大聖人を「アミダ仏の敵」と憎悪し、殺害の機会を狙っていたのであった。
 文永元年十一月十一日の夕刻、天津の領主・工藤吉隆の請いにより説法に赴かれた大聖人のご一行は、小松原にさしかかった。あたりはすでに薄暗い。その松林の中で、景信は数百人の軍勢とともに待ち伏せしていた。
 突如ご一行に、道の両側から矢が降りそそいだ。次いで軍勢がなだれのように襲ってきた。ご一行はわずか十人ばかり、しかも武器ひとつ持ってない。
 大聖人をお庇いした鏡忍房はたちまちに討たれ、二人の弟子も深手を負った。急を聞いて駆けつけた工藤吉隆は身を楯として大聖人を守らんとしたが、全身に傷を負い、ついに命終した。
 この乱戦の中で、景信は虎視眈眈と大聖人を狙っていた。やがて彼は馬を躍らせ大聖人に近づくや、大刀を振り下した。
 凶刃は頭上の笠を切り裂き、大聖人の右の御額に四寸(十二センチ)の傷を負わせ奉った。左の手も打ち折られ、まさに御命も危うしと見えた。しかし不思議にも大聖人はこのときも虎口を脱し給うた。
 「今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要に合ふものわづかに三・四人なり。射る矢はふるあめのごとし、討つ太刀はいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事の手にて候。自身もきられ打たれ結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり」(南条兵衛七郎殿御書)と。
 法華経の勧持品には「刀杖を加うる者有らん」とあるが、この小松原の剣難はまさにその経文に符合するものであった。
 それにしても東条景信は、御本仏の身より血を出すという「出仏身血」の大逆罪を犯したのである。その現罰――彼はこの直後に重病を発し、大苦悶のなかに狂死をとげている。
 
   文永の大彗星
 
 文永元年七月、大彗星が出現した。正嘉元年の大地震からは七年目、この大地震に呼応するごとくの出現であった。
 大聖人御在世には、前後の時代に比べて彗星が多発しているが、この彗星の巨大さは前代未聞であった。「長さ一天にわたる」とあって、全天空を横断するほどの長さであった。
 彗星は古来より「兵乱の凶兆」とされ、経典にも多く示されている。
 彗星はどこから現われるのかといえば、近年の天文学によれば、彗星のふるさとは太陽から十兆キロメートルも離れた「オールトの雲」である。太陽はここから彗星を引き寄せたうえ、太陽熱と太陽風によって、青白い光芒を放つあの長い尾を作らせるという。このことをみれば、彗星はまさしく太陽の眷属である。そして太陽は仏法においては「日天子」といって、諸天の中の一つなのである。
 彗星も地震も、一般常識からすれば「自然現象であって人間社会とは何ら関係はない」とする。しかしそう見るのは、限られた部分だけをみて、未だ全体を見ない偏見である。
 前にも述べたが、人間は大宇宙から生じたものであり、これを生ぜしめた宇宙は、人間を一細胞とする一大生命体である。ゆえにその中のあらゆる存在は、相互に関連し影響し合っている。
 仏法では、果報の主体たる人間の生命を「正報」といい、正報に伴う環境世界を「依報」という。正報と依報とは一体不二である。ゆえにもし衆生の心が地獄界になれば、国土も地獄の相を現ずる。
 この「依正不二」の原理を瑞相御書には
 「夫れ十方は依報なり。衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもって此れをつくる」
 また
 「人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の動あり。人の悪心盛なれば、天に凶変、地に凶夭出来す。瞋恚の大小に随って天変の大小あり、地夭も又かくのごとし」(同前)と。
 このように依正は不二、そして衆生の心に感応して環境世界に変動をもたらすのが、「諸天」の力用なのである。
 
 では、前代未聞といわれる正嘉の大地震・文永の大彗星を、大聖人はどのようにご覧になられたのであろうか。法蓮抄には
 「立正安国論を造りて最明寺入道(北条時頼)殿に奉る。彼の状に云く  此の大瑞(正嘉の大地震)は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり。(中略)其の後文永の大彗星の時は又手ににぎりて之を知る」と。
 諸天は何ゆえこの大地震・大彗星を現わしたかといえば、同じく法蓮抄に
 「予 不肖の身なれども法華経を弘通する行者を、王臣人民之を怨む間、法華経の座にて守護せんと誓いをなせる地神いかりをなして身をふるひ、天神身より光を出だして此の国をおどす。いかに諫むれども用ひざれば、結句は人の身に入って自界叛逆せしめ、他国より責むべし」と。
 ――法華経の肝心たる「南無妙法蓮華経」を弘める大聖人を、国主・人民怨み迫害するゆえに、二千余年前、法華経の会座において釈尊に「末法の御本仏を守護し奉る」と誓った諸天善神は怒りをなし、大地震・大彗星をもってその国を威す。そしてなお迫害を続けるならば、このとき諸天は人の身に入って自界叛逆せしめ、さらに他国よりこの国を責めしむる――と仰せられている。
 
 このように諸天善神は、御本仏のご化導において欠くべからざる重要な存在である。よって改めてここに、「諸天善神」について説明をしておきたい。
 
   諸天善神とは
 
 まず諸天とは、その名を挙げれば大梵天王・帝釈天王・日天・月天・四王天などで、本来、宇宙に具わっている仏法守護の生命活動とみればよい。
 これを十界の上から論ずれば、まさしく天上界の衆生である。仏法は宇宙法界の衆生をそれぞれの境界にしたがって十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏)に分類しているが、諸天はこの中の天上界に属する。仏法を守護する功徳により、天上界の果報を得ているのである。
 次に善神とは、天照太神・八幡大菩薩等をいう。「神」といっても、キリスト教における天地創造の「ゴッド」とは全く異なる。ゴッドは假空の存在であるが、仏法上の善神は実在である。
 すなわち天照太神は皇室の祖先であり、八幡大菩薩は第十六代・応神天皇のことである。このように、実在する有徳の国主の崩御せられたるを、生けるがごとく崇めたのが、神なのである。
 「神と申すは又国々の国主等の崩御し給へるを、生身のごとくあがめ給う。此れ又国王・国人のための父母なり、主君なり、師匠なり。片時も背かば国安穏なるべからず」(神国王御書)と。
 では、これら善神がなぜ仏法に関わりをもっているのかといえば、日本は仏法有縁の国であり、とりわけ下種本仏が出現される世界唯一の国である。この御本仏を守護するために、あらかじめ日本国の国主として出現したのが天照太神・八幡大菩薩なのである。
 ゆえに大聖人はその本地について、甚深のご教示を下されている。
 「天照太神・八幡大菩薩も、其の本地は教主釈尊なり」(日眼女抄)
 また
 「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神の、我が国に天下り始めし国は出雲なり。出雲に日の御崎と云う所あり、天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり」(産湯相承事)と。
 このご指南のごとく、実に天照太神・八幡大菩薩は共に釈尊の垂迹であり、久遠元初下種の南無妙法蓮華経を守護するため、日本国に出現されているのである。
 これら善神の力用も、つきつめれば諸天と異なるところはない。よって諸天と同じく「宇宙に具わる仏法守護の働き」と理解すればよい。
 
   諸天はなぜ大聖人を守護するのか
 
 では、諸天はなぜ末法出現の日蓮大聖人を守護し奉るのかといえば、理由は二つある。
 一には、南無妙法蓮華経こそ諸天自身が成仏を得ることのできた大法である。その大法を、日蓮大聖人が末法に弘通されるのである。どうしてこの大恩を報じないことがあろうか。二には、法華経会座における釈尊との誓いを果すためである。
 まず一についていえば、法華経の序品を拝見するに、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天は、もろもろの菩薩等とともにその会座に連なり、四十余年には未だ聞いたことのない甚深の法を聴聞している。しかし法華経の迹門(二十八品中の前十四品)においては、まだ成仏が叶わなかった。そして本門寿量品にいたって、初めてその文底に秘沈された久遠元初の下種の南無妙法蓮華経を覚知し、「妙覚の位」という真実の仏果を得ることができたのである。この自身成仏の大法が、日蓮大聖人によって末法に弘められる。どうしてその大恩を報ぜぬことがあろうか。
 二についていえば、釈尊が日蓮大聖人の末法弘通を予言証明するために、法華経神力品において上行菩薩に寿量品文底の大法を付嘱したことは前に述べた。さらに釈尊は次の嘱累品において、もろもろの諸天に対し「末法の法華経の行者」を守護すべきことを命じている。この仏勅に対し諸天は
 「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし」
 との誓言を、三たび繰り返して誓いを立てている。つたなき者は約束を忘れ、高貴の人は約束を違えないというが、梵天、帝釈、日月、四天等の果報いみじき諸天が、どうしてこの堅き誓いを忘れることがあろうか。
 人間なら寿命も短いゆえに、釈尊在世の人が末法まで生きながらえるということはない。しかし寿命長き諸天にとっては、二千二百余年などはわずかの日数でしかない。たとえば四王天の一昼夜は人間の五十年、ゆえに人間の二千二百余年は四王天の四十四日である。わずか四十四日で、どうして仏前の堅き誓いを忘れることがあろうか。ゆえに大聖人は
 「人間の五十年は四王天の一日一夜なり。(中略)されば人間の二千二百余年は四王天の四十四日なり。されば日月並びに毘沙門天王は仏(釈尊)におくれたてまつりて四十四日、いまだ二月にたらず。帝釈・梵天なんどは仏におくれ奉りて一月一時にもすぎず。わずかの間に、いかでか仏前の御誓い、並びに自身成仏の御経の恩をば忘れて、法華経の行者をば捨てさせ給うべき」(祈祷抄)
 と仰せられている。諸天の尺度は時間・空間ともに人間とは異なるのである。
 
   諸天の力用
 
 日蓮大聖人を怨嫉迫害する国を諸天がどのように罰するかは、すでに繰り返し述べた。すなわち、まず大地震・大彗星・異常気象・大飢饉・大流行病などの天変地夭でこれを罰し、それでも迫害なお止まなければ、人の心に入って内乱を起こさしめ、ついには隣国の王を動かしてこの国を責めしめる――と。
 梵天・帝釈・日月・四天等は、このように宇宙的スケールの力用で大聖人を守護し、化導を助けまいらせている。
 これら諸天の中でも、我々の目に見えて力用を発揮しているのが、日天(太陽)と月天(月)である。
 「法華経の行者をば諸天善神守護すべきよし、嘱累品にして誓状をたて給い、一切の守護神・諸天の中にも、我等が眼に見へて守護し給うは日・月天なり。争でか信をとらざるべき」(四条金吾殿御返事)と。
 太陽や月に精神活動があるごときこの仰せは、一般の理解を超えるであろう。しかし仏法は宇宙自体を一大生命体として、その中の太陽・月等もことごとく色法(物質)と心法(精神)を具えた生命体としてとらえる。
 草木や国土のように精神活動がないと思われている物質世界を「非情」というが、法華経はこの非情世界にも色心の二法が存在することを明かしている。ゆえに大聖人は
 「観門の難信難解とは百界千如・一念三千、非情の上の色心の二法・十如是是れなり」(観心本尊抄)と。
 非情世界に心法(精神活動)が具っていることを認識することは「難信難解」ではあるが、これが生命の実相・一念三千の哲理である。
 中国の妙楽大師も「一草・一木・一礫・一塵、各一仏性、各一因果あり、縁了を具足す」(金u論)――草木・石ころ・塵にさえ、仏性が具わり、十如是(色心)の因果があり、成仏することができる――と述べている。
 一草・一木・一礫・一塵にさえ仏性があり、色心の二法があり、成仏するならば、いわんや太陽・月等においてをやである。まさしく太陽・月は色心の二法を具えて常時に人心に感応しつつ、地球に強い影響をおよぼしているのである。
 
 そもそも地球上のあらゆる生物は、太陽と月の力によって発生し生命を維持しているのであるから、あらゆる生物にとって太陽・月の影響は根本的かつ死活的である。最近の科学はこれらの事実を明かしつつある。
 米国のマイアミ大学医学部教授で「宇宙生物学」の研究者アーノルド・リーバー博士は、月の影響力について次のように述べている。
 「月は地球から平均三八万四四〇〇キロメートル離れた軌道を回っている。月がわれわれの生活に影響を及ぼすはずなどない、と思っている人々もいる。(中略)月の影響は、われわれの周囲いたるところに及んでいる。月は太陽とともに、進化過程に強い影響を与えてきた。実際、われわれの行動様式にもその影響がみられる。月は生活の中の自然サイクルを定める役割をも担っている。(中略)あなたは自分の皮膚を、自分と宇宙との境界とみなすだろうか。いろいろな意味で、皮膚は境界とはいえない。宇宙からの種々の力に対し、われわれは裸同然であり、まったく無防備である」
 そして同博士は、月の影響力の事例を次のように挙げる。
 (1)満月と新月の時には殺人事件・交通事故が多いことが統計上証明されている。これは月の引力が人体の体内水分や神経組織に影響を及ぼし、人間の心理を攻撃的にするからである (2)魚類の産卵サイクルにも月のリズムが見られる。トウゴロウイワシは満月か新月直後の晩にだけ産卵し、ウニの生殖サイクルは月齢サイクルと一致している (3)人間の生殖も月齢サイクルと密接な関係がある (4)月は太陽と相互に作用しあって地上の気象に大きな影響を及ぼしている (5)月の引力は地殻を引っぱり、最大三〇センチも地球をゴムまりのようにゆがめる。月の引力と太陽の力の相互作用が地震発生に影響を与えている――等々。さらに
 「生命あるものは、すべて天体運動に共鳴している。われわれは息づいている宇宙の一部分である。潮のように遠のいたり近づいたりする天体の動きに、われわれはたえず影響されている。月の満ち欠け、太陽の黒点、太陽放射、宇宙線、そして惑星の運動などはその例といえよう」とも述べる。この「バオタイド理論」は仏法の上からも注目に値する。
 また米国のシカゴ・イリノイ大学医学部教授のウィリアム・ピーターセン博士は
 「太陽・月・星などのサイクルが変化すると、それにしたがって人間の生体リズムや天気も変化する」「人間はあらゆる環境に依存し、環境は天体リズムの影響下にある」と。
 日本の科学者も、人間の血液凝固速度が太陽活動と関係していることを見出し、一九五八年には一万五千におよぶデータから、太陽活動期になると白血球が減少しリンパ球が増加することを発表している。また東京医科歯科大学の角田忠信名誉教授は、満月と新月の日に右脳と左脳のはたらきが逆転することを実験で確認している。
 旧ソ連の研究者たちは、太陽の地球上の生命への影響を研究して、「事故・伝染病の流行、穀物の収穫、ウィルス病・心臓病などは、太陽黒点サイクルと相関している」ことを確認している。同じく旧ソ連の科学者チジェフスキーは「ペスト、コレラ、インフルエンザ等をふくむ伝染病が流行したのは、太陽活動の盛んだった時期と一致している」と発表している。
 これらの研究はまだ一部分の解明にしかすぎない。それでも、太陽・月が人間生活に重大な影響を与えていることがよく窺える。
 この太陽・月は「日天子」「月天子」として諸天の一つである。ゆえに仏法に背く国土においては「日月、明を現ぜず」等の異変がおこる。日・月に異変が起これば異常気象をもたらし、大旱魃・大火・大水・大風・大飢饉等がおこるのである。彗星が太陽の力によって出現することは前述したが、大地震も、インフルエンザ・ウィルスも、表面の発生メカニズムはともかく、その根底には日・月の力が作用しているのである。
 
 諸天にはこの日天・月天のほか、さらに梵天・帝釈・四王天のごとく、目には見えないが日・月天以上の力用を持つ存在がある。目に見えないからといって、これら諸天の存在を否定してはならない。
 「科学的」という言葉はよく使われる。たしかに現代科学は大は宇宙の構造から小は素粒子にいたるまで、その実相を次々と解明してきた。しかし、分かっていることはまだほんの一部で、わからないことのほうが断然多い。科学は試行錯誤をくり返しつつの進行形なのである。ゆえに現在の智識にこだわって未知のことを否定するのは、思い上がり、かつ非科学的な態度といわねばならない。
 たとえば銀河系の中心部に巨大なブラックホールが存在することがわかったのは、つい近年のことである。しかし人々が認識しようとしまいと「ブラックホール」はあったのだ。ニュートリノにしても、暗黒物質(ダークマター)にしても、宇宙定数(ダークエネルギー)にしても、その存在に人類が気づいたのはつい最近のことではないか。しかし人々が知ろうと知るまいと、わかろうとわかるまいとこれらは在った。もしそれまでの固定観念にとらわれてこれらの存在を否定していたら、地動説を否定した神父らと何ら異なるところはない。すべからく謙虚でなければいけない。
 高エネルギー宇宙物理学の世界的権威でNASA主任研究員でもあった神奈川大学元学長・桜井邦朋教授はこう述べている。
 「現在の宇宙論にしたところで、これまでの観測結果を合理的に説明しようとして作り上げた解釈の一つであって、これが唯一無二の真実であるとは言い切れないのである。インフレーションではじまるビッグ・バン宇宙論が、今後、永久に変わることのない正しい説明なのだと断言できる研究者は、たぶん一人もいないであろう」「私たちはつい〝知性〟というものを過大に評価しがちだが、じつは知性とか論理といったものほど、いい加減なものはないのである。極端な話、『不変の真理』など、科学の世界には、どこにもないのである。そもそも、科学の真理というのは固定したものではない。私たちの〝経験〟が深まるにしたがって、変わっていくのが真理なのである」(宇宙には意志がある)と。
 傾聴すべき卓見ではある。まさに科学は進行形であって、人間と宇宙を貫く究極の真理を求めて試行錯誤をくり返しているのである。
 では、その究極の真理とは何か。それは、日蓮大聖人が証得された生命の極理たる「人の全体即法、法の全体即人、人法体一・事の一念三千の南無妙法蓮華経」に尽きる。そこにたどりつくまで、科学は試行錯誤を続けるのであろう。
 ゆえに現在のわずかな科学智識をもって「諸天」の存在を否定してはならない。まして現証あれば、誰人がこれを疑えようか。その現証とは、日蓮大聖人の御化導に応じて諸天が現わす数々の徴である。
 
 まず正嘉の大地震と文永の大彗星は、諸天この国を罰する徴の第一であった。
 「日蓮は閻浮(世界)第一の法華経の行者なり。此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は、閻浮第一の大難にあうべし。これは日本国をふりゆるがす正嘉の大地震、一天を罰する文永の大彗星等なり。此れ等をみよ。仏滅後の後、仏法を行ずる者にあだをなすといえども、今のごとくの大難は一度もなきなり。南無妙法蓮華経と一切衆生にすゝめたる人一人もなし。此の徳はたれか一天に眼を合はせ、四海に肩をならぶべきや」(撰時抄)と。
 南無妙法蓮華経をお勧めくださる御本仏に怨をなすゆえに、前代未聞の大地震・大彗星の大難があった。そしてこの大難は「他国より此の国をほろぼすべき先兆」(法蓮抄)であったのである。
 
   大蒙古より国書来たる
 
 果せるかな。文永五年の正月十八日、大蒙古より「属国となって朝貢しなければ侵略する」旨の国書が到来した。
 蒙古は東は中国・朝鮮から、西はドイツ・ポーランド、南はトルコ・イランまでを征服した人類史上最大・最強の帝国である。この侵略国家が、いよいよ日本に侵略の矛先を向けてきたのだ。これこそ日本国始まって以来の国難である。一国上下、虎の咆哮を聞いた羊のごとく怖れ戦いた。
 日蓮大聖人が八年前、立正安国論に予言された「他国侵逼」は、ここについに事実となったのである。
 もし日本一同なお大聖人に背き続けるならば
 「此の国の人々、今生には一同に修羅道に堕し、後生には皆阿鼻大城(無間地獄)に入らん事、疑い無き者なり」(曽谷抄)と。
 大聖人がもっとも憂え、不憫とおぼされたのはこのことであった。
 
   公場対決を迫る
 
 ここに大聖人は日本国を救うべく「公場対決」を以て、仏法の邪正を一挙に決せんとされた。
 公場対決とは、国王・大臣等の面前で法論をして正邪を決することで、古来より仏法では邪正対決に、この方法が用いられてきた。中国の天台大師が陳の国王の前で、南北十師の邪義を打ち破り法華経に帰伏させたのもこの公場対決。日本の伝教大師が桓武天皇の御前において奈良の六宗の邪義を破して法華経に帰一させたのも、この公場対決による。公場対決こそ公明正大に正邪を決する唯一の方法なのである。
 文永五年十月十一日、大聖人は公場対決申し入れの書状を十一箇所に送られた。いわゆる「十一通申状」である。
 その宛て先は、為政者としては北条時宗・平左衛門・宿屋入道・北条弥源太の四人。諸宗の代表としては建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺の七箇所、都合十一通である。
 文面は、為政者には諸宗の僧を召し合わせて邪正を決することを促がし、諸宗の代表には対決に応ずるよう呼びかけられている。
 少し長くなるが、北条時宗への御状の全文を紹介する。
 「謹んで言上せしめ候。抑も正月十八日、西戎大蒙古国の牒状到来すと。日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること、立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ。日蓮は聖人の一分に当れり。未萌を知るが故なり。
 然る間、重ねて此の由を驚かし奉る。急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまへ。然らずんば重ねて又四方より責め来るべきなり。速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給へ。彼を調伏せられん事、日蓮に非ずんば叶うべからざるなり。諫臣国に在れば則ち其の国正しく、争子家に在れば則ち其の家直し。国家の安危は政道の直否に在り、仏法の邪正は経文の明鏡に依る。
 夫れ此の国は神国なり、神は非礼を禀けたまわず。天神七代・地神五代の神々、其の外諸天善神等は一乗擁護の神明なり。然も法華経を以て食と為し正直を以て力と為す。法華経に云く『諸仏救世者、大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現ず』と。一乗棄捨の国に於ては豈善神怒を成さざらんや。
 仁王経に云く『一切の聖人去る時七難必ず起る』と。彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し、桀紂は竜比を失って国位を喪ぼす。今日本国既に蒙古国に奪われんとす。豈歎かざらんや豈驚かざらんや。日蓮が申す事御用い無くんば、定めて後悔之有るべし。日蓮は法華経の御使なり。経に云く『則ち如来の使、如来の所遣として如来の事を行ず』と。三世諸仏の事とは法華経なり。
 此の由方々へ之を驚かし奉る。一所に集めて御評議有って御報に予かるべく候。所詮は万祈を抛って諸宗を御前に召し合せ、仏法の邪正を決し給え。底の長松未だ知らざるは良匠の誤り、闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり。三国仏法の分別に於ては殿前に在り。所謂、阿闍世・陳隋・桓武是れなり。敢て日蓮が私曲に非ず、只偏に大忠を懐く。故に身の為に之を申さず、神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり。恐恐謹言」
 次に良観への書状も紹介する。
 「西戎大蒙古国簡牒の事に就て、鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候。日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く、毫末計りも之に相違せず候。此の事如何。
 長老忍性、速かに嘲哢の心を飜えし、早く日蓮房に帰せしめ給え。若し然らずんば人間を軽賤する者、白衣の与に法を説くの失脱れ難きか。依法不依人とは如来の金言なり。良観聖人の住処を法華経に説て云く『或いは阿練若に有り、納衣にして空閑に在り』と。阿練若は無事と飜ず、争か日蓮を讒奏するの条、住処と相違せり。併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり。僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定なり。聊かも先非を悔いなば日蓮に帰すべし。
 此の趣き鎌倉殿を始め奉り、建長寺等其の外へ披露せしめ候。所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず。即ち三蔵浅近の法を以て諸経中王の法華に向うは、江河と大海と、華山と妙高との勝劣の如くならん。蒙古国調伏の秘法定めて御存知有るべく候か。日蓮は日本第一の法華経の行者・蒙古国退治の大将為り。『於一切衆生中亦為第一』とは是れなり。文言多端にして理を尽す能わず。併ながら省略せしめ候。恐恐謹言」
 良観は巧みに民衆をたぶらかして「生き仏」をよそおい、裏では権力者と結託して私利を貪っていた偽善者であった。彼の最も恐れていたのは、大聖人の破折で自身の正体が露見することであった。よって、ことあるたびに大聖人を讒奏しては陥れようとしていた。
 ゆえに大聖人はこの書状において、良観の正体を「矯賊の聖人」「僣聖増上慢」とあらわし、「今生は国賊、来世は那落」と決判したうえで、「所詮 本意を遂げんと欲せば対決に如かず」と結ばれている。
 もし良観にいささかの確信でもあれば、この対決は喜びであったはずである。だが彼は、師子吼を聞いた狐のごとく、四肢をすくませてしまった。
 
 この十一通申状に対する反応はどうであったか――。いずれも国難を前にしながら、大聖人を憎むのあまり、あるいは使いを罵り、欺き、あるいは拒絶し、あるいは受けとっても返事もせず、返事をしても上にこれを取り次がず、という有りさまであった。
 このままではいよいよ国は亡びる。なお不憫とおぼされた大聖人は翌文永六年十一月、再び前年のごとく各所に諫状を送られた。この重ねての強き諫めに対し怨嫉はますます強まった。
 幕府内ではひそかに、大聖人の頸を刎ねるべきかと検討する動きも出た。諸宗の高僧らが背後で働きかけていたからである。
 高僧らは、公場対決によって窮地に追いつめられていた。もし律宗の良観、禅宗の道隆、念仏宗の念阿等の〝生き仏〟たちに「我が宗の教義が正しい」との自負が少しでもあったなら、この対決こそ日ごろの〝法敵〟を倒す無二の好機のはずだ。だが、彼らは日蓮大聖人に敵し得ないことを誰よりも知っている。彼らには法の邪正も成仏も眼中になかった。守りたいのは己れの名声と利権のみ、恐れるのは己れの正体が露見することだけであった。
 ここに〝生き仏〟たちは、日蓮大聖人を殺害する以外に生きる道なしと、その機を窺う。かくて恐るべき卑劣な陰謀を孕みつつ、三年の時が静かに流れた。
 
   良観 祈雨に敗れる
 
 しかしこの静穏は〝大旱魃〟によって破られた。文永八年は春から雨がふらず、野山に青色なく作物はことごとく枯死する有様であった。焦燥にかられた幕府は良観に〝雨の祈り〟を命じた。
 良観は喜んでこれを受けた。実は良観は祈雨においては超能力を持ち、これまでにもしばしば雨を降らせた実績がある。このような超能力を「魔の通力」という。邪教の教祖などが人々をたぶらかすのは、みなこの通力の類いである。天魔その身に入る者は「通を現ずる」(唱法華題目抄)とある。
 良観が祈雨を受諾したことを伝え聞かれた大聖人は、この祈雨につけて、彼の正体を露さんとされた。本来、雨のふるふらぬは成仏・不成仏とは関係ない。しかし法論を逃避する良観に対して、彼のもっとも得意とする祈雨で、事を決せんとされたのである。
 大聖人は〝七日のうちに一滴の雨でもふれば良観房の弟子となる。もしふらなかったら余の弟子となるべし〟と書状を送られた。
 これを見て良観は悦び泣いた。よほど自信があったのであろう。さっそく良観は弟子百二十人を集め、旱天のもと、頭から煙を出して祈った。
 だが、七日たっても、雨は一滴もふらなかった。未練にも良観は〝あと七日の猶予を〟と哀請した。大聖人は承諾された。
 再び良観の必死の祈りが始まった。人数は前にも増して諸宗の僧が加わった。数百人の脳天よりしぼり出す声は旱天に響きわたる――が、落ちるは汗と涙ばかり。ついに十四日間一雨もふらぬうえ、悪風ばかりが吹きまくったのであった。
 良観は完敗した。もし彼にいささかの道念でもあれば、大聖人の弟子となったであろう。また一分の廉恥心でもあれば、身を山林に隠したことであろう。
 だが「悪鬼其の身に入る」の良観の胸に湧いた念いは、「この上は何としても日蓮房を殺害せねば……」との悪念だけであった。
 
   良観の讒奏
 
 祈雨完敗の数日後、良観は日ごろ心を通じている念仏宗の行敏に、大聖人との法論を申し入れさせた。これは、公場対決を逃げていることの取り繕いであると同時に、その法論を利用して〝勝った勝った〟と偽りの宣伝をしようとの魂胆からであった。
 大聖人は直ちに返書をしたためられた。
 「条々御不審の事、私の問答は事行き難く候か。然れば上奏を経られ、仰せ下さるゝの趣に随って、是非を糺明せらるべく候か」(行敏御返事)
 問答は大いに結構であるが私的なものではなく、上奏を経たうえでの公場対決にすべし――との意である。
 良観の思惑ははずれた。彼は次策として、再び行敏の名で大聖人を告訴させた。この訴状を作ったのは良観・念阿等の〝生き仏〟たちであった。
 訴状には、大聖人が法華経だけを正として念仏・禅・律宗を破していることを批判し、加えて「凶徒を室中に集む」として、大聖人が武器を蓄え凶徒を集め不穏なことを企んでいるごとく訴えている。これこそ大聖人を国事犯・謀叛人に仕立てようとする陰謀であった。
 訴状を受理した問注所は、大聖人にその答弁を求めた。大聖人は法義上においてはその一々の理非を明らかにし、「凶徒を室中に集む」等の誣告に対しては、これを厳しく打ち砕かれた。告訴は失敗におわった。
 
 公場対決はできない、祈雨は完敗、告訴も効なしとなれば、良観らに残された策は一つしかない。――それは、権力者に讒奏して、斬罪を実行させることだった。
 「生き仏」たちは見栄も外聞もかなぐり捨てて行動を開始した。そのさまは
 「極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴え、建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく。諸の五百戒の尼御前等は帛をつかひて伝奏をなす」(妙法比丘尼御返事)と。
 さらに良観は権力者を動かすため、権閨女房(権力者の妻)や後家尼御前たちに〝日蓮房は日本が亡ぶようにと咒咀している〟〝北条時頼殿・北条重時殿を無間地獄に堕ちたと悪口している〟等と讒言し煽動した。良観に深く帰依している彼女たちは、これを真に受けてヒステリックに叫んだ。
 「天下第一の大事、日本国を失わんと咒咀する法師なり。故最明寺(北条時頼)殿・極楽寺(北条重時)殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし、但須臾に頸をめせ、弟子等をば又或いは頸を切り、或いは遠国につかはし、或いは籠に入れよ、と尼ごぜんたち瞋らせ給いしかば、そのまま行われけり」(報恩抄)と。
 
 この良観の讒奏・煽動に呼応して、幕府内で弾圧の動きを見せたのが、平左衛門尉頼綱であった。
 この頼綱は執権・北条時宗の下にあって得宗(北条一族の嫡流)の家司であり、侍所の所司として軍事・警察権を一手ににぎる幕府内の最高実力者であった。彼は念仏・真言を深く信じ、大聖人を前々から憎悪し、良観とも深く通じていた。
 頼綱は文永八年九月十日(竜の口法難二日前)、大聖人を評定所に呼び出した。彼の胸にはすでに「斬罪」が決められている。その口実を得るための尋問であった。
 彼は威圧的に、良観らの讒言の一々を取り上げ、大聖人に返答を迫った。
 大聖人は恐れる色もなく讒言を砕かれるとともに、道隆・良観らの謗法を禁断するため、早く公場対決を実現すべしと、促がされた。そして最後に
 「詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば、世を安穏にたもたんとをぼさば、彼の法師ばらを召し合はせてきこしめせ。さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行はるゝほどならば、国に後悔あるべし。日蓮御勘気をかほらば、仏の御使を用ひぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流・死罪の後、百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門同士討ちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より、ことには西方よりせめられさせ給ふべし。其の時後悔あるべし」(下種本仏成道御書・別称 種々御振舞御書)
 と言い切られた。問い詰めるはずだった平左衛門はかえって諫められ、「すこしも憚る事なく物に狂う」(成道御書)の態を示した。
 その翌々日、大聖人は一書(一昨日御書)をしたため重ねて暁諭されるとともに、改めて立正安国論を進呈された。書中には次のような御文がある。
 「法を知り国を思うの志尤も賞せらるべきの処、邪法・邪教の輩、讒奏・讒言するの間、久しく大忠を懐いて而も未だ微望を達せず。剰へ不快の見参に罷り入ること、偏えに難治の次第を愁うる者なり」
 そして末文には
 「抑貴辺は当時天下の棟梁なり、何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし。世を安んじ国を安んずるを忠と為し孝と為す。是れ偏えに身の為に之を述べず、君の為、仏の為、神の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり。恐々謹言」
 まさに大聖人の身命を賭してのご諫暁は、ただ国を救わんとの大慈悲より発するものである。しかし「悪鬼其の身に入る」の平左衛門には、その御心は通じなかった。
 この日の夕刻、彼は恐るべき行動を起こした。
 
   「日本国の柱を倒す」
 
 文永八年九月十二日の午後五時ごろ、平左衛門は数百人の武装兵士を率いて大聖人の草庵を襲った。その時のもようは下種本仏成道御書(別称・種々御振舞御書)にくわしい。
 「文永八年九月十二日、御勘気をかほる。其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ。了行が謀反ををこし、大夫律師が世をみださんとせしを召しとられしにもこへたり。平左衛門尉大将として、数百人の兵者にどうまろきせて、ゑぼうしかけして、眼をいからし声をあらうす」と。
 ただお一人の大聖人を召し取るのに、数百人の武装兵士を引き連れての仰々しさはいったい何ごとか。
 これは、大聖人を国事犯・謀叛人として逮捕することを世に見せたものだ。幕府には後ろめたさがある。それは諸宗の僧らと召し合わせることもなく、一方的に彼等の側に立って刑を行うという理不尽である。自らこれを知ればこそ、謀叛人のごとく見せなければならなかったのである。
 ここに国家権力はついに、邪法・邪師に味方して、一切衆生の主君・師匠・父母にてまします日蓮大聖人の御頸を刎ねる大逆罪を、決断したのであった。
 
 庵室になだれ込んだ兵士たちの狼藉は目にあまるものがあった。
 平左衛門の一の郎從といわれた少輔房(退転叛逆者)が、まず大聖人のもとに走り寄った。彼はいきなり大聖人の懐中されていた法華経第五の巻を抜き取り、その経巻をもって大聖人の御面を三たび打ち奉ったうえ、経巻を打ち散らした。
 これを見た兵士どももこれに倣い、残り九巻の法華経を室中に打ち散らし、足に踏み、あるいは肩にかけて身にまとうなど、狂態の限りを尽くした。
 このさまをじっとご覧になっておられた大聖人は、突如、大高声で叫ばれた。
 「あらをもしろや。平左衛門尉がものに狂うを見よ。とのばら、但今ぞ日本国の柱を倒す」と。
 さらに
 「日蓮は日本国の棟梁なり。予を失うは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界叛逆難とて同士討ちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打ち殺さるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をば焼きはらいて、彼等が頸を由比の浜にて切らずば、日本国必ずほろぶべし」(撰時抄)と叫ばれた。
 この師子吼・大叱咤は、平左衛門の心胆を寒からしめた。彼は恐怖のあまり顔面蒼白となり、棒のごとく立ちすくんだ。
 これを見て兵士たちは動揺した。〝臆すべきは日蓮房なのに、逮捕に来た大将が臆するとはどういうことか〟と。
 このような中で、平左衛門は大聖人を連行した。そのさまは「鎌倉の小路をわたす事、朝敵のごとし」(神国王御書)と。そして大聖人の身柄は、そのまま武蔵守宣時の邸に預けられた。
 
   八幡大菩薩を叱責
 
 その日の子の刻(午前零時ごろ)、大聖人は数百人の武装兵士の警護のもと、宣時の邸を出られた。行先は竜の口の刑場である。死を前にして大聖人は悠揚せまらず、泰然として馬上の人となる。
 一行は粛々と暗闇の中を進む。若宮小路を出て鎌倉八幡宮の前にさしかかったとき、大聖人は馬を止められた。
 「何ごと……」
 と驚きさわぐ兵士を制して
 「各々さわがさせ給うな。別の事はなし。八幡大菩薩に最後に申すべき事あり」
 とて馬より下り、高声で仰せられた。
 「いかに八幡大菩薩はまことの神か。(中略)今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其の上身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきをたすけんがために申す法門なり。又大蒙古国よりこの国をせむるならば、天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか。其の上釈迦仏 法華経を説き給いしかば、(中略)各々法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状まいらせよとせめられしかば、一々に御誓状を立てられしぞかし。さるにては日蓮が申すまでもなし、急ぎ急ぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきに、いかに此の処には落ちあわせ給はぬぞ」(成道御書)
 八幡大菩薩は天照太神とともに下種仏法守護の善神である。その八幡大菩薩が守護の責務を果さぬ怠慢を
 「いかに八幡大菩薩はまことの神か」と叱責し給うたのである。
 ――いま日蓮は日本第一の下種の法華経の行者である。しかも身に世間の過失は一つもない。ただ日本国の一切衆生の無間地獄に堕ちるを救わんがために申す法門である。また大蒙古の侵略があったら、天照太神・正八幡とて安穏でいられようか。そのうえ天照・八幡等の善神は、もろもろの諸天と共に法華経の会座において釈尊より末法の法華経の行者をおろそかにしない誓状を立てよと責められたとき、一々に誓状を立てたではないか。ならば、日蓮が申すまでもない。急ぎ急いでその誓いの宿願を遂げるべきなのに、どうしてこの処には駆けつけないのか――と。
 そして最後に
 「日蓮 今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・正八幡こそ起請(誓い)を用いぬ神にて候いけれと、さしきりて教主釈尊に申し上げ候わんずるぞ。いたしとおぼさば、いそぎいそぎ御計いあるべし」と。
 この仰せはどうか守ってほしいなどの歎願ではない。なぜ守らぬのかとその怠慢を責め、「急ぎ急ぎ計うべし」と申し付け給うておられるのである。
 なぜ、このような「申し付け」ができるのか――日蓮大聖人こそ「日本第一の法華経の行者」すなわち末法下種の本仏であられるからに他ならない。
 この御振舞いを見て、兵士たちはどれほど驚いたことであろうか。当時鎌倉の八幡宮といえば、将軍自らが毎年参詣し、国中の武士たちの尊崇措くあたわざる聖域である。その八幡大菩薩を大音声で叱責されたのであるから、兵士たちは度胆を抜かれたに違いない。このお振舞いこそ、まさしく「下種本仏」の内證を示される序分の説法であった。
 大聖人は再び馬を召される。由比ヶ浜に出たところで、大聖人は兵士たちに
 「しばし殿ばら、これに告ぐべき人あり」
 とて、近くに住む四条金吾のもとへ熊王という童を遣わされた。四条金吾は驚愕して裸足のまま駆けつけ、大聖人の馬の轡にとりすがり、竜の口まで御供した。この四条金吾は立宗直後の入信で、純粋一筋の信仰の人。北条支流の江馬家に仕え、学問に秀で、医道を修め、そのうえ武芸の達人、鎌倉武士の典型のような人であった。
 大聖人は馬上より諄々と四条金吾に仰せられる。
 「今夜、頸切られへまかるなり。この数年が間、願いつる事これなり。此の娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、ねずみとなりし時はねこにくらわれき。或いは妻に子に敵に身を失いし事、大地微塵より多し。法華経の御ためには一度も失うことなし。されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉りて、其の功徳を父母に回向せん。其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなり」
 ――今夜、これより頸を切られに参るが、この数年の間願っていた事はこれである。この娑婆世界において、あるいは雉と生まれたときは鷹につかまれ、鼠と生まれたときは猫に食われ、また人と生まれても妻や子のため、あるいは敵に命を失うことはあっても、法華経のためには一度も命を捨てたことはない。されば日蓮は力なき出家の身として父母への孝養も心に足りず、国の恩を報ずべき力もない。しかし、こんど頸を法華経に奉って仏果を得れば、その功徳をまず父母に回向したい。さらにその余りは弟子檀那に分け与えるであろう――と仰せあそばす。
 理不尽きわまる死刑を前にして、何という澄み切った崇高の御心であろうか。
 四条金吾は顔も上げ得ず、ただ滂沱たる涙の中にこの仰せをお聞きした。彼はこのとき「もし大聖人の御頸刎ねられたら、その場で追い腹切って御供を……」との決意を固めていた。
 
   国家権力がひれ伏す
 
 ついに刑場・竜の口に到着した。暗闇のなかに大勢の兵士がうごめき、屯している。その中央こそ頸の座であった。これを眼前にして四条金吾は
 「只今なり」
 と泣き伏した。
 だが、大聖人は
 「不覚のとのばらかな、これほどの悦びをば笑へかし。いかに約束をば違へらるゝぞ」
 と仰せられた。
 そして悠然と頸の座に坐し、合掌し給うた。時は、闇もっとも深くして暁に移る丑寅の刻(午前三時ごろ)。
 太刀取りの越智三郎、大聖人の傍に立つ。そして大刀一閃まさに降り下されんとしたとき、思議を絶することが起きた。
 「江の島のかたより、月のごとく光りたる物、まりのやうにて、辰巳のかたより戌亥のかたへ光りわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物のひかり月夜のやうにて人々の面もみな見ゆ。太刀取り目くらみ倒れ臥し、兵共おぢ怖れ、興さめて一町計りはせのき、或いは馬よりをりてかしこまり、或いは馬の上にてうずくまれるもあり」
 突如として暗闇の中から、巨大な満月のごとき光り物が出現したのである。
 その光りがいかに強烈であったか。練達強剛の太刀取りが、眼くらんでその場に倒れ伏したのである。またその衝撃がいかに凄まじかったか。大刀がいくつにも折れてしまった。
 四条金吾はこれを眼前にしていた。後日、この金吾に下された御消息には
 「普門品に云く、刀尋段段壊(刀尋いで段々に壊れなん)。此等の経文、よも虚事にては候はじ」とある。
 頸の座を取り囲んでいた数百人の兵士たちはこれを見て、恐怖のあまり一斉にクモの子を散らすように逃げ出した。馬上の武士たちも、あるいは馬から下りて畏まり、あるいは馬上でうずくまってしまった。もう頸を切るどころではない――。
 ひとり砂浜に坐し給う大聖人は厳然と叫ばれた。
 「いかにとのばら、かかる大禍ある召人には遠のくぞ。近く打ちよれや、打ちよれや」
 だが一人として近寄る者とてない。大聖人は再び高声で叫ばれた。
 「夜あけば、いかに、いかに。頸切るべくわ急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん」
 ――夜が明けたらどうするのか。頸を切るならば早く切れ、夜が明けたら見苦しいであろう――と、死刑の催促をされたのである。
 響くは凛々たる大聖人の御声のみ。返事をする者とてない。全員が腰をぬかし、へたり込んでしまったのだ。
 まさしく国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切ることができず、その御威徳の前にひれ伏してしまったのである。
 
 かかる、凡夫の思議を絶する荘厳・崇高・威厳に満ちた光景が、この地球上において、人類史上において、果してあったであろうか。
 まさしくこの大現証こそ、日蓮大聖人が法界を自身と開覚され、久遠元初の自受用身としての成道を遂げ給うたことを示すもの。平たく言えば、「仏とはかくなるものぞ」ということを全人類に、理屈ぬきの事実で見せて下さったものである。
 
   兵士たちの帰依
 
 この始終を目のあたりにしていた兵士たちの反応はどうであったか。
 彼らは一人のこらず念仏の信者であり、大聖人を「阿弥陀仏の敵」と思いこんでいた者たちである。だから平左衛門に率いられて庵室になだれ込んだとき、憎しみのあまりあの乱暴狼藉をしたのであった。
 だがそのおり、平左衛門が臆したのを見てまず不審を感じた。次いで八幡大菩薩を叱咤されるお振舞いに度胆を抜かれ、ついに頸の座においては、腰をぬかしたのであった。
 
 夜が明けて、幕府はとりあえず、大聖人の身柄を佐渡の守護代・本間六郎左衛門の邸に預けるべく、兵士たちに送らせた。
 依智(厚木市)の六郎左衛門邸には、正午あたりに着いた。兵士たちの心には、もう敵意は完全に消え失せ、尊敬の念が湧いていた。
 大聖人は彼等の労をねぎらい、酒を取り寄せふるまわれた。やがて彼らは「帰る」とて、頭をうなだれ手を交えて、大聖人の前に進み出で言上した。
 「このほどはいかなる人にてやをはすらん。我等がたのみて候阿弥陀仏をそしらせ給うとうけ給われば、憎みまいらせて候いつるに、まのあたり拝みまいらせ候いつる事どもを見て候へば、尊とさに、としごろ申しつる念仏は捨て候いぬとて、火打ち袋より数珠とりいだして捨つる者あり。今は念仏申さずと誓状を立つる者もあり」
 ――このたびのこと、いったい貴方さまはいかなるお人なのでございましょうか。我らが信ずる阿弥陀仏をそしっていると聞いていたので憎んでおりましたが、昨夜から眼前に拝みまいらせたことなど見れば、あまりの尊とさに、これまで唱えていた念仏はもう捨てました、といって数珠を捨てる者、あるいは念仏はもう唱えませんと誓状を立てる者もいた――と。
 殺意は一変して帰依となったのだ。もう護送の兵士と罪人との関係ではない。帰依信順の衆生と御本仏との関係になったのである。
 この兵士たちの帰依信順こそ、広宣流布の瑞相である。やがて全日本人が、日蓮大聖人の大恩徳にめざめ、手を合わせて「南無妙法蓮華経」と唱えるときが必ず来る。その瑞相を、兵士たちが七百年前に示したのである。
 
 五、蒙古の責めの大現証
 
 次に「蒙古の責め」の現証を通して、日蓮大聖人の絶大威力を拝見する。まず前項と同じくそれに至るまでの経緯から説明する。
 
   佐渡流罪
 
 竜の口の衝撃は幕府に茫然自失をもたらした。大聖人の処置をどうするか決めかねたまま、幕府は約一ヶ月にわたり、大聖人を本間六郎左衛門の邸に滞留させた。そして評議を重ねた結果、ついに佐渡流罪ときまった。
 しかし遠流とは表向きで、内実は機をうかがって首を切るというのが、平左衛門の心算であった。ゆえに報恩抄には「今日切る、あす切るといひしほどに四箇年」と仰せられている。
 文永八年十月十日、大聖人は依智を発ち、同二十八日、佐渡に着かれた。御供の弟子は二十六歳の日興上人ただお一人。
 大聖人に住居として宛てられたのは、死人を捨てる塚原という山野に建つ一間四面の廃屋の「三昧堂」であった。とうてい人の住めるところではない。どれほど凄まじいところであったか。
 「上は板間あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所に敷皮打ちしき、蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪・雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給わず、心細かるべきすまゐなり」(成道御書)と。
 屋根も壁もすき間だらけ、凍るような寒風は吹きぬける、床には雪がふりつもるという有様で、ほとんど屋外と変らない。
 当時の日本は寒冷期であったから、佐渡の冬は零下二十度、三十度にまで下ったと思われる。その中で、寒を防ぐは茅で編んだ雨具の蓑一枚、食糧もない、そのうえ命を狙われている。
 「衣薄く、食ともし。(中略)現身に餓鬼道を経、寒地獄に堕ちぬ」(法蓮抄)と。
 このような寒地獄、われわれ凡夫なら三日と命はもたないであろう。
 だが大聖人は
 「あらうれしや」(成道御書)
 と仰せられた。凡夫にはとうてい出ない言葉である。
 このお言葉こそ、立宗以来の身命も惜しまぬ御修行ここに成就して、ついに「無作三身(久遠元初の本仏)の仏果」(義浄房御書)を得られた大法悦を仰せられたものである。
 そしてこの仏果を得られたのも、強敵あればこそとして
 「人をよく成すものは、方人よりも強敵が人をばよくなしけるなり。(中略)日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿(北条時宗)ましまさずんば、争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(成道御書)と。
 さらにこの成仏の大法悦を
 「我等は流人なれども、身心共にうれしく候なり。大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時々刻々にあぢはう。(中略)劫初より以来、父母・主君等の御勘気を蒙り遠国に流罪せらるゝの人、我等が如く悦び身に余りたる者よもあらじ」(最蓮房御返事)と。
 骨まで凍る極寒、飢え、そのうえ「今日切る、あす切る」という地獄のような環境で、「成仏の理をば時々刻々にあぢはう」「悦び身に余る」と仰せられる。これが、誰人も壊わし得ぬ御本仏の大境界なのである。
 
   阿仏房夫妻の帰依
 
 「アミダ仏の敵・日蓮房がこの島に流されて来た」――この噂はあっという間に佐渡中に広がった。島は念仏者で充満しており、大聖人を憎む心は鎌倉よりも激しかった。
 その中のひとり阿仏房が、ある日、塚原の三昧堂を訪れた。阿仏房は、承久の乱で佐渡に配流された順徳上皇に供奉して佐渡に住みついた北面の武士と伝えられている。文武に秀で人柄もすぐれ、島民の尊敬を集めていたが、大の念仏信者。流人の大聖人を「アミダ仏を謗る許しがたき悪僧」と思いこみ、わが手で切らんと乗りこんできたのであった。
 阿仏房は殺気をみなぎらせつつも、刀を抜く前に問うた。
 「なぜ念仏無間と悪口するのか」
 大聖人は穏かに諄々とその理由を説き示された。その明らかなる道理、犯すべからざる威厳、そして気品と慈悲を湛えた温容に接した阿仏房は、たちまちに己れの誤りに気づき、その場で念仏を捨てるのみならず、命かけての帰依を誓い奉った。
 阿仏房は家に帰るや、さっそく妻の千日尼に、日蓮大聖人に帰依したことを伝えた。もしこのことが世間に知れれば阿仏房の身が危うくなる。女人ならば夫の身を案じて引きとめて当然なのに、千日尼も夫と同じく大聖人を心から信じまいらせた。宿縁というほかはない。
 これより夫妻の献身の外護が始まった。二人は人目を忍び夜中に大聖人の庵室を訪れては、飯を供養し、大聖人の御命を継ぎまいらせたのである。千日尼へのお手紙には
 「地頭・地頭等、念仏者・念仏者等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて、通う人あるをまどわさんと責めしに、阿仏房に櫃をしおわせ夜中に度々御わたりありし事、いつの世にか忘らむ。只 悲母の佐渡の国に生まれかわりて有るか」(千日尼御前御返事)と。
 阿仏夫妻の身の危険をも顧みぬこの献身・赤誠を思えば、涙がこみ上げてくる。
 この夫妻に次いで、国府入道夫妻も入信した。さらに島民の帰依も相次いだ。官憲の厳重な制裁にもかかわらず、このような捨身の入信を見るということは、大聖人のお徳のただならぬことを示すものであろう。
 
   野外の大法論
 
 鎌倉にいる良観は、佐渡の弟子や念仏僧たちに指令を出した。アミダ仏の敵を殺せと。この指令を受けて、数百人の念仏者たちが集り謀議をこらした。
 ある者は云った。
 「音に聞こえた阿弥陀仏の怨敵日蓮房がこの国に流されて来た。この国に流されて生き延びた者はない。生き延びたとしても帰ることはできない。また殺しても咎めはない。いま日蓮房は塚原にただ一人でいる。どれほど力が強くとも、みんなで射殺そうではないか」
 ある者は
 「いずれ頸を切られることになっているが、守殿(北条時宗)の夫人がご懐妊なのでしばらく延びている」
 ある者は
 「六郎左衛門に申し出て、もし切らないといったら、その時は我々がやろうではないか」と。
 議はこれに一決した。一同そろって本間六郎左衛門の守護所に押しかけた。このさまはあたかも、囚われたる師子を猿猴の群れが蔑り嬲らんとしているごとくである。
 一同の訴えを聞いた六郎左衛門は云った。
 「上より、殺してはならぬ旨の副状が下りている。決して蔑るべき流人ではない。もし過ちを起こしたら重連の過失となる。それよりは僧侶ならば法門で攻めたらどうか」
 この本間六郎左衛門尉重連は佐渡国を知行する北条宣時の家人で、本領を相模国の依智に持ち、佐渡の新穂の地頭でもあった。竜の口法難の直後、大聖人はこの重連の邸に逗留され、佐渡塚原の三昧堂も重連の所領内にある。このことから見て佐渡における日蓮大聖人の身柄の責任者は重連であったごとくである。この重連は大聖人の御振舞いをまのあたりに拝見している。恐らく心中深く敬服していたものと思われる。そして成り行きで、この法論の司会者役をも務めるようになったのである。
 
 かくて文永九年正月十六日、野外の大法論は行われた。
 三昧堂前の山野には、佐渡だけではなく北陸・東北からも応援にかけつけた念仏・真言・天台の僧ら数百人が集まった。六郎左衛門の一家、地元の百姓・入道らもこれに加わり、さしも広い大庭も埋め尽くされた。
 諸宗の僧らは法論の始まる前から興奮し、その罵る声は雷のごとく山野に響いた。
 大聖人はしばらく騒がせたのち、大音声で叫ばれた。
 「各々、しづまらせ給へ。法門の御為にこそ御渡りあるらめ、悪口等よしなし」(成道御書)と。
 六郎左衛門も「その通り」とうなずき、そばで喚いていた念仏者の首根っこを押さえつけた。
 いよいよ数百人対一人の法論が始まる。諸僧らは口々に「自宗勝れたり」と主張した。大聖人はその一々を取り上げ、確認しては、一言・二言でこれを打ち砕かれた。その破折の鋭きこと、強烈なるさまは、あたかも
 「利剣をもて瓜を切り、大風の草をなびかすが如し」(成道御書)
 であった。彼らは、自宗の義が劣るのみならず、学問もしていない。ゆえに自語相違したり、あるいは経を論と云い、釈を論という有りさまであった。
 大聖人は道理と文証で邪義を正すのみならず、現証を以て責められた。たとえば中国・念仏の元祖の善導が柳の枝で首つって自殺を図り、大地に堕ちて苦悶の末に悪臨終を遂げたこと。さらに弘法の大妄語・たばかり等を挙げられた。
 数を頼んだ悪僧どもも、大聖人の師子吼の前についに口を閉じ、顔色を失なった。中には「念仏は間違っている」と云い出し、あるいはその場で袈裟・平数珠を捨て「もう念仏は申しません」と誓状を立てる者まで出た。
 これは一対一の法論ではない。田舎法師とはいえ、敵意に満ちた数百人が相手である。これらを閉口させたのみならず、誓状を立てる者まで出さしむるとは、大聖人の威力のほど、眼前に拝する思いである。
 法華経涌出品には、末法出現の上行菩薩の徳を讃えて
 「難問答に巧みにして、其の心畏るる所無く、忍辱の心決定し、端正にして威徳有り」
 とあるが、大聖人のお姿はこの経文を彷彿させて余りある。
 
   自界叛逆の予告
 
 法論が終わり家に帰らんとする本間六郎左衛門を、大聖人は呼び戻され、仰せられた。
 「いつ鎌倉へ上られるのか」
 六郎左衛門は
 「下人どもに農させて、七月ごろ」
 すると大聖人は
 「弓矢とる者は、主君の大事に駆けつけて所領を給わることこそ本懐ではないか。しかるに田畑つくるとはいえ、只いま鎌倉で軍が始まらんとしているのに、何をしているのか。急ぎ打ち上って手柄を立て、所領をも給わらぬか。貴殿は相模の国では名ある侍ではないか。それが田舎で田など作って大事の軍に外れたら、恥となろう」と。
 これを聞いた六郎左衛門は、何を感じたのか、あわてて物も云えなかった。そばで聞いていた念仏者や在家の者たちは「いったい何を言い出すのか」と、怪訝の顔つきであった。
 だが、翌二月の十八日、鎌倉から急使が来て「鎌倉・京で軍が起きた」と伝えた。まさに自界叛逆が勃発したのだ。しかも自界も自界、執権・時宗の兄・時輔が謀叛をおこしたのであった。
 六郎左衛門はその日の夜、一門を引き連れ鎌倉へ上らんとし、その直前、大聖人のもとに詣でた。そして手を合わせて言うには
 「どうかお助け下さいませ。正月十六日のお言葉を伺ったときには、『そんなことが……』と疑っておりましたところ、お言葉は三十日のうちに事実となりました。これを以て思えば、蒙古国も必ず来るでありましょう、念仏の無間地獄も疑いありません。もう念仏は断じて申しません」と。
 六郎左衛門は自界叛逆の的中をみて、心からの帰依に至ったのである。
 
 では、大聖人はどうして、掌を指すようなこのご断言ができたのであろうか。幕府内の状況などを知り得るお立場にはない。では、どうしてか――。
 それは、諸天、なかんずく日天・月天に「申し付け」給うたことによる。撰時抄にはかく仰せられている。
 「日月、天に処し給いながら、日蓮が大難にあうを今度かわらせ給はずば、一つには日蓮が法華経の行者ならざるか、忽ちに邪見をあらたむべし。若し日蓮法華経の行者ならば、忽ちに国にしるしを見せ給へ。若ししからずば、今の日月等は釈迦・多宝・十方の仏をたぶらかし奉る大妄語の人なり、提婆が虚誑罪・倶伽利が大妄語にも百千万億倍すぎさせ給へる大妄語の天なりと、声をあげて申せしかば、忽ちに出来せる自界反逆の難なり」と。
 日・月天はもろもろの諸天善神とともに、法華経の会座において釈迦仏に、末法の法華経の行者を守り奉るとの誓いを立てている。しかるに大聖人が大難にあうを見ても国を罰しない。もし大聖人を「末法の法華経の行者」と思うなら、「忽ちに徴を見せよ」と申し付けられている。さらに、もし徴を見せないのであれば、今の日・月等は釈迦仏等をたぶらかす大妄語の天であると「声をあげて」叱責された。その結果として、たちまちに起きた「自界叛逆の難」なのである。
 まさしく下種の御本仏なればこそ、日・月天をこのように叱責することができ、掌を指すごとくのご断言も、よくなし得給うのである。
 
   開目抄
 
 野外の大法論があった翌二月、大聖人は「開目抄」と題する長文の御書をしたためられた。
 「今日切る、あす切る」という身辺危険のなか、雪に埋もれた三昧堂の中で、蓑を着てのご執筆である。
 開目とは、目を開き見さしめるの意である。何を見さしめ給うのかといえば、いま佐渡雪中にまします日蓮大聖人こそ、三世十方の諸仏の本源たる久遠元初の自受用身にして、末法の一切衆生の主・師・親であることを、見さしめ給うたのである。
 この開目抄の文意については、大聖人御自身が次のごとく示されている。
 「去年の十一月より勘へたる、開目抄と申す文二巻造りたり。頸切らるゝならば日蓮が不思議とどめんと思ひて勘へたり。此の文の心は、日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へば宅に柱なければたもたず、人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり、平左衛門既に日本の柱を倒しぬ。只今世乱れてそれともなくゆめの如くに妄語出来して此の御一門同士討ちして、後には他国よりせめらるべし」(成道御書)と。
 「日蓮が不思議」とは、日蓮大聖人こそ末法出現の久遠元初の自受用身であられるということである。そして開目抄は
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
 の意を顕わした書であると仰せられている。たとえば家に柱がなければ家はもたず、人に魂がなければ死人であるように、日蓮大聖人こそ日本国の柱であり、日本の人の魂である。しかるに平左衛門は大聖人の頸を刎ねた、日本国の柱を倒した。よってたちまちに自界叛逆の難がおこり、後には必ず他国からせめられるであろう――と。
 久遠元初の御本仏・末法全人類の主・師・親であられればこそ、もし怨をなせば諸天これを許さず、よって人も亡び国も亡ぶのである。この重き重き御境界を
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
 と仰せられているのである。
 さらに大聖人は翌文永十年四月に、御自ら「日蓮当身の大事」と仰せられた「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という重要な御書を著わされている。この御書は、大聖人がご図顕された「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」の御本尊こそ十方三世の諸仏・諸経が生じた根源の法体であり、末法全人類の成仏の対境であることを明かされた、最も甚深といわれる御書である。
 
   佐渡より帰還
 
 月日が経つにつれ、大聖人のご威徳は佐渡中に知れわたり、帰依入信する者が増えてきた。これを見て念仏僧たちは大いにあせり、対策を協議した。
 「かうてあらんには我等餓へ死ぬべし、いかにもして此の法師を失はばや」(成道御書)――このままでは我らは飢え死にしてしまう。何とかこの法師を殺さなくては――と。
 かくて代表が鎌倉の武蔵守宣時に訴え出た。この宣時は本間六郎左衛門の主であり、良観とも深く通じていた。宣時は訴えを聞き入れ、私の下文すなわち虚偽の命令書を文永十年十二月七日に下した。その状には
 「佐渡国の流人の僧日蓮、弟子等を引率して悪行を巧むの由、其の聞こえ有り。所行の企て甚だ以て奇怪なり。今より以後、彼の僧に相随わんの輩においては炳誡を加へしむべし」
 とあった。「弟子等を引率して悪行を巧む」とは、良観の入れ智恵と思われる。さらに二度目の下文には
 「国中のもの日蓮房につくならば、或いは国を追い、或いは牢に入れよ」と。
 このような命令書の下ること三度。かくて、「庵室の前を通れり」といっては牢に入れ、「日蓮房に物をまいらせた」といっては佐渡から追放するという理不尽な弾圧が行われた。
 だが、この下文の一・二ヶ月後、宣時や悪僧どもの頭ごしに、執権・北条時宗が直々に赦免の決断を下した。幕府内に多くの反対渦まく中での決断であった。
 時宗はいったんは讒言を信じて「流罪」としたが、その後、大聖人に一分の科もないことを知った。それだけではない。大聖人のご断言のごとくに自界叛逆が起きた。これを見れば蒙古の襲来も疑いない。この恐怖が時宗の心を動かし、赦免の決断となったのである。
 「日蓮御勘気の時申せしが如く同士討ちはじまりぬ。それを恐るゝかの故に、又召し返されて候」(妙法比丘尼御返事)と。
 ゆえに、時宗が「許した」のではない。大聖人が諸天に申し付けて、これをなさしめ給うたのである。最蓮房御返事には
 「鎌倉殿はゆるさじとの給ひ候とも、諸天等に申して鎌倉に帰り……」とある。
 かくて佐渡流罪は二年六ヶ月で終わった。「生きて帰った者はない」といわれた佐渡から、大聖人は堂々の還御をあそばしたのである。
 
   最後の諫暁
 
 大聖人は再び鎌倉に入られた。平左衛門に最後の諫暁をなさるためである。平左衛門は国家権力者として大聖人を斬罪にし、佐渡へ流罪した張本人。この大科により国は亡んで当然である。しかしいま一度、平左衛門に申し聞かせて国を救わんとの大慈悲であられた。
 「此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて、日本国にせめ残されん衆生をたすけんがために、のぼりて候いき」(高橋入道殿御返事)と。
 そして不思議にも、幕府のほうから大聖人に招きがあった。
 文永十一年四月八日、大聖人は殿中において幕府の首脳と対面された。その空気は、前とは打って変わる。
 あれほど大聖人を憎み斬罪まで行なった平左衛門が、威儀をやわらげ、礼儀をただし、大聖人を迎えたのである。居ならぶ面々も辞を低くして、ある者は念仏を、ある者は真言を、ある者は禅宗をと、こもごも問いたずねてきた。平左衛門は「爾前経(法華経以前の諸経)で成仏が叶うかどうか」と質問してきた。
 大聖人はその一々に、経文を引いて答えられた。そして平左衛門に対し
 「王地に生まれたれば、身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑いなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事、真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべし」(撰時抄)
 と強々と言い切られた。「聖人は言をかざらず」という、諂わないのである。ただ国のため、一切衆生のために真実を仰せられる。平左衛門は念仏を信ずるのみならず、深く真言宗に傾倒していた。よって真言師を用いて蒙古調伏することが、亡国をより早めることになると、強く諫められたのである。
 しかし平左衛門は怒りをあらわさなかった。そして時宗の意を受けてのように、重大な質問をした。
 「大蒙古はいつか渡り候べき」――大蒙古はいつ襲来しましょうか――と。
 大聖人は厳かに答えられた。
 「経文にはいつとは見へ候はねども、天の御気色いかり少なからず、急に見へて候。よも今年は過ごし候はじ」
 ――経文にはいつとは書かれてないが、諸天の怒りはただならず、急を告げている。よも今年を過ぎることはないであろう――と。この年はあと八ヶ月しかない。その間に「必ず蒙古は押し寄せてくる」との御断言である。どうしてこのような御断言がなし得るのであろうか。そのことは後に述べる。重ねて大聖人は
 「それにとっては、日蓮已前より勘へ申すことをば御用いなし。譬へば病の起こりを知らざらん人の病を治せば、弥病は倍増すべし。真言師だに調伏するならば、弥此の国軍に負くべし」
 とて、後鳥羽上皇が真言の大祈祷をしてかえって北条義時に敗れた現証を挙げられ、もし真言師を用いるならば国必ず亡ぶことを言い切られた。そしてさらに
 「さ言はざりけると仰せ候な、としたたかに申し付け候いぬ」――そうは言わなかったと仰せになってはいけないと、強く申し付けた――と。
 なんという強きお諫めであろうか。このとき大聖人は佐渡から帰ったばかりの御身である。ここでもし平左衛門の逆鱗に触れれば、再び佐渡に流されるかもしれない。そうなれば今度こそ、御命にも及ぶかもしれない。しかるに、いささかも権威を恐れず、へつらわぬこの御振舞い。まさに厳父が悪子を誡めるに似ている。
 だがこの悪子、大聖人の最後の諫めをも無視して、折からの旱魃に、真言師の阿弥陀堂法印を用いて祈雨を命じた。平左衛門の真言への執着はまさに「毒気深入」であった。
 
   鎌倉を去る
 
 ついに大聖人は鎌倉を去り、深山の身延に入り給うた。
 「本より存知せり。国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし。用いずば山林に身を隠さんと思ひしなり」(下山抄)と。
 
 大聖人が諫暁をやめて去り給うということは、重大な意味を持つ。それは、いよいよ蒙古の責めが事実となるということである。
 「事、三箇度に及ぶ、今は諫暁を止むべし。後悔を致すこと勿れ」(未驚天聴御書)と。
 大慈大悲の御本仏に対し日本国は、二度も流罪し頸まで刎ね奉った。この大科により、すでに国は亡んで当然なのに「いま一度平左衛門に申しきかせて」と、大聖人は第三度の諫暁がおわるまで、諸天を抑えておられたのである。ゆえに
 「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども、且く禁めをなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、法に過ぐれば罰あたりぬるなり」(成道御書)と。
 諸天の治罰により国の亡ぶことは疑いなきところであるが、大聖人がしばらくこれを禁じ「国を助け給え」と諸天を抑え引きとどめればこそ、今まで安穏であった。しかし限度を超えれば罰が当る――と仰せられる。
 いま大聖人が諫暁を止め鎌倉を去られたことは、まさしく諸天への「禁め」がいよいよ解かれたことを意味する。
 このように、諸天を抑えそして命ずるの御境界であればこそ、平左衛門に対し
 「よも今年は過ごし候はじ」
 の御断言を、よくなし得給うのである。
 
   大蒙古ついに襲来
 
 大聖人のご断言は寸分も違わなかった。この年(文永十一年)の十月、大蒙古の軍兵は日本に押し寄せて来た。その兵力は二万五千人、軍船は九百余隻。戦闘は凄惨をきわめた。
 「十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに、宗総馬尉逃ければ、百姓等は、男をば或いは殺し或いは生取にし、女をば或いは取り集めて手を通して船に結い付け、或いは生け取りにす。一人も助かる者なし」(一谷入道御書)
 最初に襲われた対馬では、守護代の宗総馬尉が逃げてしまったので、残った島民たちの男は殺され生け取りにされ、女は手に縄を通されて舷に並べ吊るされ、あるいは生け取りにされた。
 次いで壱岐も襲われた。ここでも鎮西奉行の大友入道、豊前前司の少貮資能らの武将は逃げおち、松浦党は惨殺され、農民たちは対馬と同じ悲惨を味わった。
 勢いに乗じた蒙古軍はいよいよ博多に上陸した。日本軍は博多・箱崎を放棄して退却を重ね、太宰府までも破られた。
 蒙古軍は世界最強の軍団である。その戦法は、日本軍が初めて目にする火薬が炸裂する鉄炮を用いての集団戦法だった。勝手の違う軍に日本軍は苦戦を強いられた。
 もし二万五千の全軍が本格的侵攻を始めたら、九州全土も危うしと見られた。
 だが、太宰府まで攻め破った蒙古軍は、どうしたわけか、その日のうちに全軍が軍船に戻った。そしてその夜、大暴風雨があり、本国に引き揚げてしまったのである。
 何とも不思議な侵攻である。壱岐・対馬の殺戮で日本国中を震えあがらせただけで、大規模な殺戮はせずに、さっと引き揚げている。この奇妙な侵略こそ、大聖人の御化導を助けまいらせる諸天の治罰をよくよく物語っている。
 しかし国中の人々は、この殺戮が全土におよぶと脅え切った。
 「雲の見うれば旗かと疑い、つりぶねの見ゆれば兵船かと肝心を消す。日に一二度山へのぼり、夜に三四度馬に鞍を置く、現身に修羅道を感ぜり」(兄弟抄)
 また
 「当世の人々の蒙古国をみざりし時のおごりは、御覧ありしやうにかぎりもなかりしぞかし。去年の十月よりは一人もおごる者なし。きこしめしゝやうに、日蓮一人計りこそ申せしが、よせてだにきたる程ならば面をあはする人もあるべからず。但猿の犬ををそれ、蛙の蛇ををそるゝが如くなるべし。是れ偏えに、釈迦仏の御使たる法華経の行者を一切の真言師・念仏者・律僧等ににくませて、我と損じ、ことさらに天のにくまれを蒙れる国なる故に、皆人臆病になれるなり」(乙御前御消息)と。
 日本は四方を海で囲まれている。この海を渡ってどこの国が攻めてこようかとは、皆の思うところ。そのうえ大聖人への強き怨嫉もある。ゆえに「他国侵逼などあり得ない」とのおごりは限りもなかったのである。だが驕れる者ほど、事の起きたときには脅え、臆病となる。日本国においてこの「他国侵逼」を断言されていたのは、ただ日蓮大聖人御一人であられた。
 
   熱原の法難
 
 しかしこの蒙古の責めを見ても、良観・道隆・念阿をはじめ、諸宗の僧侶たちの怨嫉の炎は消えなかった。彼らは大聖人の御威徳には恐れを懐いたものの、こんどはその怨嫉の刃を、大聖人を信ずる弟子・檀越に向けた。
 ここに有力信徒に次々と迫害がおきてきた。中でも弘安二年には、富士熱原地方で日興上人の弘通により入信した多くの農民たちに対し、理不尽・苛酷なる弾圧が行われた。
 この熱原の法難は重大な意義を持っているので、少々説明しておきたい。
 熱原の農民たちは、いずれも入信わずか一年ほどであったが、日興上人のご教導により、日蓮大聖人を御本仏と一筋に信じまいらせ、「法華講衆」と名乗って純粋な信心に励んでいた。
 この法華講衆の信仰を潰滅させんとした地元の悪僧を平左近行智という。平左衛門の縁戚であった。彼は熱原の農民を誣告して官憲に捕縛させ、鎌倉へ押送せしめた。捕えられた法華講衆は神四郎以下の二十名。そしてこの取り調べに当ったのが、なんと当時天下の棟梁・幕府内の最高実力者、平左衛門尉頼綱であった。
 なぜ彼がこのような些事に関わったのか。それは、日蓮大聖人を信ずる農民たちを退転させ、大聖人を辱めることだけが目的であった。
 頼綱は自邸の庭に二十人を引きすえ、直ちに威嚇した。
 「汝等、日蓮房の信仰を捨て、念仏を唱えよ。さすれば郷里に帰さん。さもなくばその頸を刎ねん」
 一も二もなく農民たちは平伏し命乞いをするとばかり彼は思った。――だが、その卑しき予想は覆った。
 二十人は一人として臆することなく、一死を賭して「南無妙法蓮華経」と唱え奉り、もって答えに替えたのである。
 法華講衆の死をも恐れぬこの気魄に、平左衛門は顔面蒼白となった。このとき彼の脳裏に浮んだのは、八年前の竜の口における大聖人の師子王のごとき御気魄であった。
 気圧された思いは、やがて憤怒に変わる。何としても念仏を唱えさせんと、彼は次男の飯沼判官に命じて蟇目の矢を射させた。蟇目の矢とは、くりぬいた桐材をやじりとした鏑矢で、威しに用いたのである。
 判官の放つ矢は、容赦なく一人ひとりを嘖む。そのたびに頼綱は「念仏を唱えよ」と責め立てた。
 しかし一人として退する者はない。かえって一矢当るごとに唱題の声は庭内に高まった。
 あまりのことに平左衛門は蟇目を中止させた。そして法華講衆の代表、神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を引き出し――ついにその頸を刎ねたのであった。
 だが平左衛門は、熱原の法華講衆の肉体は壊わせても、日蓮大聖人を信じ奉る信心は壊わせなかった。法華講衆の「一心に仏を見奉らんと欲して自ら身命を惜しまず」の信心は、国家権力に打ち勝ったのである。
 「師子王は百獣に怖ぢず、師子の子又かくのごとし」(出世本懐成就御書)と。
 大聖人は竜の口のとき、絶大威力をもって国家権力をひれ伏させ給うた。そしていま熱原の農民は、大聖人に南無し奉る信心をもって、国家権力の威しに勝ったのである。
 大聖人はかかる法華講衆の出現を、未来日本国における広宣流布の先序・瑞相とおぼしめされ、神四郎等法華講衆を「願主」として、出世の本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を御図顕あそばされた。この大御本尊こそ、広宣流布の暁に一国の総意をもって建立される「本門戒壇」に安置し奉るべき、最も大事の御本尊である。
 
   蒙古 再度の責め
 
 さて、泥酔の者が痛みを感じないように、謗法の毒気深き者は罰を罰と感じない。第一回の蒙古の責めを受けてなお改悔なき人々を見て、大聖人はその年に著わされた顕立正意抄に
 「今年既に彼の国災兵の上、二箇国(壱岐・対馬)を奪い取る。設い木石たりと雖も、設い禽獣たりと雖も感ずべく驚くべきに、偏えに只事に非ず。天魔の国に入って酔へるが如く狂えるが如し。歎くべし、哀むべし、恐るべし、厭うべし」
 さらに云く
 「又立正安国論に云く『若し執心翻らず亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん』等云云。今符合するを以て未来を案ずるに、日本国の上下万人阿鼻大城に堕せんこと大地を的と為すが如し」と。
 大聖人の最も不憫とおぼしめされるはこの「後生の無間地獄」である。ここに大聖人は、再度の蒙古の責めを以て改悔させ、無間地獄の大苦を今生に消せしめんとおぼしめされた。
 「後生はさてをきぬ。今生に、法華経の敵となりし人をば梵天・帝釈・日月・四天罰し給いて、皆人に見懲りさせ給へと申しつけて候。日蓮、法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし。かう申せば、国主等は此の法師の威すと思えるか。あへて憎みては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」(王舎城事)と。
 また撰時抄には
 「いまにしもみよ。大蒙古国 数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで、一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて『南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経』と唱へ、掌を合わせて『たすけ給へ日蓮の御房・日蓮の御房』とさけび候わんずるにや。(中略)今日本国の高僧等も『南無日蓮聖人』ととなえんとすとも、『南無』計りにてやあらんずらん。ふびん、ふびん」と仰せられている。
 さらに熱原の法難が巻きおこらんとする弘安二年八月には
 「蒙古の事、すでに近づきて候か。我が国の亡びん事はあさましけれども、これだにも虚事になるならば、日本国の人々いよいよ法華経を謗じて万人無間地獄に堕つべし。彼だにも強るならば、国はほろぶとも謗法はうすくなりなん。譬へば灸治をして病をいやし、針治にて人を治すがごとし。当時は嘆くとも後は悦びなり」(蒙古事)と。
 そしてこの翌々月、平左衛門は熱原の法華講衆の頸を刎ねたのであった。このとき大聖人は、法華講衆の安危を憂えて鎌倉に上っていた日興上人に対し、平左衛門に最後に申し付けよと、次のごとく指示された。
 「去ぬる文永の御勘気の時、乃 聖人の仰せ忘れ給うか。其の殃未だ畢らず。重ねて十羅刹の罰を招き取るか。最後に申し付けよ」(聖人等御返事)と。
 ――竜の口の時に大聖人が平左衛門に仰せられた自界叛逆・他国侵逼の殃はまだおわってない。重ねてその大罰を招き取るか――と、大叱咤されたのである。
 この御断言、また寸分も違わず、この一年七ヶ月後の弘安四年五月、大蒙古は重ねて日本に押し寄せてきた。
 今度の襲来はその規模の大なること、前回とは比較にならなかった。蒙王フビライは前回の経験をふまえ、今度こそ日本全土を蹂躙して属領にせんと、入念の態勢を整えてきた。
 その兵力は実に十四万二千人で前回の約六倍、軍船は四千四百隻。空前の大軍である。まさに「今度寄せなば、先にはにるべくもなし」との大聖人の仰せのとおりであった。
 蒙古軍は江南軍と東路軍に分かれて襲来した。まず東路軍の尖兵が対馬・壱岐を襲う。肥前の松浦党の将兵は応戦したが忽ちに敗退。蒙古兵は前回と同じように、島民に残虐の限りをつくした。
 京都でこの報を聞いた公卿の勘解由小路兼仲は、その恐怖を日記に「怖畏のほか、他になし」と記している。この大規模の兵力を見ては、公卿も武家もみな、必ず京・鎌倉まで侵略されるものと震え上がったのである。
 対馬・壱岐を侵した東路軍は、主力の江南軍と合流すべく平戸島の沖で待ち、やがて両軍は合体した。総兵力十四万二千・四千四百隻の大艦隊は、海を覆って平戸から鷹島へと東進した。
 いよいよ本土進攻である。
 七月二十七日、先発隊が鷹島に上陸し、続いて本隊が上陸準備に入った。この上陸が完了して本土への侵攻が始まったら――日本は必ず亡びる。
 だが、その準備の最中、七月三十日の夜半から吹き始めた暴風雨は次第に激しさを増して翌日まで荒れ狂い、多くの軍船が破損してしまった。またしても大蒙古の軍兵は、大風によって撤退を余儀なくされたのであった。
 なんという不思議の侵略か。兵力の上からいえば、日本はこのときすでに亡んだのである。大聖人の「国必ず亡ぶべし」の御断言は少しも違わず、日本を亡ぼすに足る軍兵は押し寄せたのであった。
 しかし、亡んで亡びなかったのは実に大聖人の御守護による。諸天に申し付けて蒙古の責めを起こさせたのも大聖人なら、諸天に申し付けてこの国を守護して下さったのも大聖人であられる。下種御本仏の絶大威力とはかくのごときものである。
 まことに「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(開目抄)の御誓願のなんと堅固なる、大慈大悲のなんと深厚なる、ただ低頭合掌のほかはない。
 
 ちなみに、平左衛門は熱原の神四郎等の頸を刎ねた十四年後、謀叛が発覚して誅戮されている。その場所も法華講衆を責めた自邸の庭、しかも己れ一人ではなく、法華講衆を蟇目の矢で射た次男の飯沼判官も共に頸を刎ねられた。まさに「重ねて十羅刹の罰を招き取るか」の仰せのままの現罰であった。
 
  六、「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
 
 以上「竜の口」と「蒙古の責め」の大現証を通して日蓮大聖人の絶大威力を拝見してきたが、大聖人の「申し付け」に応じて諸天善神の感応することは、まさに響きの声に応ずるごとくである。この事実を見るとき、誰人が諸天善神の存在を否定できようか。
 振り返ってみよう。
 大聖人は竜の口のときには八幡大菩薩に対し
 「いかに八幡大菩薩はまことの神か。……いそぎいそぎ御計いあるべし」
 と叱責のうえ、速かに守護すべきを申し付けられている。そしてその直後、あの大現証があったのである。
 次に佐渡では、日天・月天に対し
 「忽ちに国にしるしを見せ給へ」
 と命ぜられ、これまた忽ちに自界叛逆が起きている。この諸天の働きによって佐渡からのご帰還が実現したことは「鎌倉殿(時宗)は許さじとの給ひ候とも、諸天等に申して鎌倉に帰り……」の仰せに明らかである。
 次に、平左衛門への最後の諫暁のときには
 「天の御気色いかり少なからず急に見へて候。よも今年は過ごし候はじ」
 と断言し給うたが、その六ヶ月後、蒙古は襲来している。これまた大聖人の「申し付け」によることは
 「法華経の敵となりし人をば、梵天・帝釈・日月・四天罰し給いて、皆人に見懲りさせ給へと申しつけて候。日蓮 法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし」(王舎城事)の仰せに明らかである。
 次に、再度の蒙古の責めがあることを、撰時抄には
 「いまにしもみよ。大蒙古国 数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば……」
 と予言され、さらに平左衛門に対しては
 「其の殃未だ畢らず、重ねて十羅刹の罰を招き取るか」
 と叱咤されたが、この仰せまた寸分も違わず、それより一年七ヶ月後、日本を亡ぼすに足る大軍船は九州の海を蔽ったのである。
 
 まことに、日蓮大聖人が諸天を随えそして申し付け、以て逆謗の末法の一切衆生を救済される尊いお姿、いま眼前に拝する思いである。
 日蓮大聖人を諸天善神が敬い衛護するさまを下種本仏成道御書には
 「天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて、地に伏し給うべき事なり」「梵釈 左右に侍り、日月 前後を照らし給う」と仰せられている。
 かかる大境界なればこそ、諸天に申し付けて賞罰を行い、以て一切衆生を化導することができるのである。ゆえに大聖人に背けば人も国も亡び、帰依信順するならば人も国も安泰となる。この絶大威力を
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と示し給うのである。

 第二章 亡国の二因

 
 日蓮大聖人の御入滅よりすでに七百二十余年。なぜ、いま日本は亡びんとしているのであろうか――。その原因は二つある。
 一には、日本一同の仏法違背である。
 この国に久遠元初の御本仏出現して、一切衆生を仏に成さんと大慈悲を以て三大秘法を弘め給うに、日本国一同はかえって怨をなし、二度も流罪し御頸まで刎ねんとした。この大罪は在世・滅後にわたって遁れがたい。しかるところ、七百年を経てなお日本一同は日蓮大聖人を信ぜず背き続けている。仏法もしまことならば、どうして国の亡びぬことがあろうか。
 「用いずば国必ず亡ぶべし」(成道御書)とはこれである。
 二には、創価学会の仏法違背である。
 創価学会は、日蓮大聖人の仏法を継承する唯一の正系門家・富士大石寺(法人名・日蓮正宗)の信徒団体であった。ところが池田大作第三代会長(現名誉会長)は政治野心のゆえに、日蓮大聖人の唯一の御遺命たる「国立戒壇」を否定し、俄に建てた「正本堂」を御遺命の戒壇と偽った。このことは日蓮大聖人に対する許されざる背反行為である。
 かかる仏法違背の団体が、今や自民党を背後から操り国政を動かすに至っている。どうして国の亡びぬことがあろうか。
 「日蓮を用いぬるとも、悪しく敬はば国亡ぶべし」(成道御書)とはこれである。
 
 それぞれについて、詳しく説明する。
 
 一、日本一同の仏法違背
 
 日蓮大聖人は滅後の一切衆生を憂えられ、全人類成仏の大良薬として「本門戒壇の大御本尊」を留め置かれ、これを御弟子・日興上人に付嘱された。この大御本尊は、日興上人から日目上人へと次第相伝され、いま富士大石寺の宝蔵に秘蔵されている。
 そして将来、日本国中が日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱える広宣流布の時いたれば、国家意志の正式表明を経て本門戒壇を建立し、この「本門戒壇の大御本尊」を安置し奉るべし――というのが、日蓮大聖人の御遺命である。
 このとき日本は御本仏を国の魂とするゆえに「仏国」となる。この仏国は衰微せず三災七難もなく真に安泰となる。これが立正安国の実現である。
 しかし、日蓮大聖人に背き続けている間は、国土の災害と国内の争乱・他国の脅威は年を追って激しくなり、ついには亡国の大罰を受けるに至る。そして今が、まさしくその前夜なのである。
 
   「自他の叛逆 歳を逐って蜂起せん」
 
 日蓮大聖人の滅後、二祖日興上人は御遺命を奉じて幾たびも鎌倉幕府あるいは京都朝廷に対し、早く謗法を捨てて三大秘法を立て国を安泰にすべしと、諫状を上呈されている。その中の一つ、元徳二年の幕府への諫状を拝見すれば
 「日蓮聖人の弟子日興、重ねて言上。早く爾前迹門の謗法を対治し、法華本門の正法を立てらるれば、天下泰平国土安全たるべきの事。(中略)所詮、末法に入って法華本門を建てられざるの間は、国土の災難日に随って増長し、自他の叛逆歳を逐うて蜂起せん」とある。
 「法華本門の正法」とは、大聖人が留め置かれた三大秘法のことである。所詮末法においては、日蓮大聖人の三大秘法を立てない間は、国土の災害は日を追って増大し、自界叛逆・他国侵逼の兵乱は年を逐って激しくなるであろう――と指摘されている。
 このご指摘の正しいことは、大聖人ご入滅より今日までの七百年の歴史が証明している。
 まず鎌倉幕府は、蒙古襲来に備えての経済疲弊が内紛を誘発し、自界叛逆を重ねたのち、五十年で滅亡した。次いで後醍醐天皇親政の「建武の中興」を迎える。このとき第三祖・日目上人は諫状を奏上されたが、真言密教に執着していた帝はこの諫暁を用いず、ために建武の中興はわずか三年で崩壊している。
 以後、国内の自界叛逆はいよいよ深刻の度を増す。まもなく朝廷が分裂して南北両朝の時代となった。日本に二人の天皇が並立したのである。史上曽ってないこの異常事態は、国内を二分して動乱を招き、天下は麻のごとくに乱れた。
 やがて応仁の乱(一四六七年)を機として戦国時代が始まる。群雄割拠して、文字どおり血を血で洗う殺戮が日本全土を覆った。このような凄惨かつ大規模な内戦が百年以上も繰り広げられたということは、日本の歴史に未だ曽ってない。
 次いで信長・秀吉の覇権闘争の時代を経て、江戸時代となる。
 江戸時代は一見、争乱なき時代のごとくに見えるが、内実は武力による圧伏であるから、叛乱・一揆が絶えずおきている。また国土の災害が多かったことも特筆に値する。ことに明和・安永・天明・寛政より幕末にいたるまでの異変・災厄は史上稀れにみるところである。コレラの大流行、各地の火山爆発、大火、大水、農民二十万が蜂起した伝馬騒動など大規模な百姓一揆の続発、天明・天保の大飢饉、天明の大飢饉では仙台藩だけで餓死者が四十万人を数えたという。また諸国には残虐なる賊が跋扈跳梁した。
 そして幕末の嘉永六年から安政二年の三年間に、小田原地震・安政東海地震・安政南海地震・安政江戸地震と、四つの巨大地震が連発した。この大地動乱は江戸幕府の崩壊と、日本がいよいよ他国の脅威にさらされる時代に突入することを告げる号鐘であった。
 折から欧米列強はアジアに植民地を求めて侵略を開始してきた。アジア諸国が次々と植民地化される中、日本はこの外圧に抗した。
 ここに明治・大正・昭和にわたって、外国との戦争が起きる。明治には日清戦争・日露戦争が、大正には第一次世界大戦が、昭和に入ってからは満州事変・日中戦争・太平洋戦争と相次ぎ、ついに昭和二十年、日本はアメリカに打ちのめされて敗れる。太平洋戦争の犠牲者は三百数十万人といわれる。まことに痛ましい限りである。
 このように七百年の歴史を大観すれば、大聖人滅後より幕末までの五百数十年は自界叛逆(内戦)の時代であり、明治より敗戦までの百数十年は他国侵逼の時代であったことがわかる。
 まさしく日興上人・日目上人の諫状の「自他の叛逆 歳を逐うて蜂起せん」の仰せのままである。
 
   「前代未聞の大闘諍」は迫る
 
 そしていま日本は敗戦より六十年を迎えた。この間の安逸によって平和ボケした日本人は、この平和がいつまでも続くかのように錯覚した。だがこの平和は、アメリカの庇護のもとの属国的安逸であった。
 戦勝国アメリカが日本に与えた憲法は、主なき国を作るために「国民主権」を謳い、また「平和主義」の名のもとに戦力までも放棄させている。これは占領政策の一環として、国家としての自立を許さぬ憲法であった。かくて「国民主権」によって欲望民主々義が横行し、「戦力放棄」によって米国に国防を依存せねばならぬ国となったのである。ところが愚かな日本人は、この憲法を金科玉条・不磨の大典として有難がり、六十年ものあいだ、守り続けてきたのである。
 だが、国際状勢の変化はこの「属国の安逸」を大きく揺さぶり始めた。北朝鮮・中国の脅威、アメリカの要請によるイラク派兵、国際テロ組織の脅迫、日本は戦後六十年、はじめての大きな曲り角に立たされた。
 この国際状勢の変化で政治家たちも憲法の欠陥に気づき、これまでタブーとされてきた改憲論議をするようになった。しかし亡国の根本原因を知らぬ論議は、とりとめなき言葉あそびに終わるであろう。
 
 詮ずるところ、日蓮大聖人に背き続けている間は、他国侵逼の大難は年を追って深刻さを増し、ついには亡国にいたるのである。
 大聖人は、日本の人々が背き続けての最終段階、すなわち広宣流布の前夜には
 「前代未聞の大闘諍、一閻浮提に起こるべし」(撰時抄)――未だ曽てない大戦争が世界的規模でおこる――と予言されている。
 世界大戦はすでに二度おきているが、第一次世界大戦も第二次世界大戦も、未だ大聖人仰せの「前代未聞の大闘諍」には当らない。第一次大戦の戦場は主としてヨーロッパであり、兵器は初期の毒ガスと戦車であった。第二次大戦は南極大陸を除いたすべての大陸が戦場となり文字どおり世界を巻きこんだ。兵器も航空機と戦車が発達し、戦争末期には原子爆弾も登場した。しかしこれもまだ「前代未聞の大闘諍」ではない。
 では「前代未聞の大闘諍」とは、いかなる戦争なのか――。それは人類の最終戦争を意味する。すなわちいま起こらんとしている第三次世界大戦こそ、それに当ろう。
 現在、世界に拡散しつつある核・生物・化学の大量破壊兵器は、すでに人類を絶滅させる破壊力を持っている。もしこれを用いての地球規模の戦争が起これば、まさしく「前代未聞の大闘諍」ではないか。
 この大闘諍の序は、すでに始まっている。二〇〇一年九月十一日午前八時四十五分、アメリカ本土を襲ったイスラムのテロこそ、それである。このテロを受けてアメリカは本土防衛のためにアフガンを攻略し、イラクへ兵を進めた。そしてフセイン政権は倒したが、反米テロの嵐は収まるどころか、「国土に悪鬼乱入して……」のごとく、中東から世界へと広がりつつある。
 テロリストが大量破壊兵器を手にするとき、超大国アメリカといえども一時に危殆に瀕する。この恐怖が、アメリカをしてテロリストおよびその支援国への攻撃をなさしめている。この戦争は、米国の一極集中に抗する世界のテロリストおよび多くの国々を相手とするから、長期にわたり、かつ次第に拡大する。そして最終的には、米中の対決となること疑いない。この「前代未聞の大闘諍」の大渦に、日本は必ず巻き込まれる。いまのイラク派兵などその一歩であろう。そして米中対決のとき、日本はいよいよ他国侵逼の大難に襲われるのである。
 その前相には必ず巨大地震が起こる。まもなく幕末の巨大地震連発を凌ぐ小田原・東海・首都圏直下・東南海・南海等の巨大地震が連発するであろう。この大地の咆哮こそ、日本が他国に襲われて亡びるの号鐘である。
 日蓮大聖人に背き続けて、いつまでも国のもつべき道理はないのだ。
 
   諸天は忘れず
 
 御在世の大現証を見よ。
 「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで、之を軽毀して刀杖を加え流罪に処するが故に、梵と釈と日月・四天、隣国に仰せ付けて之を逼責するなり。(中略)設い万祈を作すとも、日蓮を用いずば必ず此の国、今の壱岐・対馬の如くならん」(聖人知三世事)と。
 しかるに七百年を経ても、日本国一同は未だ改悔なく、日蓮大聖人に背き続けている。どうして梵釈・日月・四天等の諸天がこれを許そうか。諸天は七百年前、この国の王臣万民が竜の口で御本仏の頸を刎ね奉らんとした大逆罪を見ている。佐渡へ流して凍・餓死せしめんとしたのを見ている。この大罪をどうして忘れようか。
 四王天の一日一夜は人間の五十年である。されば七百三十三年前の「竜の口」は、四王天にとってはわずか十四日、梵天・帝釈にとっては昨日の出来事でしかない。たとえ凡夫は忘れるとも、どうして諸天が忘れようか。時来たれば必ずこの国を罰して大聖人の化導を助けまいらせる。
 「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」(上野殿御返事)とはこれである。すなわち背き続けた最終段階に、梵天・帝釈等の治罰によって他国の責めがおこり、このとき初めて日本一同、心から日蓮大聖人を信じ南無妙法蓮華経と唱えるにいたるのである。
 戦後六十年の平穏は次の大戦乱への踊り場であり、それは一国の仏法違背・謗法を知らせる人なきゆえの、罰の潜伏期間だったのである。ゆえに報恩抄には
 「謗法はあれども、あらわす人なければ国も穏かなるににたり」と。
 平成九年の大彗星を見て、私は「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」の一書を著わし、日本の人々に広く告げ知らしめた。――その翌十年八月、北朝鮮のテポドンは日本列島の上空をかすめて三陸沖に打ち込まれた。さらに工作船の侵犯銃撃、拉致の発覚、国内潜伏の工作員によるテロの脅威、そして「前代未聞の大闘諍」の序は始まり、自衛隊のイラク派遣、国際テロの不安等々、この七年で日本を取り巻く情勢は一変した。安逸の夢は破れたのである。
 そしていま巨大地震を前にして、私は重ねて「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」の一書を以て、日蓮大聖人に背く罰を全日本人に告げ知らしめている。もう知らないでは済まない。
 諸天が、御本仏への違背・軽賤を許さぬ時は、すでに来ているのである。
 
 二、創価学会の仏法違背
 
 創価学会は初代・牧口常三郎会長、二代・戸田城聖会長のときまでは、少しの仏法違背もなかった。ところが第三代・池田大作会長(現名誉会長・SGI会長、以下敬称略)にいたって、日蓮大聖人の正義に背いてしまった。
 なぜそうなったのか。仏法の上からこの本質を論ずれば、池田大作の身に魔が入ったのである。
 「第六天の魔王 智者の身に入りて、正師を邪師となし、善師を悪師となす。経に『悪鬼其の身に入る』とは是れなり。日蓮智者に非ずと雖も、第六天の魔王 我が身に入らんとするに、兼ねての用心深ければ身によせつけず」(最蓮房御返事)と。
 第六天の魔王は仏法を壊乱することをもってその働きとする。ゆえに広宣流布の前夜、正系門家の内部から大聖人の仏法を破壊せんとして、日蓮正宗の信徒のリーダー・池田大作を狙ったのである。慢心していた池田大作には「兼ねての用心」はなかった。よって魔はやすやすと彼の身に入り、その信心を狂わせたのである。
 魔の入った池田大作は、政治野心と世俗の名利を追い求める。ここに選挙を至上として御遺命の「国立戒壇」を捨て、世俗におもねて謗法与同を犯すようになったのである。
 学会の仏法違背の主たるものを挙げれば、次の三つとなる。
 一に、日蓮大聖人の御遺命に背いている。
 二に、日蓮大聖人出世の本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を蔑如している。
 三に、謗法の邪宗に与同している。
 以上の重大な仏法違背により、いま学会は亡国の集団と化し、八百万学会員はことごとく功徳を失っているのである。
 
 この項は、ことに創価学会員こそ、よくよく読んでほしいと私は念願している。せっかく値いがたき三大秘法に縁しながら、悪師についたゆえに、知らずとはいえ御本仏に背き奉り、今生には功徳を失い、来生には悪道に堕すること、いかにも不憫である。
 私は八百万学会員を救いたい。
 ことは成仏・不成仏にかかわるのである。どうか虚心に読み、早く日蓮大聖人の御心に叶う信心に立ち、功徳を得られんことを切望している。
 
 では、学会の仏法違背の三つについて、それぞれ説明する。
 
  ▼ 日蓮大聖人の御遺命に背く
 
 学会も昭和三十年代までは、大聖人の御遺命たる「国立戒壇」の建立を唯一の目的としてきた。しかし公明党を結成して政治進出を本格化した昭和四十年代以降、国立戒壇を否定するようになった。
 そのわけは、「国立戒壇は憲法違反」との世間の批判が、選挙に不利をもたらすというところにある。しかし本来「国立戒壇」とは、広宣流布の暁に立てられるべきもの。したがってその時には仏法に準じて憲法も改正されその上で建立されるのであるから、「違憲」の批判は当らないのである。
 ところが池田は、なぜか世間の批判を強く恐れ、自ら「国立戒壇」を否定した上に、大石寺境内に俄に建てた「正本堂」を指して、これを「御遺命の戒壇」と偽ったのであった。
 およそ国立戒壇の建立は、日本を仏国とする唯一の秘術である。ゆえにもしこの御遺命を破壊せんとする者あれば、その罪過はまさに御本仏の一代御化導を泡沫に同ぜしむるの大罪に当るといって過言でない。
 このことを弁えるためには、まず御遺命とは何かを、具さに知らなければならない。
 
  1 御遺命とは何か
 
 日蓮大聖人は、日本国一同に南無妙法蓮華経と唱え奉る広宣流布の時、国家意志の公式表明を以て富士山下に本門戒壇を建立し、仏国を実現することを究極の大願とし給うた。しかし御在世には未だ広宣流布の時いたらず、よってこの大事を、別しては二祖・日興上人に、総じては門下一同に付嘱遺命されたのである。
 このことは、御入滅の年の弘安五年に認められた日興上人への御付嘱状「一期弘法付嘱書」と「三大秘法抄」に赫々明々である。
 
   「一期弘法付嘱書」の御教示
 
 まず一期弘法付嘱書を拝見する。
 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
     弘安五年 九月  日
                                 日蓮 在御判
                            血脈の次第 日蓮 日興」
 「日蓮一期の弘法」とは、大聖人出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊の御事である。いまこの大御本尊を日興上人に付嘱して「本門弘通の大導師」に任じ、広宣流布の時いたれば、富士山に本門戒壇を建立すべしと命じ給うておられる。これが「御遺命」である。加えて、我が門弟たる者この状を守り、いささかも違背してはならないと制誡されている。
 されば、広宣流布もしないうちに「正本堂」なるものを勝手に建てて「御遺命の戒壇」などと偽る者は、まさしく「此の状」を守らぬ御遺命破壊の逆徒なのである。
 
   「三大秘法抄」の御教示
 
 次に三大秘法抄を拝見する。本抄は前掲の日興上人への御付嘱状の助証として、下総の有力信徒・太田金吾に宛て、本門戒壇について将来に異議を生じたときを慮られて、書き遺されたものである。
 この三大秘法抄には、これまで己心に秘めておられた本門戒壇建立についての、「時」と「手続」と「場所」等が明示されている。
 「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下してLみ給うべき戒壇なり」と。
 まず戒壇建立の「時」については
 「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と定められている。
 「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」とは、国家が日蓮大聖人の仏法を国家安泰の唯一の大法、衆生成仏の唯一の正法であると認識決裁し、これを尊崇守護することである。それは具体的にはどのような姿になるのかといえば、次文に
 「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とある。すなわち日本国の国主たる天皇も、大臣も、全国民も、一同に本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、有徳王・覚徳比丘の故事に示されているような身命も惜しまぬ護法心が日本国にみなぎった時――と仰せられる。
 大聖人は、末法濁悪の未来日本国に、このような国家状況が必ず現出することを、ここに断言しておられるのである。
 次に戒壇建立の「手続」については
 「勅宣並びに御教書を申し下して」とある。「勅宣」とは天皇の詔勅。「御教書」とは今日においては閣議決定・国会の議決等がこれに当ろう。まさしく「勅宣並びに御教書を申し下して」とは、国家意志の公式表明を建立の手続とせよということである。
 この手続こそ、日蓮大聖人が全人類に授与された「本門戒壇の大御本尊」を、日本国が国家の命運を賭しても守護し奉るとの意志表明であり、このことは日本国の王臣が「守護付嘱」に応え奉った姿でもある。
 御遺命の本門戒壇は、このように「勅宣・御教書」を建立の必要手続とするゆえに、富士大石寺門流ではこれを端的に「国立戒壇」と呼称してきたのである。
 では、なぜ大聖人は「国家意志の公式表明」を戒壇建立の必要手続と定められたのであろうか。
 謹んで聖意を案ずるに、戒壇建立の目的は偏えに仏国の実現にあるゆえ、と拝し奉る。仏国の実現は、国家レベルでの三大秘法受持がなくては叶わない。その国家受持の具体的姿相こそ「王仏冥合」「王臣受持」の上になされる「勅宣・御教書」の発布なのである。
 すなわち国家意志の表明により建立された本門戒壇に、御本仏日蓮大聖人の法魂たる「本門戒壇の大御本尊」が奉安されれば、日本国の魂は即、日蓮大聖人となる。御本仏を魂とする国はまさしく仏国である。「日蓮は日本の人の魂なり」「日蓮は日本国の柱なり」の仏語は、このとき始めて事相となる。
 次に「場所」についての御指示は、「霊山浄土に似たらん最勝の地」である。
 ここには地名の特定が略されているが、日興上人への御付嘱状を拝見すれば「富士山」たることは言を俟たない。さらに日興上人は広漠たる富士山麓の中には、南麓の「天生原」を戒壇建立の地と定めておられる。天生原は大石寺の東方四キロに位置する昿々たる勝地である。ゆえに日興上人の「大石寺大坊棟札」には
 「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」
 と記されている。ちなみに「三堂」とは、本門戒壇堂・日蓮大聖人御影堂・垂迹堂をいう。
 また第二十六世・日寛上人は
 「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。御相承を引いて云く『日蓮一期の弘法 乃至 国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と云々」(報恩抄文段)と。
 「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に事相(事実の姿)に建てられる戒壇をいう。したがって、それ以前に戒壇の大御本尊まします所は「義の戒壇」と申し上げる。
 さらに第五十六世・日応上人は御宝蔵説法本に
 「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜わり、富士山の麓に天生ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって……」と示されている。
 以上、三大秘法抄の聖文を拝すれば、本門戒壇建立についての「時」と「手続」と「場所」は太陽のごとく明らかである。まさしく御遺命の戒壇とは「広宣流布の暁に、国家意志の公式表明を以て、富士山天生原に建立される国立戒壇」である。
 次に「時を待つべきのみ」とは、広宣流布以前に建立することを堅く禁じた御制誡であり、同時に、広宣流布は大地を的として実現する、との御意を示されたものである。
 「事の戒法と申すは是れなり」とは、本門戒壇の建立が即「事の戒法」に当るということである。
 戒とは防非止悪(非行を防ぎ悪行を止める)の義であるが、国立戒壇を建立すれば、本門戒壇の大御本尊の力用により、国家そのものが防非止悪の当体となる。すなわち国家権力が、内には人民を安穏ならしめ、外には他国を利益する慈悲の働きになるのである。
 またこの仏国に生ずる国民も、自ずと一人ひとりが戒を持つ当体となる。世間の道徳や小乗経の戒律は外からの規律であるが、本門の大戒は御本尊を信じ妙法を唱えることにより、自然に自身の生命が貪・瞋・癡の自害々他の境界から、自利々他の働きに変わってくる。よって国立戒壇が建立されれば、いま日本社会に充満している凶悪犯罪などは、朝露のごとく消滅するのである。
 「三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下してfみ給うべき戒壇なり」とは、本門戒壇の利益の広大を示されたものである。
 この国立戒壇は日本のためだけではなく、中国・インドおよび全世界の人々の懺悔滅罪の戒法でもある。いや人間界だけではなく、その利益は梵天・帝釈・日月・四天等の天界にまでも及ぶ。何と広大無辺の大利益ではないか。そしてこの仏国を諸天が守護することは「大梵天王・帝釈等も来下して……」の御文に明らかである。
 思うに、本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人が日本および全世界の人々に総じて授与された御本尊である。かかる全人類成仏のための大法を、日本が国家の命運を賭しても守り奉る。これが日本国の使命である。日本は日蓮大聖人の本国であり、三大秘法が世界に広宣流布する根本の妙国なるがゆえに、この義務と大任を世界に対して負うのである。
 かかる崇高なる国家目的を持つ国が世界のどこにあろう。人の境界に十界があるごとく、国にも十界がある。戦禍におびえる国は地獄界、飢餓に苦しむ国は餓鬼界、没道義の国は畜生界、侵略をこととする国は修羅界である。その中で、全人類の成仏の大法を、全人類のために、国運を賭しても護持する国があれば、それはまさしく仏界の国ではないか。これが国立戒壇の精神なのである。
 日本に本門戒壇が建立されれば、この大波動は直ちに全世界におよぶ。そして世界の人々がこの本門戒壇を中心として「一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」の時いたれば、世界が仏国土となる。この時、地球上から戦争・飢餓・疫病等の三災は消滅し、この地球に生を受けた人々はことごとく三大秘法を行じて、一生成仏を遂げることが叶うのである。
 ゆえに教行証御書に云く
 「前代未聞の大法此の国に流布して、月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生 仏に成るべき事こそ有難けれ、有難けれ」と。
 大聖人の究極の大願はここにあられる。そしてこれを実現する鍵こそが、日本における国立戒壇なのである。
 
   富士大石寺歴代先師の文証
 
 日蓮大聖人のこの重き御遺命を奉じて、正系門家・富士大石寺門流が、七百年来「国立戒壇」を唯一の宿願としてきたことはいうまでもない。参考のため、その文証をいくつか挙げる。
 五十九世・日亨上人
 「宗祖・開山出世の大事たる、政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華11号)
 「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)
 「宗祖所弘の三大秘法は難信難解なり。(中略)何に況んや、天下一同他事を捨てて、専ら此の本尊に向って此の題目を唱うべき本門戒壇の国立は、至難中の至難に属するものをや」(富士大石寺案内)
 六十四世・日昇上人
 「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり、国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)
 六十五世・日淳上人
 「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(富士一跡門徒存知事の文に就いて)
 「この元朝勤行とても(中略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つ可し』とあるのが、それであります」(大日蓮34年1月号)と。
 
 池田大作に諂って国立戒壇を否定した六十六世・日達上人(以下・細井管長と呼ぶ)さえ、正本堂の誑惑に加担する以前は、歴代先師と同じく「国立戒壇」を次のごとく主張していた。
 「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行に徹底邁進せられんことを願うものであります」(大日蓮35年1月号)
 「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華35年1月号)
 「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮36年5月号)と。
 
   創価学会も国立戒壇を主張
 
 創価学会も正本堂の誑惑以前は、富士大石寺の伝統教義に則り「国立戒壇」を主張していた。
 戸田城聖第二代会長は
 「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」(大白蓮華31年3月号)
 「我等が政治に関心を持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(大白蓮華31年8月号)
 また三大秘法抄を論じては次のごとく言う。
 「『戒壇を建立すべきものか』とは、未来の日蓮門下に対して、国立戒壇の建立を命ぜられたものであろう」(大白蓮華31年11月号)と。
 
 池田大作さえ、正本堂のたばかり以前は正論を叫んでいた。
 「『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり』の御予言こそ、残された唯一つの大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである」(大白蓮華31年1月号)
 「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華31年4月号)
 「三祖日目上人様の、老齢の御身をいとわず国家諫暁あそばされた粛然襟を正す御最期をしのび、広宣流布に向って、国立戒壇建立に向って、身命を惜しまず前進を続けなくてはならぬ」(大白蓮華34年4月号)
 また戸田会長の講義を援用しては次のようにも言う。
 「国立戒壇の建立だけが目的なのです。化儀の広宣流布が創価学会の目的なのである、という(戸田)会長先生の御言葉なのです。創価学会の目的は他にないのです。(中略)この会長先生のおおせになったことは会長先生の我見ではなくて、日蓮大聖人の至上命令である。御金言なのである。勝手に創価学会が想像してつくった国立戒壇論でも戒壇建立論でもない。日蓮大聖人様の御命令である」(大白蓮華33年9月号)と。
 このように池田大作も、国立戒壇を指して「日蓮大聖人の至上命令」「日蓮正宗の宿願」「創価学会の唯一の大目的」と叫んでいたのであった。
 
  2 国立戒壇否定と正本堂のたばかり
 
 ところが彼は、この国立戒壇を弊履のごとく投げ捨てた。
 公明党が結成されて衆院進出が決められたのは、昭和三十九年五月であった。このとき、池田の政治野心が露わになった。
 これを見て、共産党をはじめとする諸政党、さらに学者・評論家・マスコミ等が一斉に批判を開始した。その批判は創価学会が政治進出の目的としている「国立戒壇」は、政教分離を定めた憲法に違反するというものだった。
 しかし前述のごとく、国立戒壇は広宣流布の暁に建立されるべきで、それ以前の建立は「時を待つべきのみ」と禁じられている。そして広宣流布になれば当然、国民の総意で憲法も在るべき姿に改正される。その上での建立であるから、「憲法違反」などの有り得る道理もないのだ。
 ところが池田大作は、これらの批判をいたく恐れ、たじろいだ。このことは彼の臆病心と、マッカーサーから与えられた憲法を絶対視する幼稚さ、いや何よりも何よりも、日蓮大聖人への忠誠心の欠如と、本門戒壇の本義を知らぬ無智から起きている。
 所詮、彼が「国立戒壇」を叫んでいたのは、大聖人の御遺命を重しとする道念のゆえではない。ただ戸田前会長の口まねであり、会員を選挙に駆り立てる口実だったのである。だから世間から批判を受けるや、たちまちに「おごれる者は必ず強敵に値うて恐るる心出来するなり」(佐渡御書)となって、「国立戒壇」を放棄したのであった。
 だが、口でいかに「放棄」を繰り返しても、世間は信じてくれない。そこで彼は偽物の戒壇を作る大悪事を思いついた。
 それが「正本堂」である――。
 彼は、大石寺境内の北のはずれにある広大な墓地の区域に、虚仮おどしの巨大建造物を設け、これを「御遺命の戒壇」と偽ろうと企んだ。この欺瞞が成功すれば、世間を欺けるのみならず、御遺命を成しとげたという大功績者ともなれる。それだけではない、莫大な資金を集めることができる。魔の入った池田は、一石三鳥を狙ったのである。
 
   「法主」を籠絡
 
 しかし「正本堂」の大それたたばかりは、池田ひとりではできない。どうしても宗門(日蓮正宗)の同意が必要であった。
 「時の法主」は第六十六世・細井日達管長であった。当時の宗門は、学会の金力と権力によって骨抜きになっていた。学会に協力する僧侶は経済的支援で潤い、逆う僧侶は左遷あるいは暴力で威された。宗門僧侶が池田大作に諂うさまは、あたかも犬が主に尾をふるごとくであった。
 その中でも、ことに細井管長は学会の後ろ盾で宗門に地位を築いてきた人であったから、管長になってからはなお学会の傀儡のごとくになった。
 しかし「法主」の権威は日蓮正宗の僧侶・信徒にとっては絶対である。池田はこの権威を利用した。「法主」の口から正本堂を「御遺命の戒壇」と宣言することを要請したのである。
 このような恐るべき仏法違背の押しつけは、本来ならば断じて打ち摧くのが貫首の責務である。ゆえに日興上人の御遺誡には
 「衆議たりと雖も仏法に相違あらば、貫首之を摧くべき事」とある。
 しかるに細井管長は池田のこのたばかりに協力してしまった。昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会において、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨を、曖昧な表現ながら発表したのであった。
 この説法を聞くや、池田は鬼の首でも取ったように喜び、さっそく国立戒壇の否定と正本堂の讃嘆を始めた。こんな講演をしている。
 「いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』といいますが、私はなにをいうかといいたい。そんなことは御書にはありません。彼らはなにもその本義を知らないのです。猊下(法主)が、正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります。ですから、皆さん方は『創価学会は国立戒壇建立が目標である』といわれたら、いいきっていきなさい。とんでもない、こんどの私どもの真心で御供養した浄財によって、正本堂が建立する。それが本門の戒壇堂である。これでもう決定されているのですと」(聖教新聞・昭和40・9・22)
 なんとも恥しらずである。「国立戒壇の建立こそ、創価学会の唯一の大目的」と叫んでいたのは池田自身ではなかったのか。それを「評論家ども」のせいにしている。しかしこの池田の発言には、国立戒壇の放棄が「評論家ども」の批判を恐れてのゆえであったことと、正本堂のたばかりに「法主」を利用したことが、はっきりと表れている。
 さらにこの年(昭和四十年)の九月、池田は細井管長に正本堂募財の訓諭を発布させる。その訓諭には「蔵の宝に執着することなく……」とあった。
 学会員は正本堂を御遺命の戒壇と信じたから、血のにじむ供養をした。当時、全国の質屋の前には家財道具を持って並ぶ学会員の列ができ、生命保険も一斉に解約され、世間の話題にもなった。
 この痛ましき供養の総額は三百数十億円にも達した。そしてその全額が、「法主」から池田に戻された。馴れ合いだったのである。
 
   誑惑の大合唱
 
 募金の成功を見て、池田は正本堂の誑惑(たばかり)に自信を深め、いよいよ正本堂の讃嘆に力を入れる。昭和四十一年の「立正安国論講義」では
 「本門戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上達成される段階となった。七百年来の宿願であり、久遠元初以来の壮挙であることを確信してやまない」
 と述べ、さらに翌年の正本堂発願式では「発誓願文」なるものを仰々しく読み上げる。
 「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」と。なんと、恥じて恐るべき仏教三千余年空前の大誑惑を、「史上空前の大偉業」と自讃したのである。
 
 これらの池田発言を承けて、学会の主要書籍にも誑惑の文が躍った。
 「戒壇とは、広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である。(中略)昭和四十七年には、事の戒壇たる正本堂が建立される」(折伏教典)
 「日蓮大聖人は本門の題目流布と、本門の本尊を建立され、本門事の戒壇の建立は日興上人をはじめ後世の弟子檀那にたくされた。(中略)時来って日蓮大聖人大御本尊建立以来六百九十三年目にして、宗門においては第六十六世日達上人、創価学会においては第三代池田大作会長の時代に、本門の戒壇建立が実現せんとしている」(仏教哲学大辞典)
 「正本堂の建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現であり世界にいまだ曽てない大殿堂である」(同前)と。
 正本堂がどうして「三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇」なのか。まだ王法は仏法に冥じてない、王臣一同も三大秘法を受持してない、勅宣・御教書も申し下されてないではないか。
 しかし細井管長もこう言った。
 「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華二〇一号)と。
 戒壇は広宣流布達成の暁に建立されるべきなのに、細井管長は「正本堂が完成した時は広宣流布だ」という。矛盾のきわみではあるが、この文は、正本堂の完成時に王仏冥合・広宣流布は達成したと宣言する伏線なのである。もちろん、いう所の王仏冥合・広宣流布がこじつけ、でたらめであることは言うまでもない。
 
 しかし最高権威の「法主」と、最大権力者・池田大作の言であれば、無智の八百万信徒はこれを信じ、無道心の一千僧侶はこの誑惑を讃えた。
 昭和四十二年の正本堂発願式に参列した宗門高僧たちの、宗門機関誌「大日蓮」に掲載された諛言を並べてみよう。
阿部信雄・教学部長(現・日顕管長)
  「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている」
 大村寿顕・宗会議員(現・教学部長)
 「この大御本尊御安置の本門戒壇堂の建立をば『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ』云々と、滅後の末弟に遺命せられたのであります。その御遺命通りに、末法の今、機熟して、『本門寺の戒壇』たる正本堂が、御法主上人猊下の大慈悲と、法華講総講頭・池田大作先生の世界平和実現への一念が、がっちりと組み合わさって、ここに新時代への力強い楔が打ち込まれたのであります」
 佐藤慈英・宗会議長
 「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座居ます」
 椎名法英・宗会議員
 「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ』との宗祖日蓮大聖人の御遺命が、いま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか」
 菅野慈雲・宗会議員
 「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」と。
 どうしたらこのような虚言がいえるのか。これらの僧侶は、大聖人の御遺命よりも、池田大作の歓心を買うことを重しとしている。まさに「法師の皮を著たる畜生」(松野抄)といわねばならぬ。彼らは命をかけても守るべき大事の御遺命を、売り渡したのであった。
 かくて正系門家から「国立戒壇」は消滅し、正本堂を讃える悪声のみがこだました。第六天の魔王はものの見事に、正系門家から七百年来の宿願を奪い去ったのである。
 
 だが、もし国立戒壇建立の御遺命が破壊されてしまったら、日蓮大聖人の仏国実現という究極の大願は虚くなる。流罪・死罪を忍び給うての一代御化導は水泡に帰してしまう。このような大悪が、どうして許されようか。
 この大悪事を見ながら知りながら黙止すれば、大聖人に対し奉り最大の不忠になる。――このとき、大聖人の厳たる御命令が私の耳朶を打った。
 「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)
 「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持し擁護すべし」(立正安国論)
 「むしろ身命を喪うとも教を匿さざれ」(撰時抄)
 また日興上人は
 「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用うべからざる事」(遺誡置文)と。
 もし「法主」の権威を憚り学会の威圧を恐れて黙止したら、「大聖人様に申しわけない、大聖人様に叱られる」――ただこの思いだけで、私は御遺命守護の御奉公に立ち上がった。
 
 これより、必死の諫暁は二十八年に及んだ。そして、凡夫の思慮を絶することが起きた。それは平成十年四月五日、「本門戒壇の大御本尊」は誑惑の正本堂から元の奉安殿に還御あそばし、正本堂も打ち砕かれて地上より姿を消してしまったのである。すべては大聖人の御威徳によるものであった。
 以下の項で、その経緯の概略を述べる。
 
  3 御遺命守護の戦い
 
    第一次諌暁
 
   「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」
 昭和四十五年三月、私は護法の一念を四万二千余字に込めて「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」と題する一書を認め、猊座を守るべき宗務院役僧と、元凶の池田大作以下の学会首脳、あわせて十二人に送附した。
 この書の内容は、正本堂が事の戒壇でないこと、御遺命の戒壇とは国立戒壇であることを立証し、そして池田が大聖人を蔑ずる大慢心を破し、最後に宗務当局に対し、猊座の尊厳を守るため速かに池田の誑惑を摧くべしと訴えたものである。
 当時、顕正会は「妙信講」と称し、日蓮正宗法華講(宗門信徒の総称)の中の一講中という立場であり、講員は八千人に過ぎなかった。
 対する池田は、日蓮正宗全信徒を統率する大権を細井管長から委ねられた法華講総講頭、そして八百万学会員を率い公明党を手足とし、そのうえ誰人も背けぬ「法主」を擁し、その勢いは騎虎を思わせるものがあった。これに八千の小講中が立ち向うのは、竹槍で戦車に向い、小舟が戦艦に当るに似ていた。恐らく歯牙にもかけず、直ちに宗門追放とも思われた。
 だがこの諫暁書は、驕る池田大作と細井管長の肺腑を抉り衝撃を与えた。それは八百万対八千でもなければ、「法主」対信徒でもなかった。「仏法と申すは道理なり、道理と申すは主に勝つ物なり」(四条抄)の仰せのままだった。恐らく細井管長はこの諫暁書の背後に、犯しがたき御本仏日蓮大聖人、日興上人の御威徳を感じたものと思われる。
 
   細井管長と対面
 
 送達の翌々日、宗務院の早瀬総監から「直ちに本山に来るように」との連絡があった。この反応の早さこそ、衝撃の強さを物語っている。
 四月三日、私は父(当時妙信講講頭)とともに、総本山の宗務院に出頭した。定めて宗務役僧から宗門追放が云い渡されると思っていたところ、案に相違して「猊下が対面所でお目通り下さる」とのことであった。
 やがて対面所に出座された細井管長は、右手に「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」をかざしつつ、照れくさそうな笑みを浮べ、開口一番
 「よく書けてますね。私にもこうは書けませんよ。この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません」と、思いもかけぬ言葉を下された。
 だが、次いで
 「この中に引用の先師の『御宝蔵説法』とは、日応上人のものですね。あれには省略されている部分があるのです。これがその原本です。大事なものだから人には見せられないが、この中に『戒壇の大御本尊まします所は事の戒壇』とあるのです。だから、正本堂は事の戒壇といえるのです」と。
 非礼僣越とは思ったが、ことは御遺命にかかわる重大事であれば、私は敢えて
 「お見せ頂けますか」と願い出た。
 「大事なものだから全部は見せられないが……」
 と云いつつ、細井管長は両手で前後を隠しつつ、その部分だけを見せて読み上げられた。
 「『大御本尊いま眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』とあるでしょう。だから戒壇の大御本尊まします所は、御宝蔵であれ、奉安殿であれ、また正本堂であれ、事の戒壇といっていいのですよ」
 いかにも訝しい。私はお伺いした。
 「本宗では従来、広布の暁に事相に建てられる御遺命の戒壇を『事の戒壇』といい、それまで大御本尊のまします御宝蔵あるいは奉安殿を『義の戒壇』と言ってきたのではないでしょうか」
 細井管長の面にみるみる怒気がみなぎった。
 「あんた、二座の観念文には何とある。『事の一念三千』とあるでしょう、戒壇の御本尊は事の御本尊です。だから、その御本尊まします所は事の戒壇なのです」
 「お言葉ですが、『事の一念三千』の事とは、文上脱益・理の一念三千に対して文底下種の一念三千を事とされたのであって、これは法体の上の立て分けかと思われます。いま戒壇における事と義とは次元が異なるように思われますが……」
 「いや、ここに書かれているように、大御本尊まします所は、いつでも、どこでも事の戒壇なのです」
 怒気を含む強い調子で、これだけは譲れないというように、同じ言葉を何度も繰り返された。しかし、従来の定義を変えて「正本堂を事の戒壇」としたならば、御遺命の戒壇がわからなくなってしまう。核心部分はここにある。そこで私は詰めて伺った。
 「では正本堂は、三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された事の戒壇なのでしょうか」
 細井管長はあきらかに困惑の色を表わし、しばし沈黙された。やがて意を決したように
 「広宣流布の時の事の戒壇は、国立ですよ」
 重ねて念を押させて頂いた。
 「では、正本堂は御遺命の戒壇ではないのですね」
 「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです」
 ついに細井管長は本心を吐露された。ちなみに「天母山」とは天生原のことである。しかしこの本心を、宗門で知る者はない。全信徒は正本堂を御遺命の戒壇と思いこんでいる。
 そこで言上した。
 「猊下の御本意を伺い、こんなに有難いことはございません。しかし学会員も法華講員も、まだ正本堂を御遺命の戒壇と思いこんでおります。これはいかがしたら……」
 猊下は言われた。
 「いや、私から間違わぬよう、よく伝えておきます」
 思いもかけぬ明言であった。そして最後には
 「諫めてくれたのは妙信講だけです。浅井さんの信心に私は負けました」
 とまでの率直な言葉を吐かれた。
 ――細井管長のこの日の対面目的は、妙信講を懐柔しつつ、定義を変えた「事の戒壇」を承伏させることにあったと思われる。しかし説得のつもりが、正しい道理の前に、かえって本心を吐露せざるを得なくなり、その公表まで約束されたのであった。
 
 三日後の四月六日、総本山の年中二大法要の一つである御虫払会が行われた。席上、満山大衆を前にして細井管長はこう述べた。
 「王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並びに御教書があって、霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから、私は未来の大理想として信じ奉る」と。
 建築が進みつつある正本堂を眼前にして、三大秘法抄に御遺命の戒壇を「未来の大理想として信じ奉る」と明言されたのだ。この説法は明らかに正本堂の誑惑を否定するものであった。
 
   「事の戒壇」の定義変更のたばかり
 
 さて、総本山の対面所で細井管長が私に示された、「日応上人の御宝蔵説法の原本」と称する本について少し触れておく。
 後日、不思議な経路でその全文を入手することができた。それは五十六世日応上人の「原本」ではなく、六十世日開上人の御宝蔵説法本であった。細井管長が引用した前後の文を拝見すれば、文意は明白であった。
 「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして……」とある。
 すなわち日開上人は、広布の暁に国立戒壇が建立されることを大前提として、その事の戒壇に安置し奉る戒壇の大御本尊いまここにましますゆえに、たとえ未だ事の戒壇は建てられていなくとも、「此の所即ち是れ本門事の戒壇」と仰せられているのだ。すなわち義理において事の戒壇の意、これを本宗では「義理の戒壇」あるいは「義の戒壇」と云ってきたのである。
 ゆえに日寛上人は
 「義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処、即ちこれ義理・事の戒壇に当るなり。(中略)故に当山(大石寺)は本門戒壇の霊地なり」(法華取要抄文段)
 として、広布以前の戒壇の大御本尊まします大石寺を「義の戒壇」とされている。さらに
 「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇これ無しといえども、すでに本門戒壇の御本尊まします上は、其の住処は即戒壇なり」(寿量品談義)
 とも仰せられている。「其の住処は戒壇なり」とは、義において戒壇ということ、これを「義の戒壇」というのである。
 しかるに細井管長は、日開上人が前文に示されている国立戒壇の大前提を故意に隠して、正本堂を直ちに「事の戒壇」といわれた。これは明らかにたばかりである。
 「事の戒壇」は「御宝蔵も奉安殿も正本堂も……」ではなく、一つしかないのだ。ゆえに近世の大学匠といわれた第五十九世日亨上人は
 「唯一の国立戒壇すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、そのことは将来に属する」(富士日興上人詳伝)と明言されている。
 いや細井管長自身、登座直後の説法では
 「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。もちろんこの戒壇は、広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮36年5月号)
 と言っているではないか。しかるにいま定義を勝手に変更し「戒壇の大御本尊ましますゆえに正本堂は事の戒壇」という。これは自語相違であり、己義である。
 なぜこのようなたばかりをしたのかといえば、正本堂を「御遺命の事の戒壇」と云い続けてきた学会・宗門の欺瞞を隠すための韜晦にほかならない。ところが詰められて本心を吐露せざるを得なくなり、それが御虫払会における説法となったのである。
 
 ――しかしこれより以後、細井管長は態度を二転三転させる。私と会えば貫首としての本心を取り戻し、池田と会えばまた魔の手先となるという変節を、最後まで繰り返したのであった。
 
   共産党の質問主意書
 
 細井管長のこの本心吐露は、池田の目には裏切りと映ったに違いない。彼は巻き返しの機を覗った。たまたまこの時、共産党の谷口善太郎代議士から衆議院議長に宛て「質問主意書」が提出された。その趣旨は、学会が年来主張していた「国立戒壇」は憲法違反であり、かつ宗教団体が違憲の国立戒壇の実現を目的として政治活動を行うとすれば、その活動も憲法違反ではないか――というものであった。
 政府は学会に「国立戒壇」についての照会をした。
 池田はすでに数年前に国立戒壇を否定している。しかしこの回答を政府に提出するに当っては、どうしてもその裏付けとして、宗門に国立戒壇否定の公式決定を発表させる必要があった。ここに池田は、猛烈な圧力を宗門に加えてきた。
 
   「国立戒壇を永久放棄せよ」
 
 昭和四十五年四月十四日、池田は宗務院の早瀬日慈総監と阿部信雄教学部長(現・日顕管長)を学会本部に呼びつけた。このときの会談内容が、阿部教学部長の自筆により克明に記録されている。この記録は池田が宗門に国立戒壇を捨てさせたことを立証する上で、きわめて重要である。
 平成五年に顕正会が入手したその記録(以下「阿部メモ」)によれば、池田発言の主旨は二つ。①宗門が公式に国立戒壇永久放棄の宣言をすること②宗内でひとり国立戒壇を主張する浅井を抑えこむこと――この二つを「法主」に要請しているのである。その一部を紹介してみよう。
 
 池田「国立と云うと追いつめられる恐れがある。先手をとりたい。日淳上人にも現猊下にも国立の言あり。共産党はこれらをつみ重ねて(証拠蒐集の意)きている。これは違憲になる。(中略)この際はっきりしておいた方がよいと思うがどうか。(中略)もし之をお認め頂けるならば、猊下より宗門の定義として大日蓮に発表して頂きたい。そうでないと私の独創になってしまう」
 早瀬「非常に重大な事である。充分猊下にお伝えし、申上げる。その上で御返事をする」
 池田「非常にいそぐので早く願いたい。(中略)また何等かの方法で、この件につき宗門内の統一を願いたい。今迄、猊下は、我々の言ったことを擁護して下さった。それが今度は、もう一歩脱皮せねばならぬ時になった。猊下も『時によるべし』とおっしゃっている。今ここで、永久に国立という内容にするか、しないかが、急所である。永久にしないという決定をいえば収まる。(中略)猊下よりそう云うお説法があったとして、大日蓮に発表して頂きたい」
 ――大聖人の一期の御遺命たる「国立戒壇」を、永久に放棄せよと「法主」に迫っている模様が生々しい。
 ついで池田の発言は妙信講問題に移る。阿部メモには「次、浅井問題の検討となる。(中略)浅井問題の解決が焦眉の急という会長の発言あり」とある。
 池田「浅井によく云って下さい(中略)私と一緒に共産党と戦ってもらいたい。もしそうしてくれるのなら、私と逢ってもよい。一ぺん逢はうか。如何?」
 早瀬「結構だと思う」
 池田「それで、もしも(仲々難物なときは)谷口質問を見せて、宗門が解散になってもよいのかと云うことを、よく猊下より話して戴くことがよい。なお猊下が浅井にお逢いになるときは、早セ総監、アベ教学部長も御陪席申上げてもらいたい」
 ――猊下が一人で逢うと、また浅井に同調しかねないと警戒しているのである。
 池田「本山も危いのだということを、よく云って下さい。その時、もしよければ、会長を呼んでもよいと云って下さい。至急やってもらいたい。明日か、明後日―16日一杯にやって頂きたい。猊下より浅井に『国立をとれよ(除け)』と一言云って頂けばよいと思う」
 ついで小平芳平(公明党参議院議員)が、池田発言を補足する。
 「国立を主張して憲法違反と云うことになると、宗教法人法第二条違反となり、これは、法人法第○条により、解散させられます」
 池田「だから浅井に、憲法違反で潰されてよいかということを云って下さい。猊下より、民衆立は自分が(始めに)云ったんだと、むしろ云って頂きたい」
 会談の最後に池田は重ねて念を押す。
 「浅井の件、どうか、しっかりたのみます」
 
 ――池田は「国立戒壇をいえば憲法違反となり宗教法人法違反で宗門が潰される」などと素人だましの法律論で、宗門に「国立戒壇の永久放棄」を強要したのである。ところが細井管長は、この無法な池田の指示どおり、その後、動いた。
 
   再び細井管長と対面
 
 二日後の四月十六日、細井管長は東京・常泉寺に下向して、私を呼び出された。「浅井の件、どうか、しっかりたのみます」(阿部メモ)が、さっそく実行に移されたのだ。
 常泉寺の一室に待っておられた細井管長の手には、共産党の「質問主意書」が握られていた。それを見せながら、差し迫ったようすでいきなり云われた。
 「浅井さん、国立戒壇を捨てて下さい。国立戒壇をいうと、日蓮正宗は潰されるんです」
 つい十三日前には本心を吐露して「広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられる」と明言されたのに、なんという変節か。私は申し上げた。
 「どうして国立戒壇をいうと宗門がつぶされるのですか。信教の自由は現憲法こそ保証するところではございませんか」
 「共産党の動きがこわいのです」
 それから細井管長は共産党の恐るべきことを縷々と述べた上で、「国立戒壇を捨てよ」と、一方的に強要された。私は申し上げた。
 「学会は自ら犯した数々の社会的不正を暴かれるから共産党を恐れております。しかし宗門が、日蓮大聖人の御遺命を叫ぶのに、どうして共産党ごときを恐れる必要がありましょうか」
 さらに申し上げた。
 「国立戒壇の否定と、正本堂の誑惑は表裏一体です。学会は内外に正本堂を御遺命の事の戒壇と大宣伝しております。この時もし国立戒壇を云わなくなったら、正本堂の誑惑は、そのまま内外にまかり通ってしまうではございませんか」
 細井管長は気色ばんだ。
 「正本堂を事の戒壇とはいえますよ。このあいだ本山であなたに見せたでしょう。あの本に『此の所は即ち是れ本門事の戒壇』とあったじゃないですか。あの本は寛尊よりも、もっと古いものです」
 四月三日には「日応上人の御宝蔵説法の原本」といい、ここでは「寛尊よりも古い」という。たばかりのゆえに自語相違するのであろう。私は申し上げた。
 「猊下の仰せられる『事の戒壇』の意味は、宗門古来の定義とは異なるように思われますが……」
 「法主」の権威に平伏せぬを小癪に思われたのか、顔を真っ赤にして語気を荒げた。
 「正本堂を事の戒壇といって何が悪い。あの本にあるように、戒壇の御本尊ましますところは、いつでも、どこでも、事の戒壇といえるんです」
 なんとしてもねじ伏せようとする強引さである。私はあえて面を犯して強く申し上げた。
 「では、猊下の仰せられる『事の戒壇』とは、広宣流布の時の『事の戒壇』と同じなのですか」
 猊下はいかにも苦しげに、言葉を濁らせ
 「いや、それは違う」
 重ねて申し上げた。
 「もし『戒壇の大御本尊まします所はいつでも事の戒壇』と仰せになるのなら、三大秘法抄に御遺命された戒壇は建立しなくていいのでしょうか」
 「……もちろん、広宣流布の時は建てなければいけない」
 「学会は、宗門古来の定義のままに『三大秘法抄に御遺命の戒壇を事の戒壇』とし、それが正本堂であると欺瞞しております。ゆえに妙信講は『正本堂は事の戒壇にあらず』と学会を責めているのです。しかるに猊下がいま事の戒壇の定義を変更されて『正本堂も事の戒壇といえる』と仰せられれば、学会の誑惑を助けることになるではありませんか」
 「いや、私のいう『事の戒壇』は、何も最終の戒壇の意味じゃないんだから……」
 「しかしそれでは法義が混乱します。御遺命の戒壇が曖昧になり、匿れてしまいます」
 猊下はいいわけのごとく
 「学会だって『正本堂が三大秘法抄の戒壇だ』と、そんなにはっきり云ってるわけではないでしょう」
 そこで私は、学会の文書のいくつかを、高声に読み上げた。
 「正本堂建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現である」(仏教哲学大辞典)等々。
 細井管長は次第に沈痛な表情になり、うつむきながら言われた。
 「学会がそこまで云っているとは知らなかった。これから五月三日(学会本部総会)の打ち合わせで池田会長に会うことになっているので、訂正するよう、よく云っておきましょう」
 知らぬはずのあるわけがない。が、それはともかく、かくて浅井に「国立戒壇」を捨てさせる目的で面談された細井管長は、またも「学会に誑惑を改めさせる」と約束されたのであった。
 
   「四箇条に従え」
 
 ところがである。翌早朝、細井管長から直接電話があった。
 「昨日、云い残したことがあるので、念のためはっきりと云っておきます。筆記して下さい。
 一、日蓮正宗を国教にすることはしない。
 二、国立戒壇とはいわない、民衆立である。
 三、正本堂を以て最終の事の戒壇とする。
 四、今日はすでに広宣流布である。だから事の戒壇も立つのである。
 以上、これは宗門の管長として私がはっきりいうのです。こうしなければ、現在の宗門はもう統率できないのですから、管長のいうことに従って下さい。そしてこの四つのことは、五月三日(学会本部総会)に私から発表しますから、それを見てて下さい」
 昨日の約束はいったい何だったのか。またも池田の圧力に屈したのである。私は即座に
 「この四ヶ条、断じて承伏いたしません。このようなことを発表されれば、将来、猊下のお徳が必ず傷つきます」
 と強くお諫めした。しかし猊下は
 「とにかく、五月三日の私の話を聞いてからにして下さい」
 とくり返されるだけであった。その声はかすれ、もつれ、そして震えていた。貫首として、大事の御遺命に背く恐ろしさを身に感じておられたのであろう。
 
   臨時時局懇談会
 
 そして五日後の四月二十二日、総本山大客殿において宗門の全住職約一千名と、学会・妙信講・法華講の代表が召集され、「臨時時局懇談会」なるものが開催された。池田の「この件につき宗門内の統一を願いたい」(阿部メモ)が実行されたのだ。
 つまり宗門の代表を集めた席で「法主」に国立戒壇否定の説法をさせ、それに異議がなければ「宗門内の統一」は成ったことになる、というわけである。
 開会に先立ち、宗務役僧が
 「本日は御法主上人よりお説法を賜わるが、特別に質問が許されている」と述べた。異例であった。
 まず全員に共産党の「質問主意書」のコピーが配られ、初めに学会を代表して辻武寿総務室長(当時)が立ち
 「共産党の攻撃により、いま宗門は危急存亡の時を迎えている。国立戒壇をいえば宗門はつぶされる。学会は共産党と争うつもりはない」旨をくどくどと述べた。
 質問が許されたので、私は立った。
 「どうして日蓮正宗が危急存亡なのか。御書には『外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし、師子身中の虫の師子を食む』とあるが、共産党ごときに仏法が破られることはあり得ない。仏法は中から破られるのである。もし学会が仏弟子ならば、どうして共産党をそれほど恐れるのか。いま聞けば、学会は共産党と争うつもりはないとのことであるが、その共産党は『赤旗』紙上で、恐れ多くも戒壇の大御本尊の写真を掲げ、連々と誹謗中傷をしているではないか。学会はなぜ護法のために戦わないのか。妙信講は共産党にこのことで対決を申し入れたが、先方が逃げた。学会はなぜこの謗法を責めないのか」
 辻は
 「あなた方の勇気には敬服します。ただ私達は、あとでまとめてやろうと思っております」
 と云いわけをした。さらに質問しようとすると森田一哉副会長(当時)が立ち
 「もう時間です。猊下が待っておられますから」と遮った。
 私は敢えて質した。
 「先ほど、国立戒壇をいえば宗門はつぶされると云っていたが、なぜ潰されるのか、その法的根拠を示してほしい」
 森田と早瀬総監が同時に立ち上がり、「猊下がお待ちになっておられるので……」と、辻を降壇させてしまった。
 
 ついで猊下が説法された。その大旨は
 まず広宣流布について「今日は因の姿においてすでに広宣流布である」とし、次に戒壇については、日寛上人の依義判文抄を引いて「御本尊即戒壇とあるから、戒壇の大御本尊まします所は事の戒壇である」といい、さらに「国教でないものに国立はあり得ない、民衆立の正本堂を事の戒壇として、今日において少しも恥ずることはないと信ずる」と結んだ。――これは、先日の電話での四ヶ条の説明であった。
 説法が終わると、早瀬総監から「本日は特別にお伺いが許されている」といったので、私はお伺い申し上げた。
 「ただいま猊下は、正本堂を事の戒壇と仰せられましたが、それでは三大秘法抄に御遺命された戒壇は、将来建てられないのでしょうか……」
 猊下はしばし沈黙ののち
 「私には、将来のことはわかりません」と答えられた。
 「建てる」といえば学会を裏切ることになる。「建てない」といえば御遺命に背くことになる。よって
 「わかりません」ということになったのであろう。
 私はさらに、細井管長が依義判文抄を引いて説明した部分について質問した。引用された日寛上人の御文は次の一節だった。
 「応に知るべし、『日蓮一期の弘法』とは、即ち是れ本門の本尊なり。『本門弘通』等とは、所弘即ち是れ本門の題目なり。戒壇は文の如し。全く神力品結要付嘱の文に同じ云云。秘すべし、秘すべし」
 この御文を細井管長は次のように会通した。
 「ここが大事なところでございます。結要付嘱とはすなわち本門の大御本尊であります。『(戒壇は)それと同じだ』と、はっきりここで日寛上人がことわっている。だから結局は、事の戒壇といっても、義も含んだところの事の戒壇、大聖人様の戒壇の大御本尊まします所が、すなわちこれ事の戒壇であるはずでございます」と。
 これは全くの曲会である。私はお伺いした。
 「猊下はいま『戒壇は文の如し。全く神力品結要付嘱の文に同じ』との寛尊の御文を引き、御本尊と戒壇とは同じだから、戒壇の大御本尊まします所は事の戒壇であると仰せられましたが、この御文の意は、神力結要付嘱の文も一期弘法付嘱書も、共に三大秘法を説き、そのうえ本尊・題目・戒壇と、説き示す順序も全く同じであるとの深妙を『秘すべし、秘すべし』と仰せられたのではないでしょうか。すなわち神力品においては『以要言之』以下に本門の本尊を説き、『是故汝等』以下に本門の題目を説き、『所在国土』以下に本門の戒壇が説かれております。また一期弘法付嘱書では『日蓮一期の弘法』は本門の本尊、『本門弘通』等とは所弘すなわち本門の題目、戒壇は『国主此の法を立てらるれば云々』との文のままであるから、寛尊は『文の如し』と仰せられたのであり、まさに釈尊から上行菩薩への神力結要付嘱も三大秘法、また大聖人から日興上人への御付嘱も三大秘法、そのうえ本尊・題目・戒壇と示す三大秘法の説順も全く同じである。この深秘・深妙を『全く同じ、秘すべし』と嘆ぜられたのであって、本尊と戒壇が『全く同じ』という意味ではないと存じますが、いかがでしょうか」
 細井管長は全く口を閉じられた。私はさらにお尋ねした。
 「日寛上人は今の御文の前に、『経巻所住の処』を本尊所住の処すなわち義の戒壇とし、『皆応に塔を起つべし』を事の戒壇の勧奨として三大秘法抄・一期弘法抄を引いて説明しておられますが、『本尊所住の処』に当る正本堂が、どうして事の戒壇になるのでしょうか……」
 長く、重苦しい沈黙が、大客殿を覆った。
 しばらくして、森田が引きつったような顔で立ち上がり
 「ここにいるすべての人には、猊下の御説法はよくわかります。ですから、浅井さんには別に席が設けてありますから、あとでゆっくり猊下とお話しになって下さい」
 といって臨時時局懇談会を打ち切ってしまった。しかし別席でも「後日また」ということで、結局流会になってしまった。
 
   政府への欺瞞回答
 
 かくて池田大作のもくろんだ「宗門合意」は不成立に終った。しかし翌四月二十三日、政府への回答の期日を迎えた創価学会は、国立戒壇の意義について正式に文書で次のごとく回答した。
 
 1、 本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。
 2、 既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行なわれており、昭和四十七年十月十二日には完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。
 3、 一時、本門戒壇を国立戒壇と呼称したことがあったが、本意は一で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である。
 
 この回答書は、国家と無関係に宗門が建てた正本堂を「御遺命の戒壇」と偽わり、国立戒壇を否定したものである。
 一期弘法付嘱書には「国主此の法を立てらるれば」と示され、三大秘法抄には「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて……勅宣並びに御教書を申し下して」と定められている。これが御本仏の御遺命である。国家と無関係に建てた偽りの本門戒壇で、どうして仏国が実現しようか。池田大作は「憲法違反」の批判を恐れるあまり、憲法に合わせて御遺命の戒壇を曲げてしまったのだ。思えば、日目上人は国主の尋ねもないのに、身を捨てて国主に国立戒壇建立を訴え給うた。しかるにいま池田大作は、政府より尋ねられてなお国立戒壇を否定し政府を欺いたのである。
 
   国立戒壇放棄の公式決定
 
 次いで「五月三日」の学会本部総会の日が来た。池田は内外のマスコミを招いたこの総会で、いよいよ国立戒壇の永久放棄宣言を、日蓮正宗の「法主」になさしめようとしていた。
 この日、細井管長は次のように述べた。
 「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて『国立戒壇』という名称を使っていたこともありました。しかし日蓮大聖人は世界の人々を救済するために『一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でない仏法に『国立戒壇』などということはあり得ないし、そういう名称は不適当であったのであります。(中略)今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします」と。
 ついに細井管長は池田の圧力に屈して、付嘱を受けた貫首として身命を賭しても守らねばならぬ国立戒壇の御遺命を、ここに放棄してしまったのである。細井管長のこの宣言は「国立戒壇放棄の宗門の公式決定」と称され、現在に至るまで取り消されていない。日蓮正宗は今もなお、国立戒壇を放棄したままなのである。
 
 この日、細井管長が述べた国立戒壇否定の論理は全くのたばかりであるので、ついでに破しておく。
 まず「一閻浮提(全世界)の人々のための仏法だから、大聖人は国教にするなどと仰せられてない」について
 広宣流布の時における「国教」とは、国家が宗教の正邪にめざめ、国家安泰のため、人々の成仏のために、国の根本の指導原理として用いる教法のことである。全人類に総与された本門戒壇の大御本尊を、まず日本が世界にさきがけて「国教」とするのは当然ではないか。
 また、全人類の成仏のためのかけがえのないこの大御本尊を、全人類のために国家の命運を賭しても守護し奉るのが日本国の義務であり使命なのだ。そのゆえは、日本国が三大秘法広宣流布の根本の妙国だからである。かかる崇高なる使命を持った国がまたとあろうか。そして大聖人はこの義務を、日本国の国主に示し給うておられる。それが立正安国論における守護付嘱の文であり、三大秘法抄の「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」の金文なのである。
 次に「国教でない仏法に国立戒壇などということはあり得ない」について
 これも全く逆さまの論理である。国教だからこそ国立戒壇でなければいけないのである。御付嘱状を見よ。「国主此の法を立てらるれば」とある。国主が立てられる法とはまさに国教ではないか。
三大秘法抄を見よ。「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて」とある。「王法」に冥合する仏法とは国教ではないか、「王臣一同」が受持する三大秘法とはまさに国教ではないか。また「勅宣並びに御教書を申し下して」とは国教なるがゆえの手続ではないか。
 ゆえに第六十五世日淳上人は「国教」の重大性を
 「真に国家の現状を憂うる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります」(大日蓮32年1月号)と叫ばれている。
 まさしく広宣流布の日、三大秘法が日本国の国教と定められたとき、「勅宣・御教書」の手続を経て国立戒壇を建立すべしと、御本仏は遺命し給うておられるのである。細井管長のたばかりは、まさに御本仏の眼を抉るものである。
 さらに席上、細井管長は正本堂についても、こう云った。
 「本門戒壇の大御本尊安置のところは、すなわち事の戒壇であります。(中略)正本堂は本門事の戒壇であります。(中略)わが日蓮正宗の信徒は、御相伝による『此の処即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして……』との御金言を深く信じなければならないのであります」と。
 この論法が、事の戒壇の定義を変更して正本堂をあたかも御遺命の戒壇のごとく思わしめる詭弁であることは前に述べた。加えて細井管長は日開上人の御宝蔵説法本を引いて、なんと「御相伝」とたばかっている。前には「日応上人の原本」といい、あるいは「日寛上人より古いもの」といい、ここではついに「御相伝」とたばかったのである。無智の信徒を欺く罪は大きい。
 
 ついで登壇した池田大作は
 「宗門七百年来の宿願であり、創価学会の最大の目標であった正本堂が遂に完成する運びとなりました」
 と声を大にして叫んだ。かつて池田は「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」と云っていたではないか。魔はみごとに「国立戒壇」を「正本堂」にスリ替えたのであった。
 
   対面所で学会代表と論判
 
 この学会総会を見て、私は妙信講の総会を開き、席上
 「大聖人の御遺命を曲げては宗門も国家も危うくなる。妙信講は講中の命運を賭しても、誑惑の訂正を迫る決意である。もし妙信講が憎いとならば、潰したらよい。しかし正義だけは取り入れてほしい。さもなければ国が持たない」と御遺命守護の堅き決意を述べた。
 学会の反応は素早かった。直ちに宗務院を動かし事態を収拾せんとした。
 翌日、宗務院の早瀬総監から「ぜひ会いたい」といってきた。
 五月二十六日、法道院に出向くと、総監と阿部教学部長が待っていた。私は「正本堂の誑惑を訂正させる決意は不退である」旨を強く述べた。早瀬総監は大いに驚き
 「ことは重大で、私達ではどうにもならない。この上は、猊下と池田会長と浅井さんの三人が、膝づめで話しあって頂くほかはない。さっそくこの旨を猊下と会長に伝える」といった。
 池田会長と会えれば、ことは一気に決着する。――私は心に期するものがあった。
 かくて昭和四十五年五月二十九日、総本山の対面所で会談が実現することになった。ところが、池田会長はこの日、ついに姿を現わさなかった。出て来たのは、秋谷栄之助副会長(現・会長)、森田一哉副会長、和泉覚理事長の三人だった。
 細井管長の面前で、私は三人に対し、池田会長が学会総会で「今日はすでに広宣流布である」「正本堂は宗門七百年宿願の事の戒壇である」等と公言したことを難詰した。三人は顔をこわばらせて交々反論したが、追い詰められると
 「学会はこれまで、すべて猊下の御指南を頂いた上で発言している。どうして学会だけが責められなければならないのか」と猊下の責任を持ち出した。
 私は「猊下の御本意はこうだ」と猊下を守りつつ、学会の誑惑だけを責めた。
 勝敗すでに明白になったとき、細井管長が初めて口を開いた。
 「正本堂は三大秘法抄・一期弘法付嘱書に御遺命された戒壇ではありません。まだ広宣流布は達成されておりません。どうか学会は訂正して下さい」と頼みこむよう云われた。
 これを聞いた瞬間、秋谷は血相を変えた。
 「これほど重大なこと、自分たちの一存では決められない。後日改めてご返事申し上げる」
 言うなり憤然として席を立った。彼等にしてみれば「猊下はまたも裏切った」という思いだったに違いない。
 数日後、早瀬総監から「学会が御返事を申し上げるというので、六月十一日、本山に来てほしい」との連絡があった。
 この日、対面所における彼等の態度は、先日とは打って変わって恭順そのものであった。森田が三人を代表して細井管長に言上した。
 「先日の猊下の仰せを守り、今後学会は絶対に『正本堂は御遺命の戒壇』『広布はすでに達成』とは言いません。あらゆる出版物からこの意の文言を削除し、今後の聖教新聞の記事においては必ず私たちがチェックします」
 細井管長はこれですべて解決したかのごとく、満足げにうなずき
 「浅井さん、これでいいでしょう。とにかく宗門でいちばん大きいのと、いちばん強いのがケンカしたのでは、私が困ってしまう。これからは仲よくやって下さい」と上機嫌だった。
 私は大いに不安であった。学会はいまは恭順を装っている。しかしいつ豹変して猊下に圧力を加えるかわからない。よってそれを防ぐには、何としても学会と妙信講との間で、正本堂が御遺命の戒壇ではない旨を確認する文書を取り交す以外にはないと決意していた。
 
   誑惑訂正の「確認書」
 
 御前を退出したのち控室で、私は学会の三人に、確認書を作ることを求めた。
 とたんに三人の顔色が変った。戦時中の軍部のごとく驕っていた学会にとって、正本堂の誑惑訂正を口頭で誓ったことすら、堪えがたい屈辱であったに違いない。その上さらに確認書を求められたのだから、激昂するのも当然だった。
 彼等は断固として拒絶した。私は執拗に求めた。ことは御本仏の御遺命に関わること、宗門の一大事である。ゆえに私は執拗に求め続けた。学会は頑強に拒否し続けた。――見かねた早瀬総監が、私を隣室に招いて小声で言った。
 「あそこまで学会が猊下に誓っているのだから信じてほしい。これからは我々宗務院も、責任を持って監督するから、どうかこれで納めて下さい」
 宗務院に任せて済むのなら、初めからこのような事が起きるはずもない。私はお断わりした。
 この確認書の作製をめぐり、私の求めにより、学会とその後三回、早瀬総監・阿部教学部長の立ち会いで会談が持たれた。そのたびに秋谷と森田はさまざまな理屈を交互に展開した。私はそれを論破し詰めては、確認書を作るよう迫った。彼等は
 「すでに猊下にお誓いした以上、学会は二度と歪曲はしない。それが信じられない関係なら、確認書を交換しても無意味である。まず信頼関係を築くことこそ先決だ」などと屁理屈をこねた。
 ところが八月四日の聖教新聞に、またも「正本堂は御遺命の戒壇」とした記事が発見された。私は直ちに
 「この不誠実は何事か、いったい猊下に何を誓ったのか。だからこそ確認書が必要なのである。もし拒否するならば、全宗門の見守る中で是非を決する以外にはない。八月十九日までに返答をせよ」との書面を送った。
 八月十九日、総本山大講堂会議室で会談が持たれた。追いつめられた三人は牙をむき出した。火の出るような激論のすえ、ついに彼等は不承不承、確認書を作ることを認めた。
 
 かくて昭和四十五年九月十一日、池袋の法道院において、早瀬総監・阿部教学部長・藤本庶務部長の宗務三役僧が立ち会い、学会代表の和泉覚理事長・森田一哉・秋谷栄之助両副会長と、妙信講代表の父と私が署名して、「御報告」と題する確認書が作られた。案文は秋谷が持参した。その内容は
 「一、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定はしない。
 ここに猊下の御宸襟を悩まし奉ったことを深くお詫び申し上げると共に、今後異体同心にして広宣流布達成をめざして邁進することをお誓い申し上げます」
 というものであった。昭和四十年以来、正本堂を「御遺命の戒壇」と断定し続けてきた学会が、ここに「断定はしない」といい、また「今日すでに広宣流布」と偽ってきた学会が、「今後異体同心にして広宣流布達成をめざして」と訂正したのである。
 この確認書こそ、誑惑の主犯たる学会と、これを糺した妙信講が署名し、さらに誑惑に与同した宗務当局が立ち会って細井管長のもとへ収めたものであれば、誑惑訂正の宗門的合意を意味している。まさに学会の圧力から猊座をお守りしたものであった。
 
 昭和四十五年三月の諫暁書提出以来、ここまでたどり着くのに半年かかった。一日一日が思いを込めた必死の戦いであった。
 この確認書により、宗門には薄日がさすように、しばし御遺命の正義が蘇った。学会は誓約したとおり、多数の書籍から誑惑の文言を削除した。宗門機関誌からも御遺命違背の言辞は全く影をひそめた。
 このような空気の中で、阿部教学部長が昭和四十六年八月二十日、宗務院の所用とて、都内文京区音羽の拙宅を訪れた。そのおり、同教学部長は居住まいを正し顔色を革め
 「妙信講のいうところ大聖人の御意に叶えばこそ、宗門の大勢も変った。宗門がここまで立ち直れたのも、妙信講のおかげです」と神妙に挨拶したものである。
 あとは池田大作が改悔の心を以て、適切なる方法で全会員に誑惑を訂正し、御遺命の正義を伝えれば、ことは解決するはずであった。私はその誠実を期待していた。
 
    第二次諌暁
 
 しかし池田大作に改悔はなかった。彼は私の眼を恐れて表面は慎んでいたが、ほどなく蔭で再び誑惑を強調するようになった。
 確認書翌年の昭和四十六年七月の学会本部幹部会では
 「我々が力を合わせ、真心をこめて、大聖人様の御遺命である正本堂を建立したのであります」
 と放言し、また同年十月の「大石寺登山会」において配布されたパンフレットには
 「正本堂建立の意義は、あらためていうまでもなく、大聖人の御遺命の事の戒壇であり、仏法三千年、史上空前の偉業であります」「大聖人の御遺命たる戒壇堂の建立は、今や正本堂として四十七年に完成を見ることになっており、その上棟式が今年十月十二日に行われるのです。思えば、仏法三千年の悲願が、池田会長の手によって完成されんとする現在……」とあった。
 
   「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」
 
 この違約を知ったとき、悲しみとともに深い憤りがこみ上げてきた。この上は、池田会長を直接糺問する以外にない。私は直ちに筆を執った。それが第二の諫暁書「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」であった。時は正本堂落成のほぼ一年前の昭和四十六年十一月十五日。
 この書の内容は、まず「確認書」に至るまでの経過を述べて池田会長の違約を強く詰り、ついで正本堂の誑惑を重ねて克明に挙げた上で
 「ここに断言して憚らない。かかる正本堂こそ、上は日蓮大聖人の御遺命に背き奉り、下は八百万信徒の純信を欺き、外には一国を誑かすものにほかならぬ。その上、静かに休み給う歴代上人の御墓所まで発き奉る。もし深く懺悔訂正せずんば、宗門も、国家も取り返しの付かぬ事になるは必定である」
 と言い切った。そして結びとして、次の二箇条の実行を迫った。
 ①全宗門信徒に対し、正本堂が御遺命の戒壇ではないことを公表すること。
 ②政府に対し、偽りの回答を撤回し、国立戒壇の正義を示すこと。
 先の確認書は非公開であったが、今度は広く誑惑訂正を公表せよと求めたのである。
 ちなみに、このとき言い切った「もし深く懺悔訂正せずんば、宗門も、国家も取り返しの付かぬ事になる」は、いま事実になりつつある。見よ。宗門にあらわれた相承授受をめぐる七百年来未曽有の異常事態、また宗門・学会の泥沼の大抗争、そして日本はいま亡国の渕に立っているではないか。まさに「仏法は体、世間は影」の仰せのままである。
 
   宗務院を楯とする
 
 この諫暁書を一読した池田大作は狼狽し、自ら早瀬総監を法道院にたずね、善後策を協議している。
 昭和四十七年二月十三日、早瀬総監は法道院に私を招いた。
 「浅井さんが憤る気持はよくわかる。しかし何とかならないものかと思って、宗務院が乗り出した」
 私は言った。
 「解決しようという意志がおありならば、宗務院自ら院達を以て、正本堂の誑惑訂正と国立戒壇の正義を全宗門に布告されたらどうか」
 同席していた阿部教学部長が口を挟んだ。
 「これは仮定の話だが、もし院達を出せば、それですべて収まるのか」
 「それは院達の内容による」と答えた。
 
 翌日、再び早瀬総監から「会いたい」といってきた。
 「宗務院の考えとして、宗門声明を出そうと思っている。時期は正本堂落慶式の半年前、内容は『正本堂は現時における事の戒壇である』のただ一ヶ条。ただしこの『事の戒壇』とは、御遺命の戒壇を意味しない。猊下の仰せられる大御本尊ましますゆえに事の戒壇ということである。御遺命の事の戒壇は将来に属するから、今は一切ふれない」
 私は言った。
 「今さらそんな曖昧なことでは誑惑の訂正にならない。もし御当局に訂正の意志があるならば、宗門声明は次のごとき内容であるべきである。 ①正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命の事の戒壇ではない。 ②正本堂は奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで、本門戒壇の大御本尊を厳護し奉る殿堂である。③正しく御遺命の事の戒壇とは、一国広布の暁、富士山天生ヶ原に建立される国立の戒壇である。以上を宗門声明として出して頂きたい」
 二人は黙り込んだ。そして長考ののち
 「あまりにことは重大で、四月六日の御虫払法要が済まなければ決められない」といった。
 
   宗務院の回答
 
 御虫払法要の二日後、宗務院から回答文書が送られてきた――。
 が、その内容は「正本堂は一期弘法抄の意義を含む現時における事の戒壇である」と定めた上に、国立戒壇を口をきわめて誹謗したものであった。
 何という無節操かつ破廉恥なことか。これを書いたのは阿部信雄教学部長であった。彼は「確認書」の署名にも立ち合い、また私の目の前で「妙信講のいうところ大聖人の御意に叶えばこそ、宗門の体勢も変わった。宗門がここまで立ち直れたのも妙信講のおかげ」とまで述べたのではなかったか。
 しかるにこの豹変はいったいなにごとか。
 
   「妙信講作戦」
 
 実はこのとき、彼はすでに池田大作に魂を売っていたのである。そのことを証明する一通の学会内部資料がある。「妙信講作戦」と題する文書で、この機密文書は、池田に重用されて謀略活動を担当していた学会顧問弁護士の山崎正友と、学会教学部長・原島嵩の二人が、池田に造反して脱会した時に持ち出したものである。
 この文書によれば、妙信講作戦の始動は昭和四十七年三月となっている。その二年前、池田は細井管長に「国立戒壇を主張する浅井を抑えよ」(阿部メモ)と指示している。しかし細井管長は浅井と会えばそのたびにぐらつき、いかにも頼りない。そこで自ら妙信講を潰滅せんと乗り出したのが、この「妙信講作戦」だった。
 文書には、作戦の「総指揮」は「池田」と記されている。補佐はナンバー2だった北条浩副会長と弁護士・山崎正友。
 そして阿部教学部長は、なんと「教義論争」と「宗門対策」の担当メンバーに、学会首脳と肩を並べて名を連ねているのだ。
 この「教義論争」とは、国立戒壇否定の論陣を張ることを目的としている。後日、阿部教学部長が「国立戒壇論の誤りについて」および「本門事の戒壇の本義」という二冊の謗書をものしているのが、何よりの証拠である。
 また「宗門対策」とは、主に細井管長に対する工作であるが、これにも阿部教学部長は「池田・阿部・山崎」と記されている。「阿部」の役割はいったい何なのか。それは、妙信講の諫めにふらつく細井管長をそばで監視すると共に、宗内の動向を池田に通報することだった。
 池田は、阿部信雄の類い稀なる詭弁の才に目をつけて「教義論争」を、また細井管長をも凌いで池田に取り入らんとする出世欲をも見ぬいて「宗門対策」を、担当させたのであった。
 さらに「妙信講作戦」に記されている「パンフレット」「ビラ、チラシ」とは、デマを書きつらねた文書を配布すること。「スパイ潜入」「見張・盗聴」「分断工作」は説明の要もない。「マスコミ」とは、新聞・テレビ等に工作して中傷記事を掲載・放映させること。「警視庁・公安」とは公権力への工作である。
 今日、顕正会に対する悪辣な誹謗中傷がさまざまな形で行われているのは、この「妙信講作戦」にその源を発する。その隠れた「総指揮者」とは、まさしく池田大作なのである。
 
   「正本堂訓諭」を発布
 
 かくて池田の「宗門対策」が功を奏して、正本堂の完成を半年後に控えた昭和四十七年四月二十八日、ついに正本堂の意義を宗門として公式に決定する「訓諭」が公布された。ちなみに訓諭とは、一宗を教導するために管長が公布する最高の指南とされている。
 先には「国立戒壇の永久放棄」が公式決定され、いまここに正本堂の意義が公式決定されたのである。その訓諭に云く
 「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。
 正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。
 この訓諭の意味するところは「正本堂は一期弘法付嘱書・三大秘法抄に御遺命された戒壇を、前以て建てておいたもの」ということである。広宣流布以前に御遺命の戒壇を建立しておくとは、いったい何事であろうか。「時を待つべきのみ」の厳重のご制誡はどうなる。
 まさにこの「訓諭」こそ、御本仏に対し奉る許されざる背反、また確認書まで作って猊座を学会の圧力から守らんとした妙信講に対する重大な背信であった。池田はこの「訓諭」をもって、妙信講の口を封じようとしたのである。
 
   池田会長に公場対決せまる
 
 訓諭が発布されたその日、私はこれを公布させた元凶の池田に、公場対決を迫る書状を送附した。東京池袋の豊島公会堂に、学会と妙信講の各代表五百名、それに「国立戒壇放棄宣言」に立ち合ったマスコミを加え、その面前で御遺命の戒壇について論判決着することを求めたものである。
 数日後、宗務院から令達が送られて来た。
 「訓諭に従って、池田会長への法論申し入れを撤回せよ。さもなくば宗規に照らして処分する」
 宗務院はその翌日、宗会を召集して「講」の解散処分規定を新設した。解散処分の事由には「宗門の公式決定に違背し、宗内を乱したとき」の一項が挙げられていた。ここにいう「宗門の公式決定」が、「国立戒壇放棄宣言」と「訓諭」の二つを意味していることは、いうまでもない。
 この四日後、学会からは和泉理事長名で「猊下のお許しが得られないので、公開討論には応じられない」旨の返書が送られてきた。
 
   悪書「国立戒壇論の誤りについて」
 
 「訓諭」発布の二ヶ月後、池田大作は宗務院の阿部信雄教学部長に「国立戒壇論の誤りについて」を執筆させた。池田はすでに細井管長に「国立戒壇永久放棄」を宣言させ、さらに正本堂を御遺命の戒壇に当る建物と意義づける「訓諭」も出させた。しかしなお誑惑が崩れる不安から、この執筆をさせたものと思われる。
 池田が、阿部教学部長の白を黒といいくるめる詭弁の特才に目をつけていたことは前に述べた。阿部教学部長もまた、池田の寵愛を得て宗門の最上位に登ることを夢みていたのであろう。かくて中国・天台僧の一行が、インド真言宗の高僧・善無畏に使嗾されて、「やすう候」と法華経を謗る大日経の疏を造ったごとく、阿部教学部長もまた、池田の指示のままに唯唯諾諾と、御遺命に背く大悪書を造ったのであった。
 この書の所詮は――日本国憲法のもとでは「国立戒壇」は成立し得ないから、国家と無関係に建てられた正本堂こそ時代に即した御遺命の戒壇に当る――というにある。
 本書の根底には、憲法を主、仏法を従とする顛倒が横たわっている。ゆえに本文中に
 「今日、憲法第二十条に定められた政教分離の原則によって、国会も閣議も『戒壇建立』などという宗教的事項を決議する権限を全く有していない。仮に決議したとしても、憲法違反で無効であり、無効な決議は存在しないことと同じである。やれないことや無いことを必要条件に定めることは、結果的には、自ら不可能と決めて目的を放棄することになる」との記述がある。
 現憲法下で国立戒壇が実現し得ないのは、なにも改めて言うまでもないことだ。しかし広宣流布が達成されれば、仏法に準じて憲法も改正される。これが「王法仏法に冥ずる」の一事相でもある。そしてかかる時が到来するまでは戒壇を建てるべからずというのが、御本仏の御制誡なのである。しかるに阿部教学部長は現憲法に合わせて仏法をねじ曲げた。この愚かしさ、無道心、まさに靴に合わせて足の指を切るに等しい。憲法などは凡夫の作ったものではないか。ゆえに時代とともに改められる。現に、数年前までは改正論議すらタブー視されたが、いまや憲法改正は時代の趨勢となっているではないか。憲法を至上として仏法を曲げるのは、御本仏を軽賤する以外のなにものでもない。
 
 では、憲法に合わせて三大秘法抄の聖文をねじ曲げれば、どのような解釈となるか。阿部教学部長のたばかりを見てみよう。彼は聖文を切り刻んで次のように曲会する。
 「王法」=「政治をふくむあらゆる社会生活の原理」
 「王臣一同」=「民衆一同」
 「有徳王」=「法華講総講頭・池田大作先生」
 「勅宣並びに御教書」=「すでに現憲法の信教の自由の保証によって実現されている」
 「霊山浄土に似たらん最勝の地」=「大石寺こそ本門戒壇建立の地」
 「時を待つべきのみ」=「現在も王仏冥合の時と云える。現在戒壇建立の意義をもつ建物を建てるべき時である」
 まことに三大秘法抄の心を死すこと、この曲会に過ぎたるはない。しかもこのたばかりを正当化するのに「法主」の権威を悪用して、曲会のあとに彼は必ず次のような文を続ける。
 「最も大切なことは、遣使還告の血脈の次第から、現御法主上人を大聖人と仰ぐべきであり、現在においては御法主・日達上人の御意向を仰ぐのが正しい」
 「法主を大聖人と仰げ」といって、御遺命破壊の悪義を押しつけているのだ。また云く
 「現在は仏法上いかなる時であるかを決し、宗門緇素(僧俗)にこれを指南し給う方は、現法主上人にあらせられる」
 また云く
 「宗門未曾有の流行の相顕著なる現在も、王仏冥合の時と云える。此の時に感じて、法華講総講頭・池田大作先生が大願主となって正本堂を寄進され、日達上人猊下は今般これを未来における本門寺の戒壇たるべき大殿堂と、お示しになったのである。もしいまだ建物建立の時も至らずと考え、三大秘法抄の前提条件も整わないとして、前もって戒壇を建てるのは『時を待つ可きのみ』の御制誡に背くという意見があるとすれば、それは不毛の論に過ぎない」
 「三大秘法抄の戒壇の文全体に対し、今迄述べ来たった拝し方において当然いえることは、現在戒壇建立の意義を持つ建物を建てるべき時であるという事である。(中略)これに反対し誹謗する者は、猊下に反し、また三大秘法抄の文意に背くものとなる」
 このように、「法主」の権威をふりかざして三大秘法抄の御聖意を完全に破壊した上で、妙信講を指して「猊下に反し、三大秘法抄の文意に背くもの」と悪言を吐く。
 大聖人滅後七百年、宗内外を問わず、ここまで三大秘法抄をねじ曲げた悪比丘は未だ曽て見ない。佐渡御書には
 「外道悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし、師子身中の虫の師子を食む」
 とあるが、正系門家における「師子身中の虫」とは、まさしく教学部長・阿部信雄その人であった。そして池田は、この謗法の書を、学会組織内に広く配布した。
 
   阿部教学部長 辞表を提出
 
 池田大作の公場対決逃避を見て、私は、この上は全学会員に正本堂の誑惑と御遺命の正義を知らせるべきと決意し、妙信講の組織を挙げて文書を配布した。昭和四十七年六月十三日、宗務院から通告が来た。
 「妙信講は猊下の訓諭に敵対し、池田会長への公開法論申し入れを撤回しないのみならず、さらに文書配布に及んでいる。このことは解散処分に該当するゆえ、宗規の定めるところにより一週間以内に弁疏を提出せよ」と。
 「弁疏」とは云いわけである。御遺命を守り奉る者が、これを破壊せんとする者にどうして云いわけをする必要があろう。私は「弁疏」のかわりに、宗務院への強烈な諫状を認めた。その中でことに、確認書に立ち合いながら再び学会の走狗となって悪書を著わした阿部教学部長の破廉恥を真っ向から責めた上で、懺悔訂正を強く迫った。
 これで解散処分は必至と思われた――。ところが、思いもかけぬことが起きた。阿部教学部長はこの諫状を一読するや、直ちに早瀬総監と共に細井管長に辞表を提出し、いずくともなく行方をくらませてしまったのである。
 後年、阿部管長と抗争を始めた学会の暴露により判ったことだが、兵庫の有馬温泉に長く身を潜めていたとのことである。大聖人への叛逆を強く責められ、身も心もすくんでしまったものと思われる。
 
   細井管長 訓諭を訂正
 
 総監と教学部長が辞表を出したことで、宗務院は機能停止に陥った。事態を見守っていた池田大作は「この上は、日達上人に出て頂くほかはありません」と、浅井の説得を細井管長に懇願した。池田はまたしても猊座を楯として我が身を守ろうとしたのである。
 昭和四十七年七月六日、細井管長は東京吾妻橋の妙縁寺に下向され、私と対面された。
 これまでの経緯は細井管長こそよく知っている。大事の御遺命を守るべく、また学会の圧力から猊座を守るべく、妙信講が学会代表に署名させた「確認書」も細井管長の手もとに収められている。この護法の赤誠を裏切った後ろめたさがあったのであろう、この日の細井管長は、たいへん緊張しておられた。そしていきなり
 「きょう、私は死ぬ気で来ている」
 と切り出し、興奮の面持ちで「このような決意で来ているのだから何とかわかってほしい……」と、繰り返し事態の収拾を要請された。
 私は黙ってジーっとお聞きしていた。そして話の途切れたところで、静かに申し上げた。
 「私どもは愚かな在家、むずかしい御書・経文のことは全く存じません。ただし、堅く約束された確認書が弊履のごとくふみにじられた事は、道理とも思えません。そのうえ約束を破った学会・宗務当局はかえって『訓諭』を障壁として、妙信講に対し『猊下に背く者』と悪罵し、解散処分を以て威しております。このようなことは断じて許しがたき所行と存じます」
 細井管長はいわれた。
 「宗務院の早瀬と阿部はすでに辞表を出し、いま私が預っている。また確認書はたしかに私の手許にある。この事実を否定する者は宗門にはいない。今回、確認書の約束が破られたような形になったことは、まことに遺憾に思っている」
 そこで私は「訓諭」が御遺命に背いていることを、静かにゆっくりと、しかし言葉を強めて一々指摘申し上げた。
 詰められた細井管長は
 「実は、あの訓諭については、まずい所がある。後半の『即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり』という部分はまずかった。あれでは、最終の戒壇を前以て建てたことになってしまう。前半の『……現時における事の戒壇なり』で止めておけばよかったが、宗務院に付け加えられてしまった」
 と、暗に学会の意を受けた阿部教学部長が付け加えたことを示唆された。
 私は単刀直入に申し上げた。
 「では、ぜひ訓諭をご訂正下さい」
 さぞやお憤りと思ったところ、少考ののち、意を決したように
 「わかりました。訂正しましょう。しかしまさか訓諭を訂正するとはいえないから、訓諭の新しい解釈として、内容を打ち消す解釈文を『大日蓮』に載せましょう。その原稿は必ず前以て浅井さんに見せますから」
 と約束された。私はさらに申し上げた。
 「あの訓諭を笠に着て阿部教学部長は『国立戒壇論の誤りについて』を書き、それがいま聖教新聞に連載中ですが、すぐに中止させて頂きたい」
 細井管長の決断は早かった。傍らに侍る藤本庶務部長に
 「今すぐ学会本部に電話しなさい」
 と命じられた。連載は翌日から止まった。
 話が一段落した時、細井管長は松本日仁妙縁寺住職に命じて筆紙を取り寄せ、御自身の決意を二枚の「辞世の句」に表わし、一枚を立会いの松本住職に、同じく一枚を私に下さった。
 
七月十九日、細井管長は約束どおり訓諭の訂正文の原稿を、総本山で見せて下さった。その内容は学会への配慮から、曖昧な表現が多かったが、重要な部分は確かに訂正されていた。
 すなわち正本堂を御宝蔵・奉安殿と同列に扱い、肝心の御遺命の戒壇については
 「一期弘法抄、三大秘法抄の事の戒壇は甚深微妙の事の戒壇で、凡眼の覚知の外にあるのであろう」
 として、曖昧ではあるが、それが正本堂ではないことを述べている。私はこの文意を幾たびも確認申し上げると、細井管長は口頭では明確に
 「正本堂は、三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命の戒壇とは、全く違います」
 と、くり返し云われた。そこで私は、文意を明確にするために二・三の文言の修正を願い出た。細井管長はかたわらの藤本庶務部長を顧みつつ了承して下さった。そして「この『解釈文』は宗門機関誌『大日蓮』八月号に掲載する」と約束された。
 だが、またしても学会の圧力に細井管長は屈してしまったのである。実は学会首脳部(北条・秋谷・原島・山崎)はこの会談を一部始終盗聴していたのだ。そして北条浩副会長が直ちに総本山へ上り、「解釈文を出されるのは結構だが、その内容によっては大変なことになる」(山崎正友「盗聴教団」)と威したのであった。
 
 八月十二日、細井管長は再び妙縁寺に下向され、憔悴し切った面持で私に告げられた。
 「先日の約束は取り消します。もう私にはどうにもならない……」
 これを聞いても、私はもう驚かなかった。これが宗門の実態であった。管長として一たび正本堂の誑惑を許した以上、こうなって当然だった。所詮、元凶の学会を抑える以外に解決はあり得ない。
 私は申し上げた。
 「学会の代表と会って決着をつけたいのですが、なんとか猊下のお力で、学会に出てくるよう、お申しつけ頂けないでしょうか」
 細井管長はうなずきながら
 「わかりました。なんとか私から云いましょう。どうか、あなたが、学会代表と話し合って解決して下さい」といわれ、早々に妙縁寺を退出された。
 
   学会代表と法論
 
 細井管長は直ちにこの旨を学会に伝えた。しかし学会からは何の返事もない。
 私が最も恐れていたのは、池田がこのまま「戒壇の大御本尊」の御遷座を強行することだった。学会は妙信講との間では内密に訂正したものの、その事実を公表していない。よって学会員も世間も誑かされたままになっている。そのうえ池田は多くの来賓を落慶式に招くことを聖教新聞で誇らしげに発表していた。
 このような誑惑の殿堂に御本仏の御法魂を遷し奉ることは、断じてあってはならない。すでに落慶式は一ヶ月余に迫っている。私は池田会長にあて書状を急送した。その趣旨は
 ①直ちに誑惑の訂正を公表し、正本堂の意義を如法に正すこと ②来賓を招くとも、不信の輩は正本堂の中に入れぬこと ③訂正がなされぬうちは、断じて戒壇の大御本尊の御遷座をしないこと――の三ヶ条を強く求め、池田会長との早々の面談を申し入れたものである。文末には「もし御遷座を強行するならば、妙信講は護法のゆえにこれを阻止、ただ一死を賭して在家の本分に殉ずるのみ」と記した。
 
 九月六日、学会から返書が来た。彼等も事ここに及んでは妙信講との対論を回避できぬと観念したのであろう。理事長・和泉覚の名で「猊下の御指示のとおり、整然と話し合いたいと望んでおります」といってきた。
 かくて十月十二日の正本堂落成式を眼前にして、最後の法論が常泉寺において、九月十三日より同二十八日までの間、七回にわたって行われた。
 学会代表は秋谷栄之助副会長、原島嵩教学部長、山崎正友弁護士の三人。しかし学会側には、さらに後方部隊が控えていた。後日、脱会した山崎正友が告白した「盗聴教団」によれば
 「この対論の間中、会場から道を隔てて向かい側の学会員宅の一室で、受信機と録音機を囲み、広野輝夫、竹岡誠治、桐ヶ谷章(弁護士)、八尋頼雄(弁護士)、T・K(検事)らが、私が会場に持ち込んだアタッシュケースに仕かけた発信機から送られる会話に息をひそめ耳をそばだてて聞いていた。彼らは、もし私たちの発言にきわめてまずいことがあればチェックし、途中で僧侶に頼んで会場にメモを入れて注意を喚起するという役割のほかに、対談内容を分析して、その夜、私たちとの打ち合わせの席で、問題点を指摘するなどの役割を担当していた。一日たてば、テープから速記録が起こされ、私たちの手元に届けられて、次の戦いの準備に役立った。妙信講問題に関する私たちの参謀役には、そのほかに、福島、吉村、会田宣明、高井康行、大竹健嗣(各検事)氏らが参加した。(中略)こうした背水の陣の中で、激しい論戦が妙信講と学会の間に闘わされた」とある。
 ちなみに文中の「T・K(検事)」とは、当時検事で現公明党代表の神崎武法といわれる。同じく「竹岡誠治」とは、謀略グループ山崎師団のメンバーで、「妙信講作戦」の一員として妙信講本部ならびに私の自宅盗聴を実行し、また宮本顕治・日本共産党委員長宅電話盗聴事件では実行犯として確定判決され、さらにいま話題になっている「ヤフーBB」のデータ流出・恐喝未遂事件で本年二月、主犯格で逮捕された男である。
 
 法論開始に先立ち、宗門側として千種法輝宗務支院長が趣旨説明をした。支院長は極度の緊張のためか、メモを持つ手が小刻みに震えていた。「どうか、話しあいは整然と行なって頂きたい。お互いにテープを取らぬこと。なお正本堂の落慶式は宗門の行事として総本山が行うものであり、学会は関係ない」とだけ述べると、そそくさと退席した。法論と関係なく落慶式を行うのでは、法論の意味がなくなる。私は秋谷に云った。
 「この法論の結論が出るまで、絶対に大御本尊を御遷座申し上げてはならない。そのための対論ではないか」
 秋谷は云った。
 「落慶式は宗門のおやりになることだし、また十月十二日までに結論が出なければ、どうしようもない」
 彼等は明らかに時間切れに持ちこむ戦法であった。私は云った。
 「では、十月十二日までに決着をつけよう」
 いよいよ両者背水の陣の激しい論判が開始された。御遺命の戒壇とはいかなるものかを判ずる唯一の準拠は三大秘法抄であれば、まず三大秘法抄の文々句々の意の確認から入った。しかしこの確認も、相互の見解を述べるだけでは水掛け論に終わってしまう。勝負を決しなくてはならない。だが彼等は時間切れを狙って出来るだけ論議を延ばそうとしている。相手は三人、こちらは一人。一人が詰まれば他の二人が口を出す。それを一々に詰めては承伏させ、承伏させては論を進めた。そのような中で、彼等は形勢不利とみれば、予定時間を理由に、その日の論議を打ち切ることもしばしばあった。
 途中、激論のすえ「これで決裂、では奉安殿の前で会おう」というところまで行ったこともある。しかし対論第六回の二十七日に至り、ついに決着がついた。屈伏した彼等は、聖教新聞紙上に訂正文を掲載することをついに応諾したのであった。
 後日、原島はこの時の対論について、こう述懐している。
 「こうした大前提(猊下が訓諭の訂正文を出したこと)がくつがえっている以上、こちらに有利なはずがありません。悪戦苦闘でした。しかし池田先生は私たちをかばって下さり、『宗門には八分通り勝っているからと云っておいたよ。わざとよ』と云っておられました」(池田大作先生への手紙)と。
 
   「聖教新聞」で誑惑訂正
 
 訂正の案文は原島が作った。その主要部分は
 「現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって正本堂は猶未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。故に正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、御遺命は達成されてしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである。また、この正本堂には信心強盛の人のみがここに集いきたり、御開扉を願う資格がある。したがって正本堂は広宣流布のその日まで、信徒に限って内拝を許されることはいうまでもない」と。
 これまで学会は正本堂を指して「三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇」といい、この建立を以て「御遺命は成就、広宣流布は達成」と云い続けてきた。今その誑惑を自ら「誤りである」と明言したのである。また「正本堂には信心強盛の人のみが」以下は、正本堂を奉安殿の延長と規定したものである。明らかな訂正であった。
 私はこの文を池田会長の名を以て公表するよう求めた。三人は沈痛な面持でうつむいてしまった。やがて原島教学部長が哀願するように「それだけは弟子として忍びない、私達は生きては帰れない。なんとか和泉理事長の名で……」と云った。
 もとより辱めることが目的ではない。私は原島の心情を汲み、武士の情としてこれを了承した。原島は涙を浮かべ両手をつき「有難うございました」と頭を下げた。
 かくて訂正文は約束どおり、十月三日の聖教新聞第一面に掲載された。誑惑は辛じて阻止されたのであった。
 
   戒壇の大御本尊 御遷座
 
 昭和四十七年十月七日、戒壇の大御本尊は奉安殿より正本堂に御遷座された。
が、その時の空気には、なにか訝しさが感じられた。何を恐れてか、人目を憚るごとく、隠密裡に行なっているのだ。もし十月三日の誑惑訂正が池田の衷心より出たものなら、御遷座を誰に憚ることがあろう。しかるに、妙信講の目を恐れるごとく、密かにこれを行っている。その理由を当時は、窺い知るよしもなかったが、後にわかった。
 実は池田大作は、十月十二日の正本堂落成式において、腹心の福島源次郎副会長を通して、参詣の全学会員に対し
 「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」
 と伝えていたのであった。離反した後の原島が、「池田大作先生への手紙」と題して著わした書には、その時のもようが次のように述べられている。
 「一〇月一二日の正本堂落慶奉告大法要が営まれました。(中略)ところが、法要が終わってから、ある一件が起きたのです。下山のバスの乗客に池田先生のご伝言が伝えられました。『本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう』(中略)私は、それをいちはやく聞くや、すぐに手を打つことを考えました。しかし、バスはほとんど出てしまっていたのです。これがもしも妙信講の耳に入ったら大変です。その後の諸行事に不測の事態が起こらないとは限りません。(中略)また、理事長談話として社会への公表を裏切ることになります。また会員は広宣流布の目標を失ってしまうことにもなりかねません。たとえ池田先生の言葉でありましても、これは阻止しなければならないと決断いたしました。バスが到着するところに幹部を待機させ、それを一切打ち消すように、首脳に手配していただきました。私も若気のいたりで、真剣さのあまり少々感情が高ぶっていました。先生の伝言をそのまま伝えたのは、ある首脳でした。私はその人に『責任をとれ』といいました。しかし、そのことが池田先生の逆鱗にふれてしまいました。雪山坊の一階ロビーで『責任をとれとは何だ!正本堂は御遺命の戒壇ではないのか』等々、烈火のような先生の怒りは周りの人々にさえ恐怖感をいだかせたようです。私はせめて『ただ先生をお守りしたいばかりに』というのがせいいっぱいでした。『オレなんか守らなくたっていい、私は牢にいくことも辞さない男だ』(中略)牢に行くことも辞さない決意であることは結構だとしても、それが日蓮正宗の法義にそむくものであったら、その決意は到底容認できることではありません。しかし私は愚かにもそのときはただ先生のすごい気魄に圧倒されてしまいました。そのあとで首脳その他の人々が雪山坊の三階に集合したときも、池田先生は同じように、今度はねちねちと私を総括されました。(中略)しかし、このときばかりは、先生ご自身の力で七百年の悲願を達成したのだぞ、とのお心が見え見えでした。いかに会員のためとはいえ、日蓮正宗の根本法義に関わり、かつ社会に公表したことに対し、これとは全く逆のことを口コミで流すということは、決してなさるべきではありません」と。
 これが池田の本心だった。彼は昭和四十七年の正本堂完成を以て「御遺命は成就、広宣流布は達成」と宣言したかったが、妙信講の諫暁によって阻止された。その鬱憤を、このような形で晴らしていたのだ。
 もう一つ驚くべきことがわかった。池田は十月一日に行なった正本堂完工式において、なんとローマ法王庁から二人、米国から二人、計四人のキリスト教神父を招き、法要の最前列に座わらせていたのである。ノーベル平和賞を狙っての工作であった。
 まさにこの穢れた正本堂に、戒壇の大御本尊は居えられ奉ったのである。もし邪法の神父で穢した事実が妙信講の耳に入ったら重大なことになる――これが隠密裡に御遷座を行なった理由であった。戒壇の大御本尊に対し奉るこの背筋の凍るような不敬冒涜。私がこの事実を知ったのは、二年後の昭和四十九年夏であった。
 
    第三次諌暁
 
 昭和四十九年四月三十日、妙信講は久々に総本山への参詣登山を願い出た。ところが、宗務院の早瀬総監から伝えられた返事は、思いもよらぬものであった。
 「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない。これは猊下の意向である」と。
 国立戒壇の御遺命を守るために正本堂の誑惑を訂正せしめた妙信講に対し、「国立戒壇を捨てよ」とは何ごとか。これが池田の意向たることはいうまでもない。
 国立戒壇を捨てて御登山をして、大聖人はお喜び下さるか。かえってお叱りを受けるに違いない。私は講の安穏よりも、大聖人への忠誠を選んだ。
 「御遺命守護の御奉公は未だ終らず」――私は全講員に決意を伝え、これより、国立戒壇の正義を徹底して全学会員に知らしめるべく、解散処分覚悟の大規模な戦いを開始した。
 
   解散処分下る
 
 昭和四十九年八月十二日、覚悟のごとく、ついに妙信講に解散処分が下された。その宣告書には
 「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた訓諭に対して異義を唱えたゆえ……」とあった。
 私はこの宣告書を手にしたとき
 「大事な御遺命が破壊されんとしているとき、妙信講が安穏であってはいかにも大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ。御遺命を守るに懈怠の弟子、ゆるき弟子とのお叱りだけは免れる」との思いが胸に湧いた。
 
   悪罵の嵐
 
 解散処分以後の細井管長の言動は破廉恥の一語につきた。それは毒を食らわば皿までの浅ましさであった。たとえば、学会に指示されるままに、「元妙信講員の皆様へ」と題した脱講を勧める直筆の手紙を書いて講員に送付したり、あるいは本山に法華講連合会の幹部を集めて「訓諭以外に私の本心はない。国立戒壇というのは本宗の教義ではない。法華講連合会は妙信講と戦え」などと恥知らずの檄を飛ばした。 阿部教学部長もまた二冊目の悪書「本門事の戒壇の本義」を書いた。これは先の「国立戒壇論の誤りについて」に輪をかけた破法の書で、三大秘法抄をさらに曲会して「勅宣・御教書」を「建築許可証」などと云い、「国立戒壇を主張する浅井一派は身延系・田中智学の亜流」とまでの悪言を吐いた。
 そのような中でも、御遺命の正義に耳を傾ける僧侶、学会員、法華講員は少なからずあった。不安にかられた池田は、宗門・学会・法華講のそれぞれの議決機関に、妙信講を非難する決議をさせ公表させた。決議の趣旨は
 「御法主日達上人猊下の『戒壇』についての御説法に背く者は、師敵対の大謗法者である」
 というものであった。これを承けて八百万学会員、数万の法華講員は、目を瞋らし歯を剥き「浅井は猊下に背く大謗法者」と口々に罵った。
 
   御在世の信心
 
 だが、このような理不尽な解散処分、悪罵中傷にも妙信講は微動もしなかった。この悪罵の嵐の中で、私は
 「今こそ御在世の信行に立ち還り、戒壇の大御本尊を遙拝し奉る遙拝勤行で、死身弘法を開始しよう」
 と全員に呼びかけた。普通の信徒団体ならば解散処分を受ければ潰滅して当り前、まして本山登山も叶わず、御本尊の下附もなくて、どうして折伏弘通などできようか。
 しかし妙信講には、この大難を機に、熱原の法華講衆のごとき御在世の信行が蘇ってきたのである。――御在世には、入信してもたやすくは御本尊を頂戴できなかった。また熱原の方々は大聖人にお目通りすることも叶わなかった。だがその身命も惜しまぬ純粋熱烈の信心は大聖人の御意に叶い、戒壇の大御本尊の「願主」となったのである。この御在世の信心が、解散処分を機に、澎湃として妙信講に湧き上がってきたのである。このとき講員数は一万二千であった。
 
   学会・宗門に亀裂
 
 この頃より、不思議にも学会・宗門に亀裂が生じてきた。「有徳王・覚徳比丘」を気どって一体のごとくに見えた池田・細井の両人に、疑心暗鬼が生じ、抗争にまで発展したのである。
 発端は池田大作の憤懣にあった。彼は細井管長が浅井と会うたびに心変わりしたことに、憤りを懐いていた。それが正本堂完成以後、爆発したのだ。池田は細井管長に思い知らせようと、経済封鎖に出た。総本山の維持は学会員の登山供養によって成り立っている。この「月例登山」を、池田は激減させたのだ。たちまち本山には閑古鳥が鳴いた。
 さらに池田は、正本堂建立一周年記念法要において、法要帰途の細井管長をつかまえ、多くの学会員の面前で、「恩しらず」と罵ったうえ「十億円を学会に寄附してほしい」と威した。なぜ、このようなことをしたのかを、池田は側近の原島嵩教学部長にこう述べている。
 「あのとき、なぜ怒ったかといえば、妙信講のとき、猊下はあっちについたり、こっちについたりしたからだ。覚えておけ!」(原島嵩「池田大作先生への手紙」)と。
 まさに御遺命守護の諫暁が、この自界叛逆をもたらしたのであった。抗争が始まるや、細井管長のもとには二百余名の活動家僧侶が集まり、「学会と手を切るべし」と気勢を上げた。この反学会僧侶グループが後の「正信会」となる。
 このように反学会の機運が宗門に盛り上がるなか、ひとり阿部信雄教学部長だけは「法主」の動静を池田に密告していた。彼は「妙信講作戦」以来、池田の〝御庭番〟になっていたのである。
 
   細井管長 急死
 
 学会・宗門の抗争は、「法主」を旗印とする反学会僧侶らの活動により、初めは宗門側が有利であった。池田は形勢不利と見て、法華講総講頭ならびに創価学会々長の職を辞して恭順を装い、反撃の機を窺った。
 この抗争に疲労困憊した細井管長は、病を得て総本山近くのフジヤマ病院に入院した。しかしほどなく回復し、明日は退院という昭和五十四年七月二十二日午前五時、突如として激甚の発作に襲われ、貫首としてなすべき事もなせず急死を遂げてしまった。
 「一切は現証には如かず」(教行証御書)との仰せを拝するに、この臨終のさまは、まさしく御遺命違背の罰という以外にはない。
 
    第四次諌暁
 
   阿部日顕管長の登座
 
 細井日達管長の急死は宗門全僧侶に衝撃を与えた。その不安と混乱の中、阿部信雄総監(当時)が「実は自分が内々御相承を受けていた」と自己申告して、管長急死で茫然自失に陥っていた一山大衆を尻目に、猊座に登り「日顕」と名乗った。まさに一瞬の出来事だった。池田と心合わせであったことは自明である。
 阿部日顕管長が登座するや、池田大作は声を大にして「御法主上人猊下を断じてお守りする」と繰り返した。阿部管長も池田を「広布の指導者」と讃え、二人の癒着はいよいよ堅くなった。
 
   「早く遷座し奉るべし」
 
 登座四ヶ月後、私は諫暁を開始した。細井日達管長に対する諫暁は、正本堂の誑惑を訂正せしめることにあったが、阿部日顕管長への諫暁は、誑惑・不浄の正本堂に居えられ奉っている大御本尊を、早く元の奉安殿に還し奉れと迫るにあった。ゆえに第一回の諫暁書の末文には
 「阿部管長には早く改悔し、速かに正本堂より奉安殿に大御本尊を御遷座申し上げ、以て誑惑を清算、違背の大罪を償われんことを」と記した。
 ――国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、国立戒壇を否定するために建てた正本堂に居え奉っているのである。大御本尊を辱め奉ることこれより甚しきはない。御本仏の法魂いかで安穏に住し給うべきと思えば、私は一日として心安き日はなかった。以後、阿部管長への諫暁を連々と進めた。
 
 解散処分以後もたゆむことなき妙信講の死身弘法は、昭和五十七年秋には六万人に達した。これを機に、日蓮正宗妙信講の名称を「日蓮正宗顕正会」と改めた。「顕正」とは、御遺命の正義を顕わす意である。御本仏の御遺命を奉じて一国に国立戒壇の正義を顕わす団体は、もう他には断じてあり得ない。ゆえにその使命を表わす名称を用いたのである。
 
   「本門寺改称」へ二人三脚 
 
 阿部管長の就任により、学会と宗門の亀裂は完全に修復された。昭和五十七年十月には正本堂建立十周年記念法要が本山で行われ、席上、阿部管長は、正本堂が百六箇抄の「富士山本門寺本堂」に当るかのようなたばかりの説法をするとともに、池田大作の功を讃えて「賞与本尊」を授与した。さらにその二年後の一月二日には、池田を、細井日達管長との抗争で辞任した「法華講総講頭」職に復帰させている。この一月二日は、池田の誕生日である。
 その二ヶ月後の昭和五十九年三月、本山で「大石寺開創七百年記念準備会議」が開かれた。この会議こそ、「本門寺改称」という大それた陰謀のスタートであった。会議の席上池田は、阿部管長に「新寺院二百箇寺」の建立寄進を申し出た。――ここに細井管長の時よりもさらに濃密な癒着、悪の二人三脚が、始まったのである。
 
 「本門寺改称」の陰謀とは、大石寺の名前を「本門寺」と改称しようとの企みである。本来「本門寺」とは、広布の暁の国立戒壇を指すことは一期弘法付嘱書に明らかである。ところが池田は、偽りの広布達成を宣言した上で、大石寺を「本門寺」と改称しようとたくらんだのである。
 その目的は、この改称が実現すれば、大石寺の正本堂がそのまま本門寺本堂ということになり、百六箇抄の「富士山本門寺本堂」すなわち一期弘法付嘱書の「本門寺の戒壇」を偽わることができる。このとき正本堂の誑惑は完結する――これが池田の凄まじき執念ともいうべき、最後の陰謀であった。
 昭和四十七年の正本堂訓諭に「正本堂は広宣流布の暁には本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」とあったのは、実にこの伏線であった。池田は顕正会を解散処分にした三月後もう邪魔者はいないとばかり、この「本門寺改称」の企てを創価学会総会(昭和四十九年十一月十七日)において、細井日達管長に発表させている。席上、細井管長は
 「本門事の戒壇・正本堂の建立されたことは、ひとえに池田先生の庇護によるものと深く感謝する」
 と謝意を表明した上で
 「日本国の広宣流布はいつかといえば、日本国の三分の一が入信したときこそ広宣流布したといえる。その時には、我が大石寺を、大聖人御遺命の富士山本門寺と改称することもあり得ると信ずる」(取意、大日蓮・昭和50年1月号)
 と述べている。細井管長は池田の指示のままに、広宣流布を「三分の一が入信したとき」とたばかった上で、「本門寺改称」の企みを、この日始めて口にしたのであった。
 この説法を承けて、阿部信雄教学部長(当時)はこう云った。
 「御法主上人猊下には、日本全民衆の三分の一が入信した時は広宣流布であり、その時、本門寺と称することもありうるという、広宣流布の一大指針を御指南あそばされました。(中略)吾々は、法主上人の鳳詔を更に深く心に体し、本門寺実現の大目標をめざし、邁進致そうではありませんか」(大日蓮・昭和50年1月号)と。
 「本門寺改称」はこのとき、宗門の「大目標」となったのだ。しかしその後まもなく前述の宗門・学会の抗争が起きて一時中断。そして阿部日顕管長の登座により、再びこの陰謀が動き出したというわけである。
 池田にとって日本国三分の一の入信などという欺瞞は、何時でも発表できる。彼はこの偽りの宣言を、大石寺開創七百年に当る「昭和六十五年」(平成二年)と定め、この年の御大会式に本門寺改称を実現しようと企んでいた。
 
 もしこの陰謀が強行されれば、御本仏の御遺命は完全に破壊される。よって昭和六十三年八月、私は顕正会の総幹部会において、始めてこの陰謀を全顕正会員に知らしめた。
 「顕正会が日蓮正宗にある限り、このような誑惑の完結は断じて許さない。いや、大聖人様がお許しにならない。(中略)不思議にも顕正会の二十万法城は、池田が狙いをつけている昭和六十五年の前半に成しとげられる。これこそ、大聖人様が顕正会をして戦わしむる御仏意である」と。
 翌六十四年は改元されて平成となる。池田は大石寺の大客殿前に大広場を造成して、一年後に迫る「本門寺改称」の式典に備えた。
 この大広場造成のため、広布の暁に勅使が通る門として、七百年来大客殿の正面前に在った「不開門」が取り払われ、日興上人お手植の老杉も切り倒された。かくて中国の天安門広場とも見まごうばかりの大広場が完成した。
 池田はこの大広場で、外国の元首等を「梵天・帝釈」に見立てて招待し、正本堂の落慶式にも勝る大規模な儀式を予定していた。そのスケジュールは、平成二年九月に「大石寺開創七百年記念文化祭」を開催して広布達成を宣言し、翌十月の慶祝法要で「本門寺」の寺号公称を阿部管長に発表せしめるというものだった。この儀式こそ、池田大作の一世一代、最後の大芝居であった。
 
   「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」 
 
 いよいよ本門寺改称実現の平成二年を迎えた。この年の四月、顕正会の弘通はついに二十万に達した。私はこの死身弘法を背景として、心血を注いで「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する長文の一書を認めた。
 この書は、阿部管長が著わした「国立戒壇論の誤りについて」等の二冊の悪書の邪義を一々に挙げ、その誑惑の根を完全に断ち切ったものである。その末文に云く
 「しかるに今、国立戒壇に安置し奉るべしとて大聖人が留め置かれた戒壇の大御本尊は、国立戒壇を否定するための誑惑の殿堂、邪法の神父を招いて穢した不浄の正本堂に居えられ奉っている。大聖人を辱め奉ること、これより甚しきはない。御法魂いかで安穏に住し給うべき。宗開両祖の御悲憤を思いまいらせれば、その恐れ多さ、ただ背筋の凍るをおぼえるのみ。この重大なる不敬を謝し、御遺命違背の大罪を償う道はただ一つ。速かに戒壇の大御本尊を清浄の御宝蔵に遷座し奉り、誑惑の正本堂を撤去すること――これ以外には断じてなし。而してこれを為すべき責務と、為し得る権限は、ひとり阿部管長の一身にある。もし顕正会の言を軽んじて一分の改悔なく、さらに『本門寺改称』などの悪事を重ねるならば、現当の大罰いかで免れようか。顕立正意抄に云く『我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず』」と。
 この諫暁書は阿部管長の心に怖畏を生ぜしめた。
 さらに七月には、顕正会員二万人を結集した大総会を横浜アリーナで開き、私は全員に訴えた。
 「もし池田大作が本門寺改称を強行するならば、そのとき、全顕正会員はこぞって大石寺に総登山すべきである。二十万顕正会員が、戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋めつくし、信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕しようではないか」
 二十万顕正会員の必死護法の決意は、池田の心胆を寒からしめた。彼は予定していた来賓招待を一斉にキャンセルし、記念文化祭の規模縮小を、秋谷会長を通して宗門に連絡してきた。
 「来る九月二日の大石寺開創七百年慶祝記念文化祭については、顕正会がデモをかけてくるとの噂があるので、規模を縮小したい」と。
 この通告どおり、記念文化祭は広布達成の宣言もなく、小規模で無意味なものに萎んでしまった。 
 
   再び自界叛逆おこる 
 
 そして不思議なことが起こった――。
 あれほど一体のごとくに見えた池田大作と阿部管長の間に、またも細井管長のときと同じような疑心暗鬼が生じてきたのである。池田は阿部管長が顕正会の諫暁により変心することを恐れ、圧力を加えた。その手口も、細井管長の時と同じく「月例登山」を激減させることだった。加えて二百箇寺の建立計画をも意図的に遅らせた。だがこの圧迫は、かえって阿部管長を憤激させた。
 このような中で、平成二年十月十二日、いよいよ大石寺開創七百年慶讃法要が行なわれた。企みのごとくならば、この席で「本門寺改称」が阿部管長より公表されるはずであった。が、阿部管長は読み上げた慶讃文の中で、わざと池田に当てつけるように
 「大本門寺の寺号公称は、広宣流布の未来にある」(取意)
 と述べた。この裏切りを眼前にして、池田大作は怒り心頭に発した。――これより「修羅と悪竜の合戦」(報恩抄)そのままの、醜悪にして凄絶なる大抗争が始まった。
 池田は阿部管長を猊座より引きずり降ろそうと「ニセ法主」「法滅の法主」「天魔日顕」「極悪日顕」などと悪罵を繰り返し、阿部管長の醜聞を次々と暴きたてた。対する阿部管長は、その年の十二月に池田の法華講総講頭職を剥奪、ついで創価学会を破門、さらに池田大作を信徒除名処分にした。 
 
   罪を池田に着せる 
 
 この抗争の中で、正本堂についての阿部管長の姿勢は卑劣そのものだった。共犯的な立場で正本堂の誑惑を進めてきたにもかかわらず
 「正本堂を三大秘法抄の戒壇と云い出した一番の元は池田大作だ。宗門は巻きこまれただけだ」(大日蓮・平成3年2月号)
 などと罪を池田ひとりに着せ、己れは被害者のような顔をした。
 その一方で正本堂の建物自体には強く執着し、平成三年の虫払法会の説法ではこう云っている。
 「本宗信徒一同は、正本堂の世界に冠たる素晴らしい建物を仰ぎつつ、その然るに至った広布の相よりして、日達上人の仰せの如く、三大秘法抄の意義を含む大功徳が存すること、かつ、戒壇の大御本尊まします故に現時における本門事の戒壇であり、(中略)常に参詣し、懺悔滅罪すべきであります」
 この発言は、正本堂を看板にして多くの学会員を取り込もうとの、卑しき心算から出ている。阿部管長には池田への憎悪はあっても、大聖人に対し奉る懺悔はなかったのである。
 翌平成四年十一月、顕正会の三十万達成を機に、私はこれで最後との思いで諫状を送った。その冒頭に云く
 「本門戒壇の大御本尊が誑惑不浄の正本堂に居えられ奉ってよりすでに二十年――。その間、顕正会の連々たる諫暁により誑惑すでに破れたるにも拘らず、阿部管長には未だに大御本尊への不敬を解消し奉らぬこと、痛憤に耐えぬところであります。御本仏この無道心を見て、いかに悲憤あそばし給うか」
 そして末文に云く
 「直ちに戒壇の大御本尊を清浄の御宝蔵に遷座し奉るべし。御遷座こそ誑惑の完全なる清算なり」と。
 しかし阿部管長は動かなかった。
 ここに平成七年一月、阪神大震災が発生し、日本の安全神話は覆った。正本堂は二万トンの屋根に覆われた危険な建物である。私は即刻「建白書」を認めた。
 「もし戒壇の大御本尊に万一のことがあれば、ことは仏法の破滅、全人類の破滅、これ時に当って一閻浮提第一の大事であれば、敢えて強言を構え、直諫するものであります」「もしこの重大の諫めをなお蔑り無視するならば、御書に云く『法に過ぐれば罰あたりぬるなり』と。すでに御身の亡びること眼前なること、最後に念告するものであります」と。
 だが、阿部管長はなお動かなかった。この上は、諸天の責めを待つほかはなかった。 
 
   一国諫暁に立つ 
 
 平成九年六月、全顕正会員の赤誠の弘通は五十万に達した。そしてこの年の春、御在世以来の最大といわれる大彗星が出現した。私は日本の亡国を憂え、「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」の一書をしたため、謹んで本部会館の御宝前に一国諫暁に立つ旨を奉告申し上げた。その奉告文に云く
 「しかしながら、御法魂たる本門戒壇の大御本尊が未だに誑惑不浄の正本堂に居えられ奉っていること、その恐れ多さを思えば身は縮み、未だ御奉公の足らざること、己れの非力、ただ愧じ入るばかりであります」
 この申しわけなさを懐きつつ、一国諫暁に立ったのであった。
 
 この諫暁をなすに当って、これまで「日蓮正宗」を冠していたのを、「冨士大石寺顕正会」と改めた。
 そのわけは、すでに「日蓮正宗」は国立戒壇の御遺命を放棄している。また学会との醜い抗争で国中の嘲りを受けている。どうしてこの宗名を冠して一国諫暁ができようか。よって日蓮正宗の源流たる日興上人・日目上人の清き流れを表わす「冨士大石寺」を冠して立ったのである。
 ちなみに富士大石寺が「日蓮正宗」の宗名を用いたのは、大正元年以降のわずか八十数年に過ぎない。そしてこの八十数年において、僧侶の妻帯・職業化等、今日の腐敗堕落の気運が醸成されたのであった。「すべからく清らかな源流に戻るべし」――この思いから「冨士大石寺顕正会」と名乗ったのである。 
 
   不思議の還御 
 
 顕正会の諫暁が広く一国に進む中にも、「修羅と悪竜の合戦」は際限もなく、外聞も憚らず繰り広げられた。
 一国諫暁よりほどなくして、阿部管長は醜聞をめぐる名誉棄損で、学会を相手に自ら起こした裁判において、思いもかけず法廷に引きずり出されてしまった。
 尋問するは学会の弁護団、彼らは嬲るように阿部管長を辱めた。出廷は三たびに及ぶ。この辱めに、阿部管長の憤怒は極限に達した。
 このとき、阿部管長の胸に報復の思いが湧いた。それは、池田が「仏教三千年史上空前の偉業」と誇り、創価学会のシンボルともなっていた正本堂を取り壊わすことだった。――この凄絶な自界叛逆こそ、まさしく諸天の働きであった。
 
 平成十年四月五日夕刻、突如として本門戒壇の大御本尊は、誑惑不浄の正本堂から元の奉安殿に還御あそばされた。凡慮を絶する不思議とはこのことである。
 細井管長は正本堂の意義を定めた訓諭の中で「後代の誠証となす」と壮語し、正本堂に大御本尊を居え奉るときには「この正本堂に大御本尊を永久に安置する」と公言していたではないか。また池田大作も正本堂の記念品埋納式において、落慶法要に着用した細井管長の法衣と自身のモーニングを正本堂の地下室に納め、「三千年後、一万年後にこの地下室を開ける」と豪語していたではないか。
 しかるにいま凡慮を絶して、戒壇の大御本尊は不思議の還御をあそばしたのである。そして正本堂は諸天の鉄槌によって打ち砕かれ、その姿を地上より永遠に消したのであった。
 
 還御の五日後、顕正会は御遺命守護完結奉告式を奉修した。私は本部会館の御宝前に進み出て、謹んで大聖人に言上申し上げた。
 「大聖人様――。本門戒壇の大御本尊が恐れ多くも誑惑不浄の正本堂に居えられ奉ってより今日まで、実に二十六年の長き歳月が流れました。しかるところ、嗚呼ついに、本年四月五日の午後四時、大御本尊は、清浄なる奉安殿に還御あそばされました」
 あまりの不思議、あまりの有難さ、参列の全幹部は感涙をしたたらせ、嗚咽は場内に満ちた。
 まことにまことに、大聖人は御遺命破壊の大悪を許し給わず、ゆえに顕正会をして立たしめ諫暁せしめ、諸天をして自界叛逆を起こさしめ、ついに堂々と還御あそばし、御遺命違背の正本堂をも摧き給うたのであった。 
 
   改悔なき輩 
 
 しかし、正本堂がこのように仏意により消滅しても、魔の入った池田大作、ならびに信心うすき阿部管長には懺悔がなかった。彼等は互いに相手を憎悪し争うとも、ひとたび捨てた「国立戒壇」だけは、その後も共に頑なに否定し続け、「国立戒壇は御書にない」「国立戒壇は田中智学が言い出した」などという。もし「国立戒壇」を認めれば、己が犯した御遺命違背の大罪が露わになるからだ。これを無慚の人という。
 やがて正系門家は仏意により、必ず御在世の清らかな信心に立ち還る。しかし今、このように正系門家が無慚に御遺命に背いていることは、日本の命運に重大な影響を与える。
 「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば、影ななめなり」(富木抄)
 の仰せを拝すれば、まさしくこの正系門家の濁乱こそ、日本に亡国をもたらすもの。広布前夜に起きる異常事態なのであろう。
 以上、学会の御遺命違背について説明した。次に第二の違背について述べる。 
 
  ▼ 本門戒壇の大御本尊を蔑如 
 
 誑惑不浄の正本堂に戒壇の大御本尊を居え奉るほどの池田大作であるから、戒壇の大御本尊への信は始めからなかったものと思われる。
 池田が、正本堂の完工式にローマ法王庁の神父二人を招いたことは前に述べたが、驚くべきは、彼はこの招待工作を、正本堂完工の数年前から行なっていたことだ。そのルートは、ローマ法王庁の「信徒評議会」の評議員であり、上智大学名誉教授の安斉伸であった。 
 
   「偏狭にこだわらない」 
 
 池田は初めて安斉伸と会った際、ローマ法王庁への諂いを込めて、戒壇の大御本尊にこだわらない旨を伝えている。しかも池田はこれを喜んだ安斉が後日、学会の山崎尚見副会長に述べたという言葉を、自ら自慢げに学会幹部会で発表している。
 「名誉会長と初めてお会いした時のことは、いまだに忘れることはできません。(中略)名誉会長が、永遠の根源を求めておられ、板漫荼羅に偏狭にこだわっておられないことに、非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た思いでした。以来、学会への協力を決意し、今日にいたっております」(聖教新聞・平成5・5・5)と。
 なんとローマ法王庁・信徒評議会議員に、「戒壇の大御本尊にこだわっていない」ことを、ほめられているのである。
 「法華経より外に仏に成る道はなしと強盛に信ずる」(撰時抄)を法華経を信ずるとはいうのである。この仰せに準ずれば
 戒壇の大御本尊より外に仏に成る道はなしと強盛に信ずるを、はじめて戒壇の大御本尊を信ずる、とはいうのである。しかるに池田大作は「偏狭にこだわらない」という。これ、戒壇の大御本尊を信じていない証拠である。 
 
   観念文と会則から削除 
 
 ゆえに池田は、学会版経本の観念文および改訂した創価学会会則から、「本門戒壇の大御本尊」の九文字を、故意に削除してしまった。池田のこの大謗法の悪念に引きずられて、いま多くの学会員は、恐れげもなく戒壇の大御本尊を蔑り謗っているではないか。成仏の道をふみはずすこと、これより大なるはない。  
 
  ▼ 謗法の邪宗に与同 
 
 富士大石寺に伝わる日蓮大聖人の三大秘法以外は、すべて成仏の叶わぬ邪法である。これら邪法に与し同ずることの不可は、大聖人の堅きお誡めである。
 「何に法華経を信じ給うとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。漆千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(曽谷殿御返事)
 「何に信ずるやうなれども、法華経の御かたきにも知れ知らざれ交わりぬれば、無間地獄は疑いなし」(妙法比丘尼御返事)と。
 また日興上人は遺誡置文に「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」とも誡められている。
 しかるに今の創価学会は平然と謗法に与同している。その目的は選挙とノーベル平和賞獲得のためである。 
 
   全邪宗に友好の「御挨拶」 
 
 選挙のための謗法与同は枚挙にいとまないが、その実例を二・三挙げてみよう。
 衆議院選挙を控えた平成十一年十月七日、池田大作は、全日本仏教会、新日本宗教団体連合会、神社本庁の三団体に、友好を求める「御挨拶」なる文書を届けさせている。文書の名義は公明党代表の神崎武法、届けた使者は同党幹部の河上覃雄ら三人。「御挨拶」には
 「世界平和の確立や文化の振興など有為な活動を推進しておられる貴団体をはじめ宗教界の皆様方とは、本来ならば公党として、広く御意見などを承る機会をお願いすべきでありましたが、従来心ならずも疎遠になっておりましたことについては、大変申し訳なく存じている次第であります。今回、皆様方から御意見や御要望を拝聴する機会を是非ともお願い申し上げたく、わが党の政策や政治にもできる限り反映してまいりたいと考えております」等とある。
 届け先の三団体がどのようなものかといえば、「全日本仏教会」には念仏・真言・禅宗等の既成仏教の六十流派が、「新日本宗教団体連合会」には立正佼成会・霊友会等の新興宗教六十六教団が、そして「神社本庁」には全国八万の神社が、それぞれ加入している。つまり、日本の主だったすべての宗派・教団は、この三団体のいずれかに加入しているのだ。池田大作は、まさに日本の全邪宗に対し、「世界平和のため有為の活動をしておられる貴団体」と敬意を表し、友好を求めたのである。 
 
   立正佼成会開祖の葬儀に参列 
 
 さらにこの「御挨拶」の三日後の十月十日、立正佼成会の開祖・庭野日敬の葬儀が同会本部の「大聖堂」で行われた。池田はなんとこの邪宗の葬儀にも、創価学会代表として、正木正明、西口浩両副会長、松葉成人杉並区青年部長の三人を参列させている。
 「大聖堂」の中央には金ピカの大仏像が置かれ、堂内は邪宗の代表で埋めつくされていた。この謗法の中に同座した正木らは、写真で見るに、今にも泣き出しそうな顔をしている。この忌わしき謗法同座をやらせたのも、池田大作なのである。 
 
   世俗の名利求めて謗法与同 
 
 魔がその身に入れば、人は必ず世俗の名利を求めるようになる。
 すでに述べたごとく、正本堂の完工式にローマ法王の使いの神父を招いたのも、いま世界各地で「ガンジー、キング、池田展」を開催して平和・非暴力をアピールしているのも、その狙いはすべて「ノーベル平和賞」を得んとするところにある。まさに世俗の名利を得るために、外道のキリスト教やヒンズー教と手を携えているのだ。この堕落は、もう日蓮大聖人の門下などとはいうも愚か、まさに外道の弟子である。
 また連日のごとく聖教新聞の一面には、池田大作に贈られたさまざまな名誉称号や名誉市民などの顕彰が、これでもか、これでもかと報道されている。平成十六年一月までに、池田大作が世界各地の大学から贈られた名誉博士・名誉教授等の学位は、実に百五十に達し、名誉市民称号は三百に垂んとしている。このような名誉称号がどのようにして得られたかは、容易に想像がつく。
 広宣流布以前に「悪口罵詈」を受けることは、「法華経の行者」の証明であれば少しも恥ではない。むしろ広布以前にほめられるのが奇怪なのである。ゆえに大聖人は開目抄に
 「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」
 と仰せられる。世界中から名誉称号・勲章を買い漁る池田大作の姿をもし大聖人がご覧あそばせば、何と仰せられるであろうか。
 
 学会員諸氏よ、信心の目を開いて、池田大作の正体を見破らなければいけない。
 日蓮大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を軽んじ蔑り、唯一の御遺命たる国立戒壇を抛ち、謗法の邪宗に与同し、世界中から勲章を買い漁る――この池田大作こそ、天魔その身に入っていま広布の前夜、日蓮大聖人の仏法を破壊せんとする悪師なのである。
 「師は針のごとく、弟子は糸のごとし」という。見よ。池田につく学会員は、あっという間にことごとく、戒壇の大御本尊を蔑り謗り、国立戒壇を否定するようになってしまったではないか。これがどれほど恐ろしいことか、よくよく知らねばならない。
 早く邪師を捨て、日蓮大聖人の御心に叶う清純の信心に立て。さもなければ現世には功徳を失い、後生には悪道に堕すること必定である。
 
 以上、日本国がいま亡びんとする二つの原因を述べた。これを要するに、日本国は七百年前に日蓮大聖人の御頸を刎ね奉る大逆罪を犯しながら今なお背き続け、加えていま大聖人門下は御遺命に違背している――ということに尽きる。前者の仏法違背は広く永く、後者のそれは狭くとも深い。この二悪 鼻を並べるゆえに、いま日本国は亡びんとしているのである。 
 

 結 章 日本に残された時間は少ない 

 
 日本は仏法有縁の国、なかんずく仏教伝来の始めから法華経が渡ってきたという法華経有縁の国である。
 インドはその昔「月氏国」といわれた。この国に出現した釈迦仏の仏法は、月が西より東へ移るように、インドから中国・朝鮮を経て極東の日本に留まった。そして末法には、日本国に出現された日蓮大聖人の下種仏法が、日が東より出るように、まず日本に広宣流布したのち、中国・インドそして全世界へと広まり、末法・闘諍堅固の闇を照らすのである。 
 
   聖徳太子の仏法守護 
 
 日本に仏教が伝来したのは欽明天皇の治十三年(五五二)である。このとき物部、中臣等の諸豪族は日本古来の神々に固執して、異国の仏を激しく排斥した。
 しかしその中に、聖徳太子は敢然と仏法を擁護し、物部守屋等と戦ってこれを打ち破り、ついに仏法を根底に据えた国家を築き上げた。推古二年(五九四)の「三宝(仏・法・僧)興隆」の詔勅こそ、日本が始めて仏法を国教としたその宣言であった。
 当時アジアの状勢は、隋が中国を統一して強大な威勢を誇り、朝鮮半島の百済・新羅の二国などはその威を恐れ、たちまちに服属したほどであった。その隋の煬帝に対し、聖徳太子は対等の国交を求めて国書を送っている。
 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや……」と。
 世界帝国の君主を自負していた煬帝は、この書を見て大いに怒ったという。しかし日本の蔑るべからざるを心に感じ、対等の国交を認めている。今日の日本の政治家たちの、中国への卑しいまでの諂いを見るとき、天地の隔たりを感ずる。
 飛鳥の日本のこの気概こそ、実に仏法に基づく確信より発しているのである 
 
   伝教大師の法華経宣揚 
 
 その後仏法は大いに興隆する。しかし六宗があっても経の勝劣に迷い、したがって世は乱れた。
 このとき伝教大師が出現する。聖徳太子の約二百年後である。仏法の乱れを見た伝教大師は、桓武天皇に奏して奈良の六宗と公場対決を遂げ、そのことごとくを帰伏せしめた。ここに法華経最第一の正義は日本に輝き、仏法は再び衆生を救う。このさまを大聖人は
 「日本の仏法唯一門なり、王法も二に非ず。法定まり、国清めり」(四信五品抄)と。
 法華経が国の根底として確立されたことにより、王法の威も増し、ここに平安の日本が現出したのであった。
 このように日本は仏法有縁の国、なかんずく法華経有縁の国であった。そして聖徳太子が法華経および維摩経・勝鬘経を鎮護国家の三部と定めたのも、伝教大師が京都の比叡山に法華経の迹門の戒壇を建立したのも、その目的は、唯に当時の人々を利益するだけでなく、遠く末法の御本仏出現の序、すなわち日蓮大聖人の三大秘法弘通の露払いを果たすところにあった。
 ゆえに伝教大師は守護国界章において
 「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り。法華一乗の機、今正しく是れ其の時なり」――釈尊滅後の正像二千年はここに過ぎおわり、末法は甚だ近くにある。法華経の肝心たる南無妙法蓮華経が流布するのは、まさしくその時である――と述べ、末法の始めの御本仏出現を恋慕している。 
 
   御本仏出現 
 
 かくて末法の世を迎え、御本仏日蓮大聖人が出現され、根源の大法・南無妙法蓮華経をもって全人類を救済される。全人類にとって、成仏の叶う唯一の大法を、身命も惜しまずお勧め下さるこの仏様こそ、まさしく主君であり、師匠であり、父母であられる。
 しかるに当時の日本国一同は、この主・師・親三徳の日蓮大聖人を悪口罵詈し、流罪し、ついには御頸までも刎ねんとした。この悪逆を見て、どうして諸天が怒らぬことがあろうか。ここに一国を罰する大災難が起きたのである。
 さらに御入滅後においても、日本一同がいつまでも背き続け、加えて門下までも御遺命に背いて仏法を乱す時が来れば、諸天はこれを許さず、覚醒せしむるために大罰を下す。これが、いま起こらんとしている広布前夜の亡国の大難なのである。
 大聖人はこの在世・滅後の二つの大災難の様相を、新尼抄に一文を以て兼ねて示されている。
 「末法の始めに謗法の法師・一閻浮提に充満して、諸天怒りをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、乃至、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん」と。
 ――私が本書の冒頭に「まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆・他国侵逼が起こる」と記したのは、まさしく立正安国論およびこの御文による。まもなく日本にこの大災難が必ず相次いで起こる。ゆえに前もってこれを告げ知らせたのである。
 御文を拝する――まず「諸天怒りをなし」とある。次文以下の諸災難のすべてが諸天の力用によること、刮目してみるべきである。「彗星は一天に……」はすでに平成九年に現じている。「大地は大波のごとくをどらむ」はまもなく始まる巨大地震。「大旱魃・大火・大水・大風」は異常気象による大災害。これら自然の猛威の前には、人間は全くの無力となる。「大疫病」とは感染症の大流行。「大飢饉」とは食糧危機と経済的飢渇たる国家破産。「大兵乱」とは自界叛逆と他国侵逼である。そして「一閻浮提(全世界)の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時」とは、地球規模の大戦乱が起き、世界中の人々が武器を手にする時――ということである。いま大量破壊兵器は地球上に拡散し、反米の嵐は収まるところを知らず世界に広がっている。いずれ国際テロ組織は大量破壊兵器を手に入れるであろう。このテロ組織を背後で操る国々もある。そしてついには米中対決にいたる。まさしく世界中が殺気立ち、武器を手にする時が来るのである。その結果、「諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時」となる。
 この人類滅亡にいたる恐ろしき末法濁悪の未来のため、大聖人は「五字の大曼荼羅」すなわち本門戒壇の大御本尊を、日本国に留め置き給うたのである。
 「火宅にあそぶ子」のような今の日本の人々には、この大災難はまだ実感が湧かぬかも知れぬ。だから日蓮大聖人を軽賤している。だが、もし、このとおりになったら、その時どうする――。 
 
   残された時間は少ない 
 
 早く日本一同に一切の謗法を捨てて日蓮大聖人を信じ、一国の総意を以て「本門戒壇」を建立して仏国を築かねばならぬ。さもなければ国がもたない。
 すでに聖徳太子、伝教大師・桓武天皇の先例があるではないか。仏法有縁の国・日本の皇室の一大使命は、仏法守護にある。そして仏法を守護すれば王法の威も増す。このことは飛鳥・平安の日本を見れば瞭然である。
 いまの皇室に、キリスト教の影しのび寄るは憂いにたえない。早く三大秘法を受持されんこと、法のため、国のため、皇室のため、私は熱願している。
 大聖人は「今の国主も又是くの如し。現世安穏・後生善処なるべき此の大白法を信じて国土に弘め給わば、万国に其の身を仰がれ、後代に賢人の名を留め給うべし」(法華初心成仏抄)
 とも仰せられている。この日の来ることを私は確信している。そして日本の現状よりみれば、まず全国民の熱烈なる信心があって、この日が招来されるものと思われる。
 かくて「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて」は実現し、国家意志が表明され、本門戒壇は末法濁悪の世に厳然と屹立する。このとき始めて日本は、金剛不壊の仏国となるのである。
 
 急がねばならぬ――。すでに巨大地震、国家破産等は足元に迫っているではないか。国際情勢の変化もまことに急テンポである。日本が国際テロ組織の標的になるなど、つい最近まで誰人が予想したであろうか。朝鮮半島、台湾海峡もいつ火を吹くかわからない。
 尖閣諸島の領有権問題は、必ず日中の発火点となる。中国は海底資源のみならず軍事目的もあるから、必ずこれを奪取するに違いない。その瀬踏みが、この三月二十四日に行われている。中国活動家七人が尖閣諸島に不法上陸した。日本の警察はこれを逮捕した。その翌日、中国外務省は「中国の領土主権と中国公民に対する重大な挑発である。即時釈放せよ」と日本を非難し、駐日中国大使館はこの逮捕を「日本の警察による拉致」とまで批判した。同時に、北京の日本大使館には多数の中国人活動家が押しかけ、「日の丸」を燃やし、「日本人を倒せ、出ていけ」と気勢を上げた。日本政府は、国家主権侵害という重大事件であったにもかかわらず、中国の威勢を恐れて逮捕の二日後、あわてて七人を中国へ送還している。この中国活動家たちの一連行動が、中国政府のやらせであることは火を見るより明らかである。
 江沢民以後の中国は、反日を国家戦略としている。二〇〇〇年八月には、憎日の怨念を中国人民の胸に刷り込むための大規模な「抗日戦争記念彫塑公園」を造り、さらに同年十一月には、旧日本軍の残虐をことさらに誇張捏造した「南京大虐殺記念館」を開設している。そして本年三月一日からはこの記念館の入館料を無料とし、若者の憎日感情を煽っている。その延長線上に、今回の尖閣不法上陸が起きているのだ。
 中国共産党は、党に対する人民の憤懣を、日本を憎ませることによって逸らそうとしているのであるから、この政策が変わることはあり得ない。やがて憎日の火は、中国全土に広がり十三億人民の胸に燃え上がろう。この成り行きも、すべてはこれ諸天の働きである。そしてついに
 「時に隣国の怨敵、かくの如き念を興さん。当に四兵を具して彼の国土を壊るべし」(報恩抄)
 は事実となる。日本に残された時間は少ない――。立正安国論の「其の時、何んが為んや」同奥書の「未来亦然るべきか」の仏語は重い。
 早く日蓮大聖人の仏法を根底にした新しい日本を築かなければならない。さもなければ取り返しのつかぬことになる――。 
 
 
 
 
 

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